殺せない殺し屋と眠れない夜
自室に続く長い廊下を歩きながら、レイラは頭の中で現段階におけるこの国の勢力について整理していた。
この国の勢力は、王族の血が流れる由緒正しい大公、グレゴリー卿が率いる《鶏旦》と、王家の血を引いていない大公、モートン卿が率いる《夜鷹》の二つに分かれている。
そして各派閥には大公の他に 伯爵家が三家ずつ属していた。
王家の血筋を濃く継いでいるグレゴリー卿の派閥《鶏旦》には、自然と王家の血筋を引く伯爵家が集まった。
ケンブリッジ伯爵にスペンサー伯爵、ローズベリー伯爵がその御三家だ。
対するモートン卿率いる《夜鷹》には、リヴォーグ伯爵、フォーブス伯爵、サラバン伯爵が集っていた。
この三家は王家の血を引いていない伯爵家だが、モートン卿が仕込んだ裏工作により、今の地位を獲得することができた。
両派閥に三家ずつ伯爵家が属していることで、両者の勢力は拮抗していたが、国民の暮らしを良くするための政治を目指している鶏旦と、勢力を広げるために隣国に戦争をしかけたい夜鷹とでは、提案する政治方針が全くといっていいほど異なった。
意見が二つに割れたとき、国王は王家の血筋を引くグレゴリー卿を贔屓目に見た。
それがモートン卿には癪だった。
そこで、モートン卿は、自分が政界を牛耳るためには、今ある勢力図を崩すしかないと考えた。
そのような経緯があり、今回スペンサー伯爵暗殺を企てるに至ったのだ。
鶏旦の中でも隣国との外交業務を一身に任されているスペンサー伯爵は、隣国を滅ぼしたいと考えているモートン卿にとって消してしまいたい目障りな存在だった。
スペンサー伯爵が消えたことで、今後、政界の勢力は大きくモートン卿側に傾いていくだろう。
早ければ明日の朝にでも事件の詳細が新聞で取り上げられ、国は蜂の巣をつついたような騒ぎになるはずだ。
モートン卿が本当に戦争をするつもりなのかは知らないが、レイラはただ、今夜を最後に殺しなどしないで済むようになればいいと願った。
政界を牛耳ることができれば、モートン卿は実質この国の国王にも劣らない権力を握ることになるのだ。
それで満足してくれればいい。
* * *
レイラが自分の部屋の前に着くと、そこには執事のディーンの姿があり、どうやら彼は会議の間、扉の前でレイラの帰りを待っていたらしかった。
ディーンはレイラの姿を捉えるなり深々と腰を折った。
「お疲れ様でした、モルテ様。こちらホットミルクとクラッカーでございます。お夕食に手を付けられておりませんでしたので。よろしければお召し上がりください」
ディーンはクラッカーとホットミルクの乗ったお盆をレイラに差し出し、「では、ごゆっくりお休みください」と頭を下げた。
お盆を受け取りながら、良く見れば彼の手には今度はきちんと手袋がされていた。
おそらく集会が開かれている間に部屋に取りに戻ったのだろう。
そしてレイラのために夜食を用意して、眠いだろうに戻ってくるまで待っていてくれたのだ。
「ちょっと待って」
レイラはこの屋敷の人間を毛嫌いしていたが、ディーンだけは幼いころから面倒を見てくれていることもあり、少し心を許しているところがあった。
屋敷にいる召使いたちは、レイラのことを陰で何をしているか分からないモートン卿の側近として怖れ、陰口を叩き、腫れものに触れるように扱った。
しかしディーンだけは、レイラに対して偏見を持たず、他の貴族やモートン卿に対して接するのと同じように、いち執事として接してくれた。
たったそれだけのことが、レイラには有難かった。
レイラはディーンが渡してくれたお盆を、部屋の扉を開けてすぐ横にある台の上に置くと、急いでディーンに歩み寄り、いつも胸ポケットに忍ばせて持ち歩いている傷薬を取り出し、差し出した。
「……あげる。おやすみなさい」
レイラは半ば一方的にディーンに傷薬を押し付けて、お礼を言われる前にくるりと背を向け、そのまま扉を閉めた。
わざわざ振り向かなくても、ディーンが感謝の意を表すために律儀に頭を下げていることは分かっていた。
身分のせいで勤め先を選べないでいるが、彼はモートン卿に仕えるには勿体ない執事なのだ。
* * *
レイラはモートン卿から、数えきれないほどある空き部屋のうち、裏口に最も近い部屋を貸し与えられていた。
屋敷の西端に追いやられたその部屋は、手下一人に与えるにしては大きすぎる部屋で、身分の低いレイラが生活するには気が引けるほど高価な装飾が施されていた。
しかしその部屋の扱いはといえば、物置さながらほったらかしだった。
部屋の掃除はレイラが自分で行っていたし、レイラ以外の人間が部屋に入ることはなかったので、冬にうっかり暖炉の薪をくべ忘れて外出したときには、寒さのあまり歯ぎしりをすることになった。
もちろん今夜のように寂しい夜だって、先回りして部屋の明かりを灯しておいてくれる人などいない。
──最後に「ただいま」を口にしたのはいつのことだろう。
レイラはしばらく閉めた扉に背を預けていたが、やがてディーンが持って来てくれたクラッカーとミルクのお盆をベッドサイドのテーブルに持って行き、ベッド横にあるガラス細工が綺麗なランプを点けた。
オレンジ色の柔らかな明かりが仄かに枕元を照らし出す。
眠れない夜は、こうしてわずかな明かりを頼りに、夜通し本を読むことにしている。
この屋敷には数えきれないほどの書物があり、レイラはモートン卿からそれらを自由に閲覧することを許されていた。
下賤の身でありながら文字を読めるのは、モートン卿が家庭教師をつけていたからであるが、もちろんそれは文学を嗜むためではなく、報告書を書いたり読んだりさせるためだった。
卿の目論見がどうであれ、レイラは自分が文字を読むことができて、本を読む楽しみを失わずに済んで良かったと思っている。
今夜も例のごとく、本でも読んで夜をやり過ごそうとしていると、どうにも上手くいかない。
さしずめいつものやり方が通用しないほど、胸がざわついて収集がとれなくなっているのだろう。
どうしたものか。
レイラは本を脇に置き、うつぶせになって枕に顔をうずめた。
──人を殺めたのは別に初めてのことじゃない。
物心がついたころからモートン郷に人を殺める技術を仕込まれ、前任の殺し屋の補佐役として現場に同行していた。
そのときまるで虫でもつぶすように無慈悲に人が殺されるところを目の当たりにしたし、それどころか実際に自分で手を下したこともある。
しかし、いくら場数を踏んだところで、人を殺めることに慣れるわけではないらしい。
レイラは体を起こし、手の平を開く。
「まだ、震えてる」
人を殺めた夜は決まってこうだ。
拳銃を撃つときは平気なのに、後になってから震えだす。
そして心臓がドクドクと大きく脈打ち、朝になるまで眠れない。
レイラは神様が怒っているのだと思っていた。
神様が私を叱責している。
《お前のしていることは間違っている》のだと。
体の内から咎めている。
「ごめんなさい」とレイラは呟く。
自然と涙が頬を伝う。
ベッドから下りて、バルコニーの窓を開ける。
外の風に当たりたい。
頬を伝う涙をぐっとぬぐい、月を見上げれば、ふわり、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
それはレイラがバルコニーで育てているクチナシの香りだった。
真っ白な花弁を凛と咲かせているクチナシから溢れる香りを、肌を撫でる冷たい夜風が、あたりに心地よく漂わせていた。
その香りに包まれていると、母に抱きしめられているような錯覚がして、多幸感で満たされる。
クチナシは母の大好きな花だった。
母が使っていた香水や化粧品はどれもクチナシの香りのもので、家の庭でも大切に育てていた。
レイラにとってクチナシは母を象徴する花であり、『おかえり』と玄関で抱きしめられたとき、眠れない夜に腕枕をしてもらったとき、髪をブラシで梳いてもらったとき、幼い頃のやさしい記憶からはどれもクチナシの香りがした。
レイラの母は、レイラがほんの八歳ごろに病気で亡くなった。
父親を知らないレイラは、頼れる兄妹や親戚もなく、しばらく家にある食料で食いつないでいたが、やがてそれも尽きるとゴミ箱を漁り物乞いをして歩くようになった。
気に入っていた服もお金にするために売り払ってしまったので、間に合わせにほつれた薄い麻の布を身にまとい、冬は寒さに震えて野良猫で暖を取った。
そのように路頭に迷っていたレイラだが、ある日、路上に座り込んでいると、偶然通りかかったシスターに手を差し伸べられ、その出会いをきっかけに修道院で育てられることになる。
「お嬢ちゃん、ひとり?」
シスターはしゃがみ込んでレイラに問いかけた。
物腰の柔らかい中年の、優しそうなシスターだった。
もう三ヵ月人と話していなかったので、上手く声が出せず、ただ頷いた。
物を恵んでもらおうと、手の平を差し出す。
しかしシスターはお金をあげるつもりで声をかけたわけではないらしく、代わりにレイラの小さな手を両手で包み込んだ。
ある日突然、自分を守り育ててくれるはずの大人を失い、心細さと必死で戦っていたレイラにとって、シスターの手から伝わる温もりは、不意に垂らされた蜘蛛の糸のようだった。
レイラを驚かさないよう気を付けながら、シスターは目線を合わせて問いかける。
「お母さんはどうしたの?」
訊かれて大粒の涙がレイラの目に浮かぶ。
首を横に振ることしかできない。
「お家はあるの?」
レイラはゆっくりと頷いた。
ここから近いのかと聞かれたのでまた頷く。
シスターはレイラの頬をやさしく撫で、
「辛かったわね。私をあなたのお家に連れて行ってくれる?」
レイラは立ち上がり、言われるがままシスターを自分の家に案内した。
そして家に着くと、家を見たシスターは目を丸くして、ニヤリと口角を上げた。
彼女のその笑い方は、今考えると、笑顔というにはいささか不気味な笑い方だった。
「あらすごい、こんなに立派なお家を持っているのね」
シスターは小声で独り言を言ったけれど、レイラにはよく聞こえなかった。
シスターはレイラの肩に手を置いて微笑み、提案した。
「お嬢ちゃん、修道院に来てみない? ちょうどあなたと同じ年頃の子がたくさんいるのよ。私ならあなたに食べ物と住むところを用意してあげられる。もちろん、家事のお手伝いや、畑仕事はしてもらうことになるけれど、少なくとも今日みたいな寒い日に、あんな小汚い路地で惨めに物乞いなんかしなくて済むわ」
レイラはシスターの言葉を聞いて、その修道院というところに行けば、また母と暮らしていたときのように、誰かが作ってくれた温かい食事を、「おいしいね」と言いながら食べることができるのだろうかと考えた。
レイラはもう独りぼっちの毎日に耐えられそうになかった。
これから先もずっと、惨めに膝を抱えてうずくまる日々が続くのかと思うと、夜の寒さを想像するだけで泣いてしまいそうだった。
どこでもいいから、温もりのあるところに行きたい。
シスターが用意してくれるというそこは、きっと自分の探している場所に違いない。
レイラはシスターの服の裾をきゅっと掴んで頷いた。
しかし幼いレイラはまだ知らなかったのだ。
この世に存在する悪人すべてが、分かりやすく悪魔のような顔をしているわけではないのだということを。
──事実、修道院での日々は、路上での日々より酷いものだった。
レイラはシスターに声を掛けられたその日、何も持たずに、そのまま彼女と一緒に修道院へ行った。
シスターの言っていた通り、そこにはレイラと同じように居場所のない少年少女が集い、ひとつ屋根の下で暮らしていた。
同年代の子もいたし、レイラよりもっと幼い、四~五歳くらいの子や、十五歳前後の年上の少年少女までたくさんいた。
しかし、本来なら学校に通っているはずの年の子供たちは、みな畑仕事や針仕事に追われて、学校に行く暇などないようだった。
ところが、これだけ働いているというのに修道院は貧乏で、与えられる食事は、ほとんど水のような粥だけだった。
栄養が足りていない子供たちはやせ細り、浜辺に打ち上げられた魚のように虚ろな目をしていた。
頭の良いレイラは、子供たちの稼ぎと、食費や修道院の運営費が釣り合わないことに気づき、一度それとなく尋ねてみたことがある。
鋭い質問だったがシスターは狼狽えず、いかにもな返事をした。
『みんなが稼いだお金はね、ここより貧しい修道院に寄付しているのよ。世の中には私たちより苦しい思いをしている子がたくさんいるの。助け合って生きなくちゃ』
シスターを母親のように慕っていたレイラは、彼女の言葉を安易に信じた。
体力のいる畑仕事や、冷たい水に触れなければならないお皿洗い、慣れない裁縫。
真面目で頑張り屋なレイラは、シスターに教えられた仕事を一生懸命こなした。
早く慣れてみんなに追いつきたかったし、『頑張っているね』とシスターに褒められれば嬉しかった。
ここにいていいのだと安心できたから。
しかしある日、レイラの心を砕く事件が起きた。
レイラは修道院で暮らす中で、同い年の《ミア》という少女と親しくなった。
ミアも両親を幼い頃に病気で亡くし、路頭に迷っていたところをシスターに拾われたらしい。
ミアは女の子らしい体つきをしており、色が白く、愛嬌のある顔立ちをしていた。
孤児というには可愛らしすぎる容姿をしていたミアは、そのせいで惨事に巻き込まれることになる。
子供たちが集まり食堂で夕食をとっていると、ミアがシスターの一人に呼び出され、顔を寄せて話し込んでいた。
シスターに耳打ちされる言葉を、ミアは神妙な面持ちで聞いていたが、一度頷くごとに頬が緩み、柔らかな笑顔に変わっていった。
いつもなら空腹のあまり食べ物にがっついてしまうレイラなのだが、この日はミアとシスターの会話の内容が気になり、食事が進まなかった。
やがて席を外していたミアが嬉しそうに戻ってきたので、すかさずレイラは「シスターと何の話をしていたの?」と訊いた。
ミアはにこっと笑い、
「この前教会で賛美歌を歌っていたとき、私を見染めてくださった貴族の方がいるらしいの! それで、その方が私をお庭で育てているお花の売り子として雇ってくれるんですって」
ミアは両手を組み合わせ、うっとりとした様子で続けた。
「貴族の方の屋敷に住まわせてもらえるなんて夢みたい。毎日おいしいご飯をおなか一杯食べられるわ。それに花の売り子ですもの。きっとこんな継ぎはぎの服じゃなく、素敵なドレスを着させてもらえるわ! なんて贅沢……!」
──翌日、本当に貴族がミアを迎えにきた。
レイラはその貴族について良く知らなかったが、やって来たその男が身につけている光沢のあるタキシードや、帽子、ステッキ、馬車、シスターたちが深々とお辞儀をしている様子などから、彼が貴族の中でもかなり上の位の人物であることを察した。
レイラは修道院の暮らしから抜け出せるミアのことを、羨ましいと思わないわけではなかったが、かといって、その貴族の屋敷で暮らすことに強い憧れを抱いているわけでもなかった。
というのも、ミアの引き取り手であるその貴族の男は、丸々と太っていて、額に脂汗を浮かべており、お世辞にも仕えたいと思える人物ではなかったのだ。
しかも年齢は自分たちの倍以上はありそうだったし、お金持ちなのに結婚適齢期を過ぎているというのは、この男と結婚したがる物好きな女性がいない証だろう。
もし自分がミアだったなら、いくら豊かな生活ができるとしても、この男に仕えるなんて嫌だ。
きっと修道院で暮らす方を選んでしまう。
しかしミアは貴族への憧れが強かった。
食事のときや眠る前、ミアが夢物語のように語るのは、いつも貴族の女の子が身につけているドレスや髪飾り、おいしそうなスイーツの話。
ミアは貴族に憧憬がないレイラと異なり、少しでも貴族の暮らしをさせてもらえるのであれば、引き取り手がどんな貴族でも構わないらしかった。
レイラはミアがいない生活を思い描き、無性に寂しくなったが、離れ離れになっても彼女が幸せに暮らせるのであればそれで良いと言い聞かせた。
別れ際、ミアは月に一度、教会で開かれる賛美歌には変わらず出席すると約束してくれた。二度と会えないわけではないことが救いだった。
──しかし次の賛美歌のときだった。
すっかり様変わりしたミアがレイラに泣きついてきたのは。
ミアはその日、賛美歌のピアノを弾くことになっていた。
レイラが舞台袖でミアが来るのを待っていると、彼女は出番直前にようやく現れた。
従者に手を添えられ馬車から降りてきたミアは、かつて貴族の男に引き取られる前に夢見ていたような花飾りを頭に付け、レイラに何度も語って聞かせた、お嬢様が着るようなピンク色の生地にレースがあしらわれたドレスに身を包んでいた。
レイラはほっとした。
ミアはあの見た目は悪いが金持ちの貴族のもとで、不自由ない生活を送っている。
ちゃんと、幸せに生きているのだと。
しかし馬車から降りたミアは、レイラと視線が合うなり目に涙を溜めた。
そして靴が脱げるのも構わず駆け出し、レイラに抱き着いた。
信じられないほど強い力で抱き着いてくるので、レイラは転ばないようにするので精一杯だった。
「ミア様!」
脱げた靴を拾った従者がこちらへ駆けて来る。
「来ないで! あっちへ行って!」
レイラにしがみついたままミアは叫んだ。
「しかし、お靴が……」
「いらない! 早く帰って!」
怒鳴られて従者は、困った様子でしばらく立ち尽くしていたが、結局その靴を置いて立ち去った。
レイラは修道院に来てから、ミアが誰かに口調を荒げて怒鳴りつけるところを見たことがなかったので、彼女の従者に対する冷たい態度に困惑した。
「ミア、どうしたの? 従者の人にあんな言い方して……。足、冷たいでしょう? 靴履こう? 」
ミアは裸足で冷たい石畳の上に立っていた。
レイラが顔を覗き込んで優しく声を掛ければ、ミアはこらえきれなくなったように大粒の涙を零し、大人しく頷いた。
レイラはミアを教会の裏口の階段に座らせ、従者が置いていった靴を拾い、持ってきた。
そして靴を履かせようとドレスの裾を持ち上げれば、彼女の陶器のように白くてやわらかな足が露わになる。
──と、レイラは短く息を飲んだ。
彼女の脚にはまばらに薄紫の跡があり、足首には、まるで足枷でも嵌められていたかのような跡が残っていた。
なんとか靴を履かせたが、レイラは無言で、痛々しい跡の理由を訊いて良いものか悩んでいた。
ミアにとって話したくないことかもしれない、と思えば、どう切り出せばいいのか分からなかった。
(──あの貴族の屋敷で、ミアの身に何があったのだろう)
レイラは跪いたまま、親友にこんな仕打ちをした人物に対して、沸々と怒りが沸き上がってくるのを感じていた。
ミアはしばらく顔を手で覆って泣いていたが、やがて話せる状態になると、レイラに横に座るよう促し、貴族の男、シュバイン伯爵に引き取られてからのことについて語り始めた。
「……はじめは、綺麗なドレスや豪華な食事に胸を躍らせていたの。花を売るのも頑張ったわ。でも、だんだん伯爵が部屋を訪れる回数が多くなって、そのうち身体に触れてくるようになった。……嫌だったけど、あからさまに拒絶することができなくて、我慢していたらエスカレートしていった。さすがに服を脱がされた時は暴れて抵抗したわ。だけど激情した伯爵に頬を打たれて、ベッドに手錠で固定された。それでも必死に足で蹴飛ばしたんだけど、動けないように足枷を嵌められて、もう……、それ以上はどうしようもなくて……」
ミアが言葉に詰まるたび、レイラは怒りでこぶしを握りしめ、手のひらに爪が食い込んだ。ミアの口から語られたシュバイン伯爵の仕打ちはとても許しがたいことだった。
話し終わる頃にはミアはだいぶ落ち着きを取り戻していて、まだ少ししゃくりあげてはいたけれど、目から涙は引いていた。
「急にごめん。こんな話……、困るよね」
大丈夫だよ、と肩をさすれば、ミアは何度か小さく頷き、ありがとう、と呟いた。
「レイラ、気を付けて。シスターたちを信用してはダメ。私があの伯爵の家から逃げ出せないのは修道院へ帰ることができないからなの」
「帰ることができない?」
「ええ。体のいい話、売り飛ばされたみたい。私は伯爵の奴隷にされたのよ。そしてそれによって生じたお金はすべてシスターたちの元へいく。私のところへは一銭も入ってこない。だからレイラ、どんな時も目立ってはダメよ。みすぼらしい格好をして、貴族が参拝している前で賛美歌を歌うときは顔が見えないように俯くの。いい? 約束して。レイラは美人だから心配なの。私、このことをどうしてもレイラに伝えなきゃと思って、手紙を書こうとしたんだけど、そんな自由は与えられなかった。だから今日しかチャンスはないと思って……」
ミアはレイラを見つめ、懸命に訴えた。
レイラは分かった、と頷いた。
「私、もうあいつの屋敷には帰らない」
強い意志を目に宿してミアが言った。
「でも、だからといって修道院に居場所はないし……。路上で物乞いをして生きることにするわ。あの屋敷に戻るくらいなら、臭くても汚くても、ゴミを漁って暮らした方がマシだもの」
ミアはおそらく、レイラに心配させまいと気丈に振る舞っているが、きっと本心では心細いに違いなかった。
強くならなくてはと狼煙を上げたところで、中身は女の子らしくて優しい、自分より人を思いやる泣き虫なミアだ。
「だったらミア。私の家に行くといいわ。私が昔住んでいたお家。食料はないし、水道も使えないと思うけど、雨風をしのぐくらいならできるはず」
レイラの提案にミアは驚く。
「レイラ、お家を持っていたの? すごいじゃない!」
一瞬だがミアの瞳から憎悪が引く。
そこにいるのは修道院で共に過ごしてきた、無邪気に笑うミアだった。
「うん、でも本当に、寝泊まりすることしかできないと思うけど」
「十分よ!」
ミアは目を輝かせた。
しかしすぐ心細そうに目を伏せる。
「……でも、それなら私、そこでレイラと一緒に暮らしたい。レイラが許してくれるなら、二人で修道院から抜け出したい」
そっとレイラの顔色を窺う。
ミアがこんな仕打ちを受けていると知ったいま、レイラはこのままミアを放っておけないと思った。
「そうね、大人たちに支配されず、二人で生きることができるなら──。うん、決めた! 私も修道院には帰らない。ミアと一緒に暮らす」
レイラの言葉にミアは飛び上がって喜んだ。
しばらく満面の笑みを浮かべていたが、ふと我に返り、レイラを気遣う。
「ごめんなさい、レイラ。私、一人で先走っちゃっているわよね。急な提案で迷惑じゃない? 良く考えて。レイラは無理に私に付き合うことないんだよ。この先どうなるか分からないし、レイラは修道院で暮らした方が……」
「いいの。私はミアと一緒にいたいの」
半ば言葉を遮るように、レイラがびしゃりと答えたので、ミアもほっとしたようだった。
そして二人は賛美歌を放棄して、幼い頃レイラが暮らしていた家へと向かった。
修道院で義務として課せられている行事を投げ出すのは二人にとって初めてのことだった。
それくらいの強い覚悟と意思を持って修道院から逃げ出したのだ。
帰る場所などもうどこにもない。
* * *
(家に帰ろう)
呪文のように心の中で唱えながら歩いて、ようやく目的の場所に着いたとき、レイラは声が出なかった。
──家が無くなっていたのだ。
より正確に表現すると、《母との思い出が詰まった家》が無くなっていた。
レイラの目に飛び込んできたのは、《レイラの知っている家》ではなく、《他人が暮らす知らない家》だった。
レイラとミアが辿り着いた場所に、家自体はちゃんとあったのだが、知らない人たちが暮らしていた。
かつてクチナシが植えられていた庭は畑に変えられ、見慣れない作物が育てられていた。
そしてその側には新たに鶏小屋が作られ、小さな女の子が卵を取るのに奮闘していた。
家の前で立ち尽くすレイラを、心配そうにミアは見つめた。
いてもたってもいられなくなり、レイラは駆けだした。
家の扉を叩く。
「あの! すみません! ここ、私の家なんですけど!」
ドンドン!と力を込めて扉を叩くレイラ。
慌ててミアが駆けてくる。
「待ってレイラ!」
「どちら様?」
何度目かのノックで扉が開けられ、中から品の良い身なりをした貴婦人が顔を出した。
「ここ、私の家なんです」
貴婦人は二人の服装を見て顔を歪めた。
「やだ。あなたたち物乞い? ごめんなさいね。うちはそういう子たちには何も恵まないことにしているのよ。勘違いしないでね。貧しいわけじゃないのよ。ただ、一人にあげると他の子も来てキリがないから……」
「違います! 物乞いなんかじゃありません!」
悔しさで裏返るレイラの声。
「この家は私が住んでいた家なんです! わけあって修道院で暮らすことになりましたが、ここはお母さんとの思い出が詰まった大切な場所なんです」
貴婦人は不思議そうな顔をした。
「あら、じゃあ、あなたが前の家主の娘さんなのかしら? ……でも、だとしても私、ちゃんとシスターに話を通してあるわ。あなた、修道院で衣食住を提供してもらう代わりにこの家を売ることにしたんでしょう? 夫は示された金額をきっちり支払ったはずよ。だからもう、正真正銘、この家は私たちのもの。もうあなたのものじゃないわ。それでも《自分の家だ》というのなら……そうね、私たちが支払ったお金を全部返してちょうだい。話はそこからね」
子ども相手に勝ち誇ったように貴婦人は言った。
修道院で暮らす子供に支払える額ではないと分かっていながら、自分で買い戻せなんて意地が悪い。
歯ぎしりをして睨みをきかせれば、それが気に入らなかったのか、
「あなたたち、今回は見逃してあげるけど、あまりしつこいと修道院に連絡させてもらいますからね」
貴婦人は捨て台詞を吐いてガシャンと扉を閉めた。
「レイラ……」
閉じられた扉の前で、どうしたら良いのか分からずにミアがレイラの名前を呼んだ。
しかしいまのレイラには、いつものように「大丈夫だよ」と強がれるだけの余裕がなかった。
歩く気力もなく、首を回して家の周りを人通り眺めてみたが、庭に咲いていたクチナシは一本残らず無くなっていた。
「お母さん……」
レイラは呆然と立ち尽くし、数秒後泣き崩れた。
──その後だった。
モートン卿に出会ったのは。
ミアとレイラが修道院に戻ると、シスターが二人を待ち構えていた。
そしてお仕置き部屋へ連れて行かれ、頬を打たれた。
衝撃で口の中が切れる。
これまでシスターに手を上げられたことがなかったので、レイラは驚いた。
「あなたたちには失望しました」
冷たい声で言い放つと、シスターはミアを引きっとていた貴族に謝り、ミアを再度引き渡した。
レイラは罰として一週間牢屋に入れられ、牢屋から出た後は下働きの仕事ばかりさせられた。
度重なる重労働と栄養失調で朦朧とする意識の中、レイラは絶えずミアが伯爵からひどい仕打ちを受けているのではないかと心配した。
早くミアを助けなくては。
きっと今頃泣いている。
レイラは仕事を終え、自室に戻ると、シスターたちに見つからないよう石を研いだ。
やがて刃物のように鋭くなったその石を隠し持ち、ある日、レイラは水汲みの帰り道、誰にも見られないよう、路地裏から街に出た。
目的地はただ一つ。
とにかくミアを連れ出さなくてはならない。
ミアを助けられるのは、自分以外にいないのだから。
レイラは人通りが減る夜になってから、シュバイン伯爵の屋敷に忍び込んだ。
正門には鍵がかかっていたので裏口を探した。
大人にとって草木で身を隠しながら小さな隙間を潜り抜けるのは難しいことだが、華奢で体の小さいレイラには簡単なことだった。
庭を進み、家主が飼っている犬が出入りするために取り付けられた小さな扉から屋敷の中に入る。
深夜だからか警備が薄く、誰にも遭遇しなかった。
ミアはどこの部屋にいるのだろう。
二階に上がり、廊下を歩きながら、もしかしたらミアはあの貴族の寝室にいるかもしれないと思いついた。
寝室の見分け方が分からなかったので、とりあえず片っ端から目に入った扉を開けてみる。
目の前にある部屋の扉を開けようとしたその瞬間、ガタガタ! と、大きな物音が中から響いてきた。
レイラはそっとドアノブから手を離し、扉に耳を当てて中の様子を伺った。
──おかしい。
確かに物音がしたはずなのに、誰も起きている気配がしない。
レイラは全神経を集中して、耳をそばだてた。
「助けて、殺さないで……」
微かに聞こえてきた声に目を見開く。
そのか細い声は、間違いなくミアのものだった。
中の様子が知りたくて、レイラはゆっくりと、小指の爪ほどだけ扉を開く。
その隙間から右目で部屋の中を覗き込む。
するとそこには黒い服に身を包んだ男がいて、ミアに銃口を向けていた。
ミアははだけた格好もそのままに、涙を流して座り込んでいる。
その横には血まみれになって倒れている大男。
薄目にしか見えないので判断しづらいが、その大男はおそらくシュバイン伯爵だろう。
(なんだ、あいつは死んだのか)
自分で手を下すまでもなく、何者かによって伯爵が殺されたことに肩透かしを食らいつつ、しかしそれどころではないとレイラは頭を働かせた。
この状況、どうしたものだろう?
「お前、ここで何をしている」
突然背後から聞こえた声に、レイラはとっさに石のナイフを振り上げた。
相手の目を狙ったつもりだったが、とっさに振り上げたナイフはかわされ、マントを割いただけだった。
振り向いて男と目が合えば身がすくむ。
金縛りにあったみたいに動けない。
それがモートン卿を初めて目にした瞬間だった。
どうにか恐怖を振り切り、今度は足を狙って腰を落とし、ナイフを突き刺した。
しかしまたしてもかわされた。
真上から剣が振り下ろされる。
すぐに受け身を取ったものの、力の差がありすぎて腕が折れそうだ。
「ほう。悪くない。筋がいいな」
剣を受けきれないと判断したレイラは、ナイフごと剣を横に捨てて右足を蹴り上げる。
しかし所詮十五の娘の体術。
簡単に片手で受け止められてしまう。
「どうした、もう終わりか?」
右足を持つ手に力を込められ痛みで顔が歪む。
「レイラ!」
ミアが叫び、割り込んで来ようとする。
「来ないで!!」
ミアの足がびくっと止まる。
「我が主。あなた様が手を汚さずとも、ここは私が」ミアに銃口を向けていた男が口を挟む。
銃口を逸らし、レイラに向ける。
「構わん。この小娘は使えるかもしれん」
足を掴んでいた手を離すと、モートン卿は問いかけた。
「娘よ、儂の屋敷に来るか? 最も人間としてではなく儂従う下僕としてだが。お前の命を儂によこすというのなら、代わりにお前の生活と、ついでにそこにいる小娘の生活も保証してやろう。どうだ、娘。生きるために人を殺める覚悟はあるか?」
レイラは迷わなかった。
瞬時にモートン卿の足元に膝を着き、頭を垂れた。
「我が主」
それは絶対的な服従を意味していた。
「良いぞ。気に入った。お前の名は今日から《モルテ》だ。それまでの名は捨てろ」
「承知しました。我が主」
このときつけられた《モルテ》という名は、この先もモートン卿にしか外せない鎖としてレイラを縛ることになる。
* * *
あぁ、胸が焼けるようだ。
こんなに鮮明に過去を思い出したのは久々のことだった。
──モルテ。
それは彼の所有物である証。
レイラはモートン卿にモルテと呼ばれるたび、見えない鎖で《服従の契りを忘れるな》と首を絞められているようで気が滅入った。
それでもレイラがモートン郷のもとに甘んじているのは、あの夜に交わした約束があるから。
その実モートン卿は約束を守り、レイラを屋敷に住まわせ、ミアを屋敷の召使として雇ってくれている。
ふと、亡き母が今の自分を見たらどう思うだろうと考えた。
きっと悲しむに決まっている。
どのような理由であれ、人を殺めるなんて間違っているのだから。
「でも母様、だったら私、どうすればよかったの?」
月を見上げて問いかけてみたところで、母の返事は返ってこない。
レイラは許しを請うようにかがみ込み、クチナシの香りを嗅いだ。
そして窓を閉めてベッドに上がり、質の良すぎる毛布にくるまり、身体を丸めて目を閉じた。
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