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殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)  作者: 尾崎遙香
殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)
18/31

咲き誇る茉莉花と飛べない烏

 その日の夜、寝る支度を整え、布団に潜り込んだものの、レイラの胸はさざめきたち、うまく寝付くことができなかった。

 ルカやサラが心を開いて生い立ちについて話してくれたのは嬉しいことだったが、ルイとジャスミン嬢の婚約話が、喉に刺さった魚の小骨のようにチクチクと存在を主張していた。

 ルイのことを信じ切っていたから、まさか他の人と結婚してしまうかもしれないなんて考えもしなかった。

 よく考えてみれば、地位のない自分がルイと釣り合うはずがないのに。

 だけど、もしもこのまま、ルイがジャスミン嬢を選んだとしても、モートン卿に従うしかなかったあの日々から抜け出せたことを思えば、もう十分ではないか。

 ──もう、十分。

 十分なはずなのに。

 レイラはサラの話を思い出す。

 サラに地図を託した、《ユタ》という少女の顔を想像する。

 サラはユタを眩しいと言ったが、レイラからしてみれば、ユタの夢を叶えたいというサラも間違いなく眩しかった。

 自分だけの揺らがない軸を持っている。

 それぞれ目的を持って生きている。

 親友に託された夢を追うサラも。 

 リカルド様の側にいたいと願うルカも。

 どんな形あれ、ソフィアもきっと。

 自分の意志でここにいる。

 それなのに、私は。

 はじめて感じる熱に浮かされ、ルイに引っ張られるままついてきて、先のことなど考えていなかった。

 (──ルイがジャスミン嬢を選んだとき、ここにいる意味って何だろう)

 その瞬間が訪れたとき、自分もルカのように、『それでも側にいたい』と、『従者という立場でも側にいられれば幸せだ』と割り切ることができるだろうか。

 あるいはサラのように、命に代えてでも果たしたい夢があれば、迷ったりせず済んだのだろうか。


 (……私はどうしたいんだろう)


 自分のことなのに分からないもどかしさを抱えたまま、レイラは目を閉じた。



 *     *     *



 窓をノックする音が、夜の冷えた空気を揺らす。

 すでに部屋の明かりを落とし、布団にもぐり込んでいたレイラは、眠っていなかったのでその音に気づいていたけれど、わざと聞こえていないふりをした。

 ──だって、いまはルイに、会いたくない。

 ノックの音が響くたび、頭の中で『可哀想……』というメイドの声がこだまする。


 『優しくされて』

 『勘違いしているんだわ』


 (本当にそうだったら、どうしよう)


 レイラは布団を目深にかぶり、体を丸める。


 もしも明後日、タリアテッレ国王から発表される内容がジャスミン嬢との正式な婚約発表じゃなかったら。

 そしたらルイに会って謝ろう。

 窓を開けて、ルイの胸に飛び込んで。

 ごめんなさいと。

 不安だったのだと。

 ルイが本当に好きなのは別の人なのではないかと考え始めたら怖くなって、ルイが自分を好きでいてくれていることに自信が持てなくなったのだと。

 コンコン、と。

 遠慮がちに窓をノックする音は止まない。

 (ルイ……、ごめんなさい)

 食事会の任務が終わるまでは、これ以上心が揺らがせたくない。


 今日はもう、眠ってしまおう。


 そう決め込んで目をつぶってからも、しばらくノックの音は続いた。

 控え目に、けれど決して鳴りやまない。

 それどころか「レイラ」と名を呼ぶ声さえする。

 眠っていると思っているからか、ルイは強く窓を叩くことも、大きな声を出すこともしなかったけれど、粘り強くそこにいた。

 それほどまでして、伝えたいことがあるのだろうか。


 (もしかしたら、別れを告げに来たのかもしれない)


 そんな考えが過ればなおさら、窓を開けることなどできなかった。


 レイラはぎゅっと目をつぶる。

 やがてノックの音も、「レイラ」と縋るように呼ぶ切ない声も途絶えたが、ルイの存在を感じなくなった後も結局、眠りに落ちることはできなかった。



 *     *     *



 翌日、ソフィアの言っていた通り、宮殿の大広間で食事会の事前確認が行われた。

 まずは会場のセッティング。

 見るからに高級そうなテーブルや椅子が運び込まれ、季節の花々が部屋を彩った。

 テーブルの上には銀食器が等間隔に並べられ、キャンドルも同じ間隔で配置されている。

 シンプルなテーブルクロスさえ、触らずとも分かるシルクの上等品だ。

 料理で使われる予定の大鍋や大皿も運び込まれ、シェフのために臨時の厨房も用意された。

 庶民には手の出せないチーズやバター、大樽に入った年季物のワイン、リンゴやブドウなどの果物、新鮮な野菜、色とりどりの木の実、貴重な食肉である猪肉や鹿肉など、国中から厳選されたとびきりの食材が集められた。

 セッティングを手伝いながら、物や人の配置、細かい立ち回りを確認していたらあっという間に時間が過ぎていった。

 覚えることは多かったが、会場が広くない分、護衛はしやすそうだった。


 ──そして明くる日、準備万端で迎えた食事会当日。


 上流階級の貴族や研究者、役人、職人、学者、俳優、音楽家など、幅広い分野の権威ある人物が一堂に集い、会場は活気で満ちていた。

 一級品で固められた会場に似つかわしく、ここぞとばかりに着飾った令嬢たちが華を添える。

 レイラは歓談する人々の浮足立った雰囲気に圧倒されながら、ルイの背後に立ち注意を払う。

 ルイを見ようとすると、どうしても左隣にいるジャスミン嬢まで視界に入ってしまうのが嫌だった。

 客人が集まり終え、ロゼッタ国王もルイの右隣に着席しているというのに、どういうわけかタリアテッレ国王の姿が見えない。

 チラリと横にいるソフィアの様子を見てみれば、そのことを気にしているそぶりはなかった。

 ジャスミン嬢の護衛を任されているソフィアにとって、確かに国王は護衛対象ではないが、気にする素振りすら見せないところを見ると、よほど信用できる側近が護衛についているか、どこにいるか知っているのだろう。

 だからレイラも深追いすることはしなかった。

 ルイの護衛に集中する。

 しかし集中しようにも、ジャスミン嬢と親し気に会話を重ねるルイの姿を見ていると、平静さを失いそうになる。

 ルイは席に着くとき、レイラの存在に気付いていたはずなのに、声をかけるどころか目も合わせてくれなかった。

 椅子を引いてルイが座るのを促しながら、レイラは一昨日の晩のことで怒らせてしまったのだろうかと心配になった。


(会いに来てくれたのに、気づかないふりをしてしまったから──)


 避けられても仕方がないのかもしれない。


 ジャスミン嬢はルイと距離を詰め、会話に紛れて笑いながらルイの腕に手を添えたり、軽く叩いたりする。

 至近距離にいるので嫌でも二人の話の内容が聞こえてきてしまうわけだが、ジャスミン嬢の口から語られるのは、どれもレイラが知らないルイとの思い出で、自分がまだ出会っていなかった頃のルイをジャスミン嬢は知っているのだと思えば、なおさら心を掻き乱された。

 そして認めたくなかった。

 そんなふうに感じてしまう自分のことを。

 胸に沸き立つ感情の正体を、なんと呼ぶのか知っていたけれど。


 ルカは『ルイ王子は結婚にも女の子にも興味がなく見えた』と言っていたが、その割にはまんざらでもなさそうに見える。

 愛想よく微笑み、話に相槌を打ち、腕に添えられた手も払いのけない。

 レイラが背後で、手の平に爪が食い込むほど力を込めているなんて知る由もないだろう。


 ──と、そのとき!!


 突然、会場のライトが消え、左端にスポットライトが向けられる。

 (なんだ!?)と光を追えば、そこにはタリアテッレ国王が立っていた。

 マイクの前に立ち、弁をふるう。

「今日はみな、よく集まってくれた。ここで私に祝辞を述べさせてもらいたい」

 国王の演出でライトが消えたのだと分かり、わぁ、と会場から拍手が沸き起こる。

「今日こうしてみなに集まってもらったのは、気を取り直して食事会を行うためでもあるが、何より今日は、ご来席である、敬愛なるロゼッタ王国の王女、ジャスミン様の誕生日である」

 会場からひときわ大きな拍手と歓声が起こる。

 スポットライトがジャスミン嬢を照らし出し、それを受けて彼女は立ち上がり、品よくお辞儀をして応える。

「おめでとうございます!」という声や口笛が飛び交う。

「気に入ってくれると良いのじゃが、我が国からの贈り物じゃ」

 国王は執事たちに合図を出し、宝石が輝くネックレスや指輪、レースの刺繍をふんだんにあしらったドレスなどを持ってこさせた。

 加えて花嫁が手に持つような清楚なジャスミンの花束を手渡され、ジャスミン嬢は感激したように口元を手で覆う。

 その様子に国王は満足げに頷いた。

「改めましてジャスミン様、十八歳の誕生日おめでとうございます」

 ソフィアが言っていた《発表》というのはこのことだったのだろうか。

 誕生日をサプライズで祝うために演出方法を伏せていたのかもしれない。

 レイラが胸をなでおろしたのも束の間、「さて、」とタリアテッレ国王が切り出す。

「さて、ジャスミン様。十八歳というのは正式な結婚が認められる年齢なわけですが、何か欲しいものはございますか」

 まるではじめから仕込まれていたみたいな問いかけに、嫌な予感がレイラを包む。

 執事からマイクを受け取ったジャスミン嬢は、恥ずかし気に眼を伏せて、横目にルイを見た。

 そして瞳を揺らがせ、頬を染めて言う。

「……私、ルイ様が欲しいですわ。タリアテッレ国王様、ルイ様と結婚させてください」

 そんな、とレイラの腕から力が抜け落ちる。

 国王が満面の笑みで言う。

「もちろんでございますとも、ジャスミン様! 言われずともそのつもりでした。みなの衆、今日ここに報告する! 先日、我が国とロゼッタ王国の同盟が結ばれる運びとなった。ひいてはルイとジャスミン様には正式に婚姻関係を結んでもらう。二人は両国の繋がりをより強固なものにし、良好な交友関係を証明する象徴となってくれるだろう」

 客席から割れんばかりの拍手が巻き起こる。

 ルイは驚いたように腰を浮かしたが、母である王妃に制され、仕方なく腰を元に戻した。

 その横で、ロゼッタ国王と王妃も二人の婚姻に賛成らしくご満悦の様子だった。

 ジャスミン嬢は子猫のようにルイの腕に絡みつき、頬を擦り寄せる。

 白けた気分で二人を眺めながら、レイラは今更、『結婚って、自分の意志だけでできるものではないのだ』と打ちのめされた。

 ルイの望みで結婚話が持ち上がったわけではないかもしれないが、彼の両親であるタリアテッレ国王や王妃、そして国民は、みな二人の婚姻を、──結婚により得られる国の繁栄と安寧を望んでいる。

 当の本人であるルイの意志さえ尊重されないこの世界で、自分の意志など、どこに食い込む余地があるだろう。

 ジャスミン嬢が皆に与えてあげられる輝かしい未来を、自分は持っていない。

 レイラの心を置き去りに、国王の声が会場に響く。


「二人の未来と、両国の未来に乾杯!!」


「「「「乾杯!!」」」


 ロゼッタ国王と王妃も、タリアテッレ国王と王妃も、この場にいる貴族も客人も、誰もかれもが嬉しそうな顔をして。


 中空に掲げられるワイングラス。


 めでたい席でただ一人、レイラは、何もしていないのに突然知らない人にすれ違いざまに殴られたような、そんな衝撃に打ちひしがれていた。


「今日はみな、憂きことは忘れ、思う存分飲んで食べて楽しんでくれ。先日はすまなかったのう。観劇の席でジャスミン様を狙う野蛮な輩が出てしもうて。そこでじゃが、ここで改めて王子と王女のコンツェルトを聞かしてもらおうではないか」

 おぉ、と。

 賛成、の意を表す盛大な拍手で会場が揺れる。

 ジャスミン嬢は嬉々として立ち上がり、ルイの手を引いて舞台に向かう。

 壇上にはピアノとバイオリンが用意されており、ルイは気乗りしない様子だったが、ピアノの椅子を引き、腰を下ろす。


 音楽に罪はない。

 ルイがそう、心の中で言っているような気がした。

 レイラはなんだか、それも気に食わない。


 数日前にオーケストラと演奏した曲を、今度は二人だけで演奏する。

 オーケストラとの協演も圧巻だったが、オーケストラの音色がなくても、二人の演奏は十分に壮大で鮮やかで。

 うっとりと聞き入る客人たち。

 厭になるほど息がぴったりで、レイラは歯ぎしりしたくなる。

 演奏が終わり、拍手喝さいの中、人知れずカランカラン……と金属が落ちる音がする。

 耳の良いレイラはすぐにそれに気が付いた。

 どうやら拍手をしようとした拍子に、ロゼッタ国王の肘が食器に当たり、ナイフを落としてしまったらしい。

 レイラは腰をかがめてナイフを拾い、「新しいのをお持ちいたします」と頭を下げる。

 落ちたナイフをメイドに渡し、新しいナイフをテーブルに置くと、突然ロゼッタ国王に腕を掴まれる。

 びくっと、思わず反応する。

「……どうか、いたしましたか」

 驚きを表に出さないよう気を付けつつ尋ねれば、陛下から返って来た言葉は思いがけないものだった。

「その指輪……、いったいどこで手に入れた?」

 ──指輪?

 レイラは右手の人差し指にはめているそれに視線を落とす。

 ロゼッタ国王に尋ねられたのは、母の形見の指輪のことだった。

 毎日はめているものだから、指に付けていることすら忘れていたが、その指輪は母の存在を感じられる唯一の、お守りのようなものだった。

「これは、母の形見でございます。恥ずかしながら、下賤(げせん)の身ゆえ、この指輪にどの程度の価値があるのか分かりませんが、私の宝物です」

 ロゼッタ国王は手を放し、「そうか……」と感慨深そうに呟いた。

「いきなり腕を掴んで悪かった。その指輪、これからも大切にしてほしい」

 レイラはどうして国王がそのようなことを言うのか疑問に思いながら、「はい」と頭を下げた。

 そんなやりとりをしている間に演奏が終わり、再び会場が拍手で包まれる。

 満足げな表情をしているジャスミンと、音の余韻に浸っているルイ。

 二人は許嫁というだけでなく、音楽でも繋がっている。

 《ルイが欲しい》と屈託なく口に出してしまえるジャスミン嬢がいとわしい。

 心が黒く染まっていく。

 彼女は自分にないものばかり持っている。

 それを羨ましいと思えば思うほど、自分のことが惨めで嫌いになっていく。

 レイラは食事会がお開きになるまで、何も喉を通らなかった。

 護衛の従者にも食事をとる時間は用意されていたが、そのときも水を一口飲んだだけで、食事をする気分にはなれなかった。

 休憩から戻ってくるたび、視界に入るのはルイにじゃれついているジャスミン嬢の姿。

 それにより沸き立つ煩わしい感情。

 頭の中にルイに言われて嬉しかった言葉や出来事が一つ一つ浮かんでは、シャボン玉のようにはじけて消えていく。

 どれくらい時間が経っただろうと会場の時計を眺めては、時の経つ遅さに辟易する。

 時計を壊したくなるほどその行為を繰り返し、何十回目かのそのときに、ようやく食事会は幕を下ろした。

 食事会の最後はジャスミン嬢の感謝の言葉で締めくくられた。

 会の間中、ルイにマイクが回されなかったのは、ルイに婚姻を拒む発言をされたら困るからだったのかもしれない。

 タリアテッレ国王は、ルイに公の場で反発して荒波を立ててほしくなかったに違いない。

 なんにせよ国交の命運がかかっているのだから。

 しかしルイは、そのような扱いを受けているというのに、立ち向かおうとしなかった。

 ただ黙って、そこにいた。

『レイラ。居心地の良い居場所をすぐに用意してあげられなくてすまない。だけど必ず安心して過ごせるようにしてみせるから、どうか待っていてほしい』

 そう言ってくれたのに、あの言葉は嘘だったのだろうか。

 ぼんやり耽っているレイラの耳に、ジャスミン嬢の声が響く。

「──私もこの国の情勢を聞きました。飢饉と財政難で民が苦しい生活を強いられているのだと。先日起きた出来事を私は咎めません。私は偶然生まれに恵まれ、不自由なく生活してきましたが、それは私の力ではありません。与えられたものに甘んじ、苦しむ民の心を知らぬ私に、向けられた刃を咎める資格がどこにありましょう」

 訴えかけるような言葉に、客人たちも静かに聞き入っている。

「皆様どうか安心してください。これからは私たちロゼッタ王国と手を取り、助け合えば良いのです。国交が広がれば、この国の滞っていた財政も潤うでしょう。生活の苦しみが改善されれば心も改善されるというもの。民心を守るため私も力を尽くします。それゆえなにとぞ、よろしくお願いいたします」

 感銘を受けたようにタリアテッレ国王が大げさな拍手を送り、それを皮切りに客人たちは立ち上がり、これでもかと拍手する。

 それに軽く手を上げ応えるジャスミン嬢。

 レイラはその様子を冷めきった眼で眺めながら、『自分で仕組んだ襲撃かもしれないのに良く言える』と心の中で毒づいた。

 そして毒づいたことにはっとして、冷や汗をかいた。


 その後国王たちはそのまま拍手で見送られ、食事会の会場を後にした。


 

  *     *     *



 ルイとジャスミン嬢は、その夜、別々の部屋で休むことになった。

 なにやら調べ事があるらしいルイは、別部屋で休みたいと言い、「だったら客室でいいわ」と、ジャスミン嬢は本来彼女が泊まる予定だった客室で休むことになったのだ。

 食事会で二人を襲う者は現れなかったが、無事ロゼッタ王国に帰国してもらうまで気を抜くことはできない。

 そんな中、ジャスミン嬢は以前ほど怯えを見せなくなっていた。

 レイラにはそれが、やはり《ルイと正式に婚約する》という目的を果たしたからに思えて仕方なかった。

 食事会がお開きになると、ジャスミン嬢は別れを惜しみ、「部屋まで見送ってくださる?」とルイに懇願した。

 わずかに逡巡してからルイは頷き、何をそんなに急ぐことがあるのか、足早に客室へ向かった。

 ジャスミン嬢は申し出を断られなかったことに嬉しそうな顔をして、喜びを表現するようにルイの腕に抱き着き、そのまま腕を絡ませて歩いた。

 二人を部屋まで見送るのが、今日の最終任務。

 あと少し。

 あと少しの我慢だから。

 しかし後ろを歩くレイラに、ジャスミン嬢の言葉が追い打ちをかける。

「ついに私たち、夫婦になるんですね。」

 頬を染めてルイを見上げる。

「……」

 ルイは肯定も否定もしない。

 それが、ジャスミン嬢は少しばかり不服らしい。

 部屋の前に着くと、「それじゃ」とルイは踵を返そうとしたけれど、「お待ちになって」とジャスミン嬢が引き留める。

「そんなにそっけなくしなくても……」

「すみません。調べ事があるので」

 表情を変えずにルイは言う。

「それは、今しなくてはならない事なのですか?」

 誘うように、上目遣いで問いかける。

「──はい、何より大切なことなんです」

 はっきりと言い切られ、ジャスミン嬢は瞳を伏せる。

「……そうですか、それでは仕方がありませんね。ではせめて挨拶を」

 ──挨拶?

 『やめて』、とレイラが思う間もなく、ジャスミン嬢は背伸びをしてルイの頬にキスをした。

 照れたように顔を逸らして、「ルイ様はここ数日、ずっとお仕事を頑張っていらっしゃいましたから、ご無理なさっているのではないかと心配しておりました。あまり根を詰めすぎないでくださいね」

 労いの言葉にルイは礼を言い、今度こそ踵を返し去っていく。

 初々しい恋人のようなやり取りに、これは当てつけだろうかとレイラは複雑な心境になった。 

 おやすみのキス。

 不意打ちだったとはいえ、拒もうと思えば拒めただろうに。


 ジャスミン嬢は満足そうな顔で唇に触れ、扉を閉めた。

 レイラに対する声かけは一言ひとこととしてなかった。


 (──まるで私なんて、最初からこの場にいなかったみたい)


 ジャスミン嬢には、自分など認知されてすらいない。

 ライバル、なんてとんでもない。

 一国の王女である彼女にとって、いち護衛のレイラなど、廊下に飾られている花も同然。

 背景の一つでしかないのだ。


 レイラは当たり前のことを思い知らされた。


 (生きる場所が変わっても、私は私のまま……)


 自分はルイと不釣り合いだ。


 ずっと胸のどこか奥にあって、でも見ないようにしていたこと。

 もう知らないでは通せない。


 わなわなと唇が震えだす。

 そのうち耐えきれなくなり、レイラは素早く廊下の隅に身を隠す。

 一つ大きくため息を吐き出し、ぐしゃぐしゃと髪を搔きむしる。

 みじめで情けなくて、消えてしまいたくて。

 しゃがみ込んで顔を覆い、音を立てず静かに泣いた。



 *     *     *


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