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殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)  作者: 尾崎遙香
殺せない殺し屋と小夜曲(セレナーデ)
17/31

太陽と夢の世界地図

 私はさ、ずっと奴隷だったんだ。物心ついたときには手錠と首輪を()められていて、脚には重い足枷あしかせが付いていた。

 こうして誰かに繋がれたまま、死にたいと思いながら一生を終えるんだと思っていた。

 だけどあるとき、牢屋で一人の少女と出会ったんだ。

 彼女と出会って、私の人生は一変した。

 驚いたよ。

 彼女には右手がなかったんだ。

 聞いたところによると、大人の男がやるような危険な作業をやらされて、機械に巻き込まれて右手ごと切り落とされてしまったらしい。

 だけど彼女はそのことで誰かを憎んだり、恨んだりしていなかった。

 私と同じで、目と耳を塞いでいなければ壊れてしまいそうな世界を生きているはずなのに、目に宿る光を失っていなかった。

 信じられるか?

 彼女は自分の人生を生きることを諦めていなかったんだ。

 彼女は私よりも先にその牢屋にいて、後から私がやってきた。

 まるで家畜でも収容するみたいに仕切られた檻の中、幾夜共に過ごしたことか。

 彼女は夜になると、きまって監視が居眠りをするタイミングを見計らい、ポケットから紙切れを取り出し、わずかな蝋燭の明かりを頼りにじっと眺めていた。

 その後ろ姿は宝の地図を手に入れた少年みたいでね。

 あんまり夢中で眺めているものだから、何を見ているのか気になって、ある日『何を見ているの?』と尋ねてみたんだ。

 すると彼女は自分の手元の紙切れを見やり、私を手招きした。

『世界地図だよ』

 にっこり笑う彼女は、まるで太陽だった。

 こんなにも眩しい笑顔を見せる奴隷の子なんて、いままで出会ったことがなかった。

 彼女の名前はユタという。

 綺麗な赤髪をしていたけれど、栄養不足のせいで毛が縮れてしまい、ツヤがなかった。

 ろくに食事を与えてもらえないからやせっぽちで、せっかくの白い肌にはそばかすが広がっていた。

 だけどユタはそんなこと、これっぽっちも気にしていなかった。

 自分のことを可哀想なんて、本当に思っていなかったんだよ。

 私はこんな暗闇でも明るさを失わないユタが羨ましくてしかたがなかった。

 美しい、という言葉は彼女のためにあるのだと、今でも思うほど。

 ユタにはね、大きな夢があったんだ。

『どうして世界地図なんて見ているの?』

 ユタは嬉々として答えた。

『私、馬鹿で忘れっぽいからさ、すぐ忘れてしまいそうになるんだ。世界は広いんだってこと。ここではないどこかが、ちゃんと存在しているんだってこと』

『……ここではない、どこか』

 ユタは頷く。

『この目で世界を見たいんだ。世界の端から端まで、行きたいときに行きたいところへ、心のままに旅して回るのが私の夢さ』

 自分の夢について語るとき、ユタの瞳はいっそう(きら)めいた。

 腕が無くなろうと、過酷な労働を強いられようと、その光は決して消えない。

 ユタが世界に絶望してしまわない限り、そこに宿り続けるものだから。

 私はすっかりその光に魅せられて、ユタの夢はすごくいいものに違いないと信じた。

 そのうち《私もユタと一緒に世界を見て回りたい》と思うようになった。

 不思議だったよ。

 ユタに出会ってから、不思議と力が湧いてくる。

 絶対にできないと思っていたことも、ユタがいればできるような気がしてくるんだ。

 ユタは人と違うことも、馬鹿にされることも恐れなかった。

 たいていの人はユタの夢の話を聞くと鼻で笑い、『できるわけがない』と馬鹿にしたけど、そんな揶揄、ユタの耳には届いていなかった。

 ユタは眠りにつく前、私に自分の知っている世界についての知識をなんでも話してくれた。

 ユタの両親は貧民で、家計が苦しいあまり、命の危険が伴う仕事に手を出して、丸一日力尽きるまで働いて帰ってきた。

 それを見て、ユタは『私を奴隷として売ってくれ』と願い出たそうだ。

 両親は彼女の申し出を拒み続けていたけれど、ユタの妹が病に伏せて薬代が必要になり、泣く泣くユタを奴隷として売り飛ばすことにした。

 ユタはそれを了承し、けれど売られるまでの期間、最後とばかりに図書館に忍び込み、本を読み漁っていたらしい。

 まぁ、本人が《図書館》と呼んでいたその場所は、《図書館》と呼ぶにはあまりにおざなりな、教会の一部に寄付された古本のたまり場だったようだけど。

 並外れて記憶力が良かったユタは、一度読んだ本の内容は丸々覚えてしまった。

 だから話の引き出しがすごく多くて、来る日も来る日も違う話をしてくれたんだ。

 話すのも上手いから引き込まれて、途中で飽きるなんてこと一度としてなかったよ。

 なにより揺さぶられたのは、ユタの話を聞いていると、世界は未知のもので溢れていて、それらは私たちを苦しめるものではなく、ワクワクさせてくれるものなのだと思えたこと。

 おかげで訳も分からず涙を(こぼ)した夜が、ただ寒さに震えていただけの夜が、物語という(ともしび)で暖められていった。

 状況は何も変わっていないのに、次第に息がしやすくなったよ。

 それからしばらくは、何事もなく平穏に過ごしていたね。

 だけどある日、私たちの牢屋を監視している教官が変わり、その教官がユタを目の敵にしたんだ。

 いま思えばあの日から少しずつ、歯車が狂い出したんだろうよ。

 あいつは誰もが死んだ目をしている奴隷の中で、同じように屈していないユタが気に食わなかったのさ。

 ある日の昼間、洞窟での労働から戻るとき、運の悪いことにユタのポケットから世界地図が落ちて、その教官に拾われてしまった。

『なんだこれは! 奴隷が私物を所有していいと思っているのか!』

 教官はユタを怒鳴りつけ、それを聞いていた他の牢屋のガラの悪い囚人が野次を飛ばす。

『教官、そいつその地図の場所を回るのが夢だそうですぜ!  聞いて笑っちまいやすな』

 教官は吹き出し、意地悪く鼻で笑った後、『奴隷ごときが夢を見るな!』と、ユタが何より大事にしていたその世界地図を、びりびりに破り捨ててしまったんだ。

 そして私をおりに戻してユタだけをその場に残し、罰として鞭打ちの刑にした。

 手足を縛られ、(ふくら)(はぎ)が赤く腫れあがってもなお叩かれて、地面に這いつくばりながら、それでも破かれた地図を必死で掴み、拾い集めようとしているユタを見ていたら、私、頭に血が上ってね。

 怒りに任せて檻を揺らし、『やめろ!!』と叫んだ。

『ユタに触るな!!』

『何だお前、奴隷ごときが黙ってろ!!』

 思い切り檻を蹴られ、吹っ飛んで尻もちをつく。

『サラ!!』

 ユタが足を引きずって近づいて来ようとするけれど、教官に襟首を掴まれ、頬を殴られる。

 骨がめり込むがして、ユタが地面に倒れ込む。

『反省しろ! 俺の言葉を繰り返せ!! 『私は奴隷です。人ではありません!』』

『……っ、』

 口を横に結んで開かないユタをさらに殴る。

『言え!!』

『……、』

 また殴る。

 口が切れて、血が滲んでいる。

 わなわなと唇を震わせ、悔しそうに瞳に涙の膜を張る。

 蚊の鳴くような声が耳に届く。

『……わた……、わたしは、ど、れいです。ひとでは、ありま、せん』

 見ていられなかった。

 助けたいのに、何もできない。

 拳をぎゅっと握りしめる。

 目を逸らし、耳を手で覆い座り込む。

 塞いだ耳の隙間を縫って殴られている音が響くたび、サラのうめき声が聞こえるたび、尖った爪で心臓を研がれているような心地がした。

 (もうやめて……)

 教官が去ってからも、ユタは地面にへたり込み、地図の切れ端が風で吹き飛ばされるのを充血した目で見ていた。


 サラの地図が破られた次の日、教官たちはこぞって落ち込むユタのことを笑いに来た。

 本当、思い出すだけで腸が煮えくり返る。

 これまで何を言ってもどこ吹く風だったユタが落ち込んでいて、さぞいい気味だったのだろうね。

 でもどれだけ私たちが打ちのめされ、立ち止まりたくなっても、時間は待ってくれない。

 労働の時間が来れば、檻が空けられる。

 私たちはいつ落石するかもわからない洞穴の中で鉱物を掘らされていた。

 その洞穴は有毒ガスが発生していて、多くの囚人は盲目になった。

 私も時々目がかすむのを感じていて、体の異変に気付いていたけれど、私より前からここで炭鉱作業をさせられているユタの目はすでに白く濁り始めていた。

 それでも貴重な鉱物が採れるのはその洞穴しかなくて、だから死んでも角が立たない囚人や奴隷が作業をやらされていたんだ。

 飲まず食わずで働かされ、囚人たちは次々と倒れていった。

 倒れたら最後。

 そのまま山から投げ捨てられる。

 それだけはごめんだと、どんなにしんどくても、倒れそうになっても、平気なふりをして、来る日も来る日も働いた。

 だけどその日、ユタはこれまでになく無気力で、作業をしている途中にとうとう座り込んでしまってね。

 参ったよ。

 そういうときに限って教官が近くで見張りをしていて、このままユタが見つかれば谷底に投げ捨てられて死んでしまう。

 緊張で手が汗で湿った。

 私は必死でユタを立たせようとした。

 見張りに気づかれないように体でユタを隠しながら、何度も呼びかけたけど、ユタは立ち上がろうとしない。

 仕方がないから、隙を見て肩を貸して無理やり起こし、手に(くわ)を握らせた。

『お願い、ユタ、お願いだから』

 涙目で訴えた。

 本当に掘っていなくてもいいから、掘っているふりをしてと。

 額に冷や汗をかいて苦しそうに頷くユタを見て気が付いた。

 ユタは無気力になったわけでも、笑われて落ち込んでいたわけでもなく、毒ガスのせいで意識が朦朧としているのだと。

 よく耳を澄ませば、ユタが呼吸をするたび、ひゅう、ひゅう、と喉の閉まる音がする。

 どうにか鍬を持っているけれど、くわを支えに立つので精一杯だった。

 見張りがこちらを振り返り、作業をしていないのに気づいて怒鳴る。

『おいそこ! しっかり働け!! サボっていると谷の底へ突き落すぞ!! ……って、なんだ、見覚えがあると思えば昨日のやつらじゃないか!! このクソッタレ!!』

 言葉だけでは飽き足らず、ユタの足を蹴る。

 足元のおぼつかないユタは勢いよく転び、額を鉱物に打ち付けてしまう。

 薄く切れた額から血が(したた)る。

 その様子に高笑いする見張りの教官。

 あ、と思ったときにはもう、鍬を振り上げて襲い掛かっていた。

『ぅあぁあああ!!!』

 私の雄叫びを聞いたユタが、驚きで声も出せず目を見開いている。

 教官も目を丸くしていたけれど、力の差は歴然だった。

 とっさに反応した教官にみぞおちを思いきり蹴られ、餌付き、ユタの隣に倒れ込む。

 くわは教官に届くことなく地面に落ち、カランカラン……と金属のぶつかる反射音がこだまする。 

『お前! 教官に襲い掛かるとはいい度胸をしているな!!』

 教官が腰から拳銃を取り出し、銃口をこちらに向けて構える。

 もうおしまいだ、と思った、そのとき、『シッ!!』とユタが人差し指を立てた。

『何か音がする』

『……音?』 耳を澄ます。

 ──何も聞こえないよ。

 そう返そうとした瞬間。

 洞窟の奥の方からゴゥォォオオオオという地響きが聞こえてきた。

 囚人も教官も動きを止め、『何の音だ!?』と洞窟の奥を見る。

 その音はだんだん大きくなり、

『はぁ、はっ、は、』

 奥から一人、囚人が息を切らしながら走ってきて必死の形相ぎょうそうで叫ぶ。

『ら、落石だ!! 早く逃げろ!! 生き埋めになるぞ!!』

 一斉に、その場にいた全員の顔から血の気が引いていく。

 教官たちは我先にと外へ逃げだし、囚人や奴隷も鍬を投げ捨てて出口へ走った。

(私たちも早く逃げなくちゃ!!)

『ユタ、』と振り返り手を引こうとした刹那、今度は立っていられないほど地面が大きく揺れる。

『サラ!!』

 ユタに突き飛ばされ、尻餅をつく。

 何が起きたのか分からないまま、ぎゅっと目をつぶり、揺れが収まるのを待つ。

 すぐに揺れは収まったものの、ガラガラと天井の崩れる音は止まらない。

 再び瞼を開けたとき、目の前に広がる光景に息が詰まった。

 全身の血管が凍り付いた気がした。


『ユ……、ユタ……、ユタ!!!』


 とっさに側にいた私を突き飛ばしたユタは、瓦礫の下敷きになり下半身がつぶされていた。

 頭から血を流し、それでも名前を呼ばれ、ピクリと反応する。

『サラ……、』

『待って、すぐどけるから!!』

 目に涙を溜めて、サラは腕がちぎれそうなほどの力んで踏ん張り、懸命に瓦礫を持ち上げようとする。

 しかし骨がしなって折れそうだというのに、重なった瓦礫はびくともしなかった。

『サラ』

 諦めない。

 何度も何度も、腕に力をこめる。

『サラ! 私のことはもういい! 早く逃げて!! じゃないといつまた大きな揺れが起きるか……』

『何言って……、ユタを置いていけるわけないでしょう!!』

 泣き叫んでいるのに近かった。

 何を言われても瓦礫をどけるのをやめるつもりはない。

『──っ、お願いだから!! 早く逃げて!!』ユタがかなぐり叫ぶ。

 しゃがれた声で、堰を切って。

 肺がやられているのか、叫んだ反動に血を吐き出す。

 ユタは唯一動かせる左手でサラの足を掴み、『これを……』と首にはめられていた枷の中から紙切れを取り出した。

『私の宝物。サラが持っていて』

 しゃがみ込み、手のひらで受けとる。

 しかしサラは首を振る。

『……だって、これは……、やだよユタ』

 ユタはサラにぎゅっと握らせる。

 力を振り絞って、握らせる。

『いいかい、サラ。私の夢、託したよ』

 真剣な顔が、ぱっとはじけた笑顔に変わる。

 出会ったときの姿が重なる。

 こんな時まで、太陽みたいな眩さで。

『言っただろう? 信じていれば必ずチャンスは来るって。今がまさにその時さ! 今なら監視の目も薄い。行けるはずだよ、外の世界へ。あれほど焦がれた世界へさ!』

 ほら、行ってと。

 ユタはサラの足を叩く。

『ここでサラが行ってくれなくちゃ、私の夢まで死んじまう』

 唇を噛み、それでも渋るサラにユタは懇願する。

『夢だけは……。私の夢だけは誰にも奪われたくない。頼むよ、サラ。その目で世界を見て来てくれ。私の分も。サラが私の夢を忘れない限り、私は永遠に生き続ける。ずっと一緒にそこにいる。体はついていけなくても、サラの中に存在してる。どうか連れて行ってくれ。お願いだよ』

 そんな顔で言われたら。

 食いしばった奥歯が砕けそうだ。

 覚悟を決めて頷き、サラは何度も涙を拭う。

『任せて、ユタ。ユタの夢は絶対に私が叶えるから』

 満足そうに笑うユタ。

 大好きなその笑顔に背を向けて、サラは振り返らずがむしゃらに走った。

 外へ踏み出した途端、またゴォォオオオオという地響きが響き渡り、グラグラと地面が揺れる。

 ギリギリのところで逃げ出した洞窟の外に、ひときわ大きな爆音が轟く。

 思わず耳を手で塞ぎ、目をつぶる。

 少しして音が止み、恐る恐る目を開ければ、広がる光景に呼吸が止まった。

 洞窟の奥で爆発が起きたらしく、ゴウゴウと燃え上がる炎。

 中から出てくる人は焼け焦げていて、次々とその場に倒れ込んでいく。

 頭が真っ白になった。

 耳も遠くなり、視界が霞み、ぼやけていく。

『ユタ……、……っ、ユタ!!……、ぁぁ……、』

 ユタの名前を繰り返し呼びながら、その場にへたり込む。

 はらら、はららと、粉塵が舞っている。

 堪えていた嗚咽が喉元をせり上がる。

『ぃやぁああぁあああああ!!!!』

 立ち上る煙を眺めながら大声で泣き叫んだ。

 しゃくりあげては慟哭が込み上げ、息もできず、心臓がはち切れそうだった。

 喉の奥で血の味がしたけれど、そんなことはどうでもよかった。

 未だ味わったことがないほどの喪失感で胸が塞がれていたから。


 その後、深い悲哀を抱えたまま、監視の目を潜り抜け炭鉱の外に出た。

 細いけもの道を潜り抜け、手錠はついたまま、誰も自分を縛る者のいない街へ足を踏み入れた。

 あのとき私が走ることができたのは、ユタに託されたものがあったからだ。

 ユタが肌身離さず持っていた紙切れ。  

 あのときユタが私に渡したのは、ユタが最初に持っていた地図じゃなく、教官が捨てたただの薄汚れた紙きれだったけど、裏面に乾いた血で世界地図が描かれていた。

 きっと最初の地図を破り捨てられた後、ゴミを漁ってその紙きれを拾い、自分の指を切って描いたのだろうね。

 ユタは地図を破られたって、くじけてなんかいやしなかった。

『紙切れの地図を奪われたって、頭の中に刻まれた地図まで奪われはしないさ』

 どこかでユタがそう言って、高らかに笑っているような気がしたよ。

『大事なものはすべて自分の中にある。そしてそれは誰にも奪えないものなんだ』って、よくそう言っていたからね。

 私は街に出てからもずっとユタのことばかり考えていた。

 世界が夜の闇に取り込まれそうなとき、私を守ってくれる物語はもう聞こえてこない。

 ユタがもう側にいない。

 地図を見るたび涙が込み上げてきて、胸がぎゅっと締め付けられた。

 寒空の下、狭い路地に腰を下ろし、ひとりぼっちの野良猫と、建物の隙間から星空を見上げたよ。

 しばらく風に吹かれながら、ユタと過ごした日々の記憶が頭に浮かんでは消えていく。

 あれはいつのことだったか。

『ねぇ、サラ。サラはこの生活が終わったら何がしたい?』

 太陽みたいな笑顔でそう聞く訊くユタの瞳は、もう何も映っていないのではないかと思うほど真っ白になっていた。

『私はね、ここから出られたら、手始めに海を見てみたい』

 そんな目じゃ、たとえここから出られたとしても、その夢は叶わないかもしれない。

 サラの涙が、ユタの手に落ちる。

 手の甲に涙が落ちたのを感じ取ったらしく、

『……サラ? 泣いてるの? 大丈夫?』

 彷徨いながらサラに手を伸ばす。

『だって、ユタ……、目が……』

 鼻をすすりながら言えば、『なんだ、そんなこと』、とユタはふにゃりと笑った。

『たしかにずいぶん、見えづらくなってしまったね』

 一瞬黙り、『──でも、』と続きを紡ぐ。

『知ってるかい、サラ。世界は瞳だけで見るものじゃないんだよ。瞳は物質しか写さない。すべては心で感じとるものなんだ』

 ユタは手のひらから腕を辿り、サラの背中をさする。

『想像してご覧。知らない町の港に立ち、体いっぱいに潮風を受けている情景を。そのとき心に広がる風景を。知らない異国の匂いを胸いっぱいに吸い込んだとき、自分は何を感じるだろう。視るというのはそういうことさ』

『瞳が濁ったってそれはできるだろう?』とユタは言い、『だからもう泣かないで』と肩をぽんぽん、と叩く。

『でもそうだな。そのときサラが隣にいてくれたら良いな。それで私に教えほしい、君の目に映る景色を』

 サラは力強く頷いた。

 何度も何度も頷いた。

 ユタとなら、きっとどこへだって行ける。

 そう、思っていたのに。


『ユタとだから、見られた夢だったのに』


 サラは託された地図を握りしめ、肩を震わせてすすり泣いた。

 泣いているせいで震えているのか、それとも寒さのせいで震えているのか、自分でもよく分からなかった。


 自分のことで精いっぱいで、路地を通り過ぎる人になんてまるで注意を払っていなかったから、不意にふわり、温かい感触に肩が包まれて驚いた。

 顔を上げれば通りすがりの貴族が、憐れんで毛布を肩にかけてくれたらしい。

『……こんなに震えて。唇が真っ青じゃないか。お嬢さん、こんなところにいたら凍え死んでしまいますよ』

 放っておいて、という声は、震えるせいで歯がカチカチ鳴っただけだった。

 貴族の男は私を立たせ、どこかへ連れて行こうとした。

『とりあえずどこか、温かいものでも飲みに行こう。私はこの店に用があるから、少しだけ入り口で待っていてもらえるかな』

 そう言われ、男が顔を向けた方を見上げれば、そこは旅道具を売っている専門店だった。

 (──旅道具!)

 私は目を見開き、考えるより先に男の服を掴んでいた。

『なんだ、どうしたんだい?』

『……っ、』

 話したいのに、寒さで喉が上手く開かない。

 貴族の男は座り込み、『ゆっくりでいい、頷いてくれれば分かるから。君もこの店に行きたいのかい?』

 私は頷いた。

 すると男は『そうか』と言って、親切に、私も店の中へ連れて行ってくれた。

『リカルド様……!そのような物乞い、お構いにならなくても』

 側にいた側近が汚らわしいものを見る目で私を蔑み、声を上げたけど、彼は『いいから。これも何かの縁だよ、きっと』と制してくれた。

 カランカラン。

 扉を開くベルの音。

『いらっしゃい』

 店主は男の顔を見るなり、『これはこれは! リカルド様じゃありませんか! お待ちしておりましたよ。ご注文の品、すべて出来上がっております』と頭を下げた。

 どうやら常連客らしい。

『夜分にすまないね、いつも助かるよ』

 男の後に続いて店に入ると、そこには見たこともない道具がたくさん並んでいて、一瞬で心を奪われた。

 まるでキラキラした宝石でも見るように胸が高鳴る。

『すごい……』

 羅針盤や方位磁石や、見たこともない地図の数々。

 我を忘れて店の中を歩き回る。

『おやおや、この子はどうしたんですか? まさかリカルド様の連れじゃないでしょうし』

 貴族の男はいわくありげな顔をして肩をすくめた。

『おっと、いけない、羅針盤上に置いてきてしまいました。すぐに持ってきますね』

 店主は商品を渡そうとして、一つ足りないことに気づいたようだった。

 彼が羅針盤を取りに行っている間、()()()()()と呼ばれるその人は、私が何か握りしめているのに気づいたらしく、こちらへ近づいてきた。

『それはいったい何なんだい?』

 手に持っていた地図を指さされ、広げて見せた。

『これは……、親友に託された宝物。いつか世界中を旅して回るって約束したんだ』

 どうせ鼻で笑われるのだろうと、語尾が震えた。

 でもリカルドは興味深げに耳を傾け、たったひとこと、『いい夢だ』と言った。

 聞き間違いかと思ったよ。

『でもそれには知識が必要だね。道具も必要だが、何より君は学ばなくちゃならない。知識の海は広く深く膨大だよ。一朝一夕にいくことじゃない。待ち受ける道のりは長く過酷なことだろう。それでも君は学びたいと思うかい?』

 真摯に問われ、私は答えた。

『はい、学びたいです』

 リカルドの目を見て、はっきりと自分の口でそう言った。

 リカルドはじっと私の視線を受け止めて、『……よし。それじゃ、僕が君の未来に投資しよう』と言った。

 そう応えるなり、リカルドは戻って来た店の店主に言いつけ、私のために旅道具を一式買い揃えてくれた。

 店を出た後も、その足で勉学に必要なものを用意して回ってくれて、屋敷で住み込みで働きながら、学校に通えるよう手配してくれた。

 屋敷に帰ると、リカルドは私に言った。

『僕がしてあげられるのは、あくまで環境を用意することだけだ。その先で待ち受ける試練を手助けしてあげることはできない。いろんな人が君に色々なことを言い、ときに挫けそうになることもあるだろう。眠れない夜だってあるかもしれない。でも僕は信じている。君ならそれらに屈しないと。だってきみは、どうやらもうすでに一人じゃないとはどういうことか、ちゃんと知っているようだから。学校を卒業したら僕の所へおいで。君の居場所を用意して待っているよ』

「──それで約束通り学校を卒業して、役所勤務兼護衛隊の一員に任命されて、今の私があるってわけ」

 サラはおもむろに棚の上に置かれていた鍵付きの箱を開き、紙切れを取り出した。

「そしてこれがユタに託された世界地図。今でも私の宝物なんだ」

 丁寧に折りたたまれた古紙を広げて見せる。

 経年により血の色が変化して薄れていたけれど、そこには確かに世界地図が描かれていた。

「私、絶対に世界を見て回るんだ。ユタがくれた、この地図を携えて」

 サラは口角を上げて言う。

「それが私の夢さ。それを叶えるまでは何があっても死ねない」

 サラが話して聞かせてくれた、ユタという少女の笑顔もきっとこんなふうに。

 冒険前夜の少年のような輝きは、レイラの瞳に眩しく映る。


「この夢に生かされて、私はいま、ここにいる」



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