噂の茨と美味しいご飯
護衛隊の会議が終わってから、自室で資料を集中して読み込んでいたものだから、ふと部屋が日暮れで陰っているのに気づきレイラは驚く。
いつの間に、と窓の外を見れば、空は黄昏の萌えるような茜色で染まっていた。
資料を片付け、そろそろ夕食でも取りに行こうかと部屋を出たとき、偶然、一つ挟んだ隣室の扉が開き、サラと顔を見合わせる。
おぉ、とサラが声を漏らす。
「なに、レイラも食堂?」
「はい」
「資料はもう読み終わった? 私覚えるのって苦手でさ。あんなにたくさんの貴族やらお偉いさんやらの席順、いちいち覚えてらんないや。まぁ、当日は席にネームプレートが置かれるだろうから、目を通しておくだけで、暗記までしなくていいと思うけど」
「そうですね」
返事をしながら、レイラはすでに、資料に記載されていた全員の名前と席順を頭の中に叩き込み終えているのだった。
殺し屋をしていた頃、ターゲットのあらゆる情報を覚えるのが日常だったレイラにとって、それくらいお手の物なのだ。
それから二人は並んで食堂へ向かって歩き、役所で働くサラの仕事の愚痴を聞きながら、レイラは、そういえば彼女の生い立ちや過去などについて、自分はまだ何も知らないことに気が付いた。
しかし、これまでの半生なんて、そんな個人的なこと、どの程度踏み込んで訊いていいのか分からない。
そんなことを思いながら、厨房を通りかかったときだった。
食器をワゴンに乗せたメイドたちが、廊下で顔を寄せてひそひそと話している。
彼女らはレイラがいるのに気づいた途端、ばつが悪そうな顔をして不自然に咳払いをし、足早に厨房へと捌けていく。
その様子に首を傾げていると、横から掃除道具を持って歩いてきたメイドと、出会い頭に衝突する。
すみません、とメイドは言いかけて、ぶつかった相手がレイラだと分かると、困ったように視線を泳がせ、小さく会釈をして去って行った。
「なんだよ、どいつもこいつも。よそよそしいな」
不自然なメイドの態度に、サラが眉を寄せる。
極めつけに、通路の向こうから、レイラとサラに気づかず、大声でしゃべりながら歩いてくるメイドがいた。
嫌でも会話が耳に飛び込んでくる。
「ねぇ、聞いた? 国王陛下が貴族を招いて食事会をするんですって。──それってつまり、いよいよルイ王子とジャスミン王女の結婚が確実なものになるって事よね?」
「きっとそうよ! ルイ王子とジャスミン王女……、素敵な組み合わせだわ。美男美女でお似合いよね」
「ええ、本当にお似合いの組み合わせ」
「いいなぁ、私、憧れちゃう」
「本当よねぇ。……でも待って、そうなると《あの子》はどうなるのかしら」
「──あの子? あぁ、もしかしてルイ王子が連れてきたっていう?」
「そうそう」
「恋人とか聞いたけど……」
「ないない! そんなわけないじゃない! ルイ王子が本気なわけないわ」
「そうよね。本気なはずないわよね。使えそうだから拾われてきただけに決まっているわ。それなのに優しくされて勘違いしているんだわ」
「やだ、可哀想……、」
「やめなさいって」
笑いながら歩いてくる。
「惨めな思いをする前に、さっさと国に帰った方が、」
そのときだった。
サラが足元にあったバケツを拾い上げる。
そのまま二人に向かって走っていき、中に入っている水を思い切り二人にぶちまけた。
「きゃあっ」
メイドたちが声を上げる。
「やだ最悪! 何するのよ!!」
瞬間、サラはレイラの手を引き、全速力で廊下を駆け抜けた。
メイドの脇をすり抜けるとき、酷い言葉が飛び交ったその場にレイラがいたことを気づかせまいと、身体で顔が見えないよう庇ってくれたこと、レイラはちゃんと気づいていた。
やがてメイドたちの姿が見えないところまで走ってくると、サラは息を切らしながら、
「ルカなら一言二言言ってやるんだろうけどさ、私は小心者だから、これが限界」
腰に手をあて、肩で息をして呼吸を整える。
「でもやられっぱなしよりいいだろう?」
突然の全力疾走に肺が痛むのを感じながら、レイラの胸は熱くなり、少し泣きそうになった。
「ルカさんといい、サラさんといい、どうして皆さん私に優しくしてくれるんですか」
サラはきょとんとした顔で一拍置き、
「ルカに聞いてない? ルカの態度が和らいだのも、てっきりそれがあったからだと思ってたんだけど」
レイラは首をかしげる。
「ルイ王子が、わざわざ挨拶しに来てくれたんだよ。あんたを頼むって、頭を下げられたんだ。こういういじめまがいなことがこれから起こるかもしれないから、あんたを守ってほしいんだと。本来ならそれは自分の役目だけど、いつでもそばにいてあげられるわけではないから、って言っていたよ」
「そう、ですか……」
レイラの心が揺らぐ。
ルイが自分を大切してくれているのを実感するのに、先ほどの胸の痛みが消えない。
『優しくされて勘違いしている』
メイドたちの言葉が、抜けない棘となって心に突き刺さっていた。
(ジャスミン嬢の片思いだとルカは言っていたけれど……。メイドたちの言う通り、ルイは、本当は私のことなんて……)
──もしかすると、ソフィアが言っていた、《国王が食事会で当日に発表すること》というのは、二人の正式な婚約発表かもしれない。
(そうだったらどうしよう)
レイラの胸は不安でいっぱいだった。
* * *
食堂に着くと、その場にいたメイドや執事、その他さまざまな役職に就いている従者たちにとって、レイラは招かれざる客らしく、冷遇された。
あからさまに冷たい視線を向けてくる者もいれば、レイラを見てヒソヒソと耳打ちする者もいた。
いたたまれなくなって、レイラは俯く。
「はい、これ」
そんな視線、まるで存在しないかのように、サラは食事の載ったお盆をレイラに渡し、颯爽と空いている席を探す。
サラに隠れるようにして後をついて歩き、しかしテーブルの席に着こうとすると、近くに座っていた者は立ち上がり、逃げるように席を移動した。
「いったい何なの?」
失礼な態度に憤るサラの横で、レイラは自分のせいでサラまで酷い扱いを受けていると感じて申し訳なくなった。
そっと彼女の顔色を窺う。
「あの……、サラさん、いいですよ、無理に私と一緒に食べなくても。私、部屋で食べるので、サラさんはゆっくり食事していってください」
言い残して、一人去ろうとするレイラ。
「ちょっと、待ってよ、レイラ!」
腕を掴んで引き留めるサラ。
「なに急に。まさか気を遣ってるつもり? 悪いけど、そういうのいらないから。私が誰と食べるかなんて私が決めることでしょう? 頼んでもないのに一人で行こうとしないでよ。ていうか見縊らないでよね。メイドたちのこんな……、くだらない。どうってことないんだよ。でもそうね、いい気分になるものではないから、私の部屋で一緒に食べましょうか。──それでもいい?」
口調は怒っているのに、紡がれる言葉は優しい。
レイラは唇を横にぎゅっと結んで頷く。
「行こう」
サラに手を引かれ、こんなにためらいなく手を引っ張ってくれる彼女の背中に、無償の優しさを享受する自分がここで俯いているわけにはいかないと、レイラは食堂を出るまで決して下を向かなかった。
サラは食堂を出て、足早に自分の部屋へレイラを連れてきた。
「ようこそ。私の巣穴へ」
開かれた扉の先に広がる光景に、思わずレイラは口を開ける。
普段、役所に勤めて書類を整理したり、身なりもきちんとしているサラのことだから、きっと部屋も几帳面に整えられているのだろうと思っていた。
しかし、予想に反して彼女の部屋はごちゃごちゃだった。
足の踏み場もないほどに。
呆気にとられているレイラを、ケラケラとおかしそうにサラは笑う。
「そんなに驚かなくても。入って」
促され、「お邪魔します」と足を踏み入れる。
壁には大きな世界地図が貼られ、いろんな箇所にピンで記しが打ってある。
机の上にはびっしりと文字で埋まった羊皮紙が散らばっていた。
新しい羊皮紙と古い羊皮紙とが綯い交ぜになっているから、長きにわたって調べ事や書くことを続けているのだと分かる。
よく見れば、本棚にまで羊皮紙の書簡が並べられており、それだけの枚数を書き上げるのにかかった時間を思うと気が遠くなった。
何についてそんなに調べているのだろう、と部屋を見渡せば、床に積まれている書籍は遺産や自然などに関する資料ばかりで、棚に陳列されている書籍は冒険家や探検家の伝記が多かった。
「片付いてなくてごめん。でもね、これでいて私にはどこに何があるかちゃんとわかっているんだ。むしろ綺麗すぎるのって、なんだか落ち着かなくてさ」
分かる気がする、とレイラは思う。
サラはテーブルに置かれていた本の山と、走り書きをしたままの羊皮紙や羽ペン、インクを床にどけた。
持ってきた食事をテーブルに置き、レイラに座るよう促す。
頷いてレイラは椅子を引く。
誰かと一緒に食事をするのなんて、どれくらいぶりだろう。
いつからか、レイラにとって食事とはただ咀嚼を繰り返すだけの行為に成り下がっていた。
味の良し悪しなどよく分からない。
修道院で食べていたものでなければ何でもよかった。
向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。
まだほんのり温かいコーンポタージュから湯気が出ている。
サラはパンをちぎり、ポタージュに浸して口へ運ぶ。
味を噛みしめて頬をほころばせ、「美味しい」と溢す。
レイラも同じように、パンを小さくちぎってポタージュに浸して食べる。
どう? と問いかけるようにサラが視線を向ける。
「美味しい……」
コーンの甘みが、口いっぱいに広がる。
少し焦げたパンの耳の苦みまで、しっかりと感じられた。
今日はどうしたことだろう。
これまでになくはっきりと食べ物の味がする。
気がつくと瞳から、ぽろぽろと雫が零れていた。
「あれ……」
服の袖でゴシゴシぬぐえば、サラがレイラの手を止める。
「そんなにこすったら、目、赤くなっちゃうよ」
サラはハンカチを差し出し、頬杖をついてレイラの頭を撫でる。
「よしよし、安心したんだね。いっぱい食べな」
レイラはもう一口、パンをちぎり、ポタージュに浸して口へ運ぶ。
付け合わせのサラダも、余った鶏肉のローストの切れ端も、次から次へ、美味しくて手が止まらない。
これまで人と関わることを避けてきたものだから、人と対面するとどうしても緊張してしまうけれど、サラが頬を緩め、砕けた表情を見せてくれるので、その緊張も徐々に解けていく。
ポタージュの温かさが身体の芯に沁み渡る。
誰かと食べるご飯って、こんなに美味しかったんだ。
「レイラはさ、ここへ来る前何をしていたの? ……お屋敷で殺し屋として雇われていたと聞いたけど……、本当?」
サラに聞かれ、レイラは食事をしていた手を止める。
「はい、そうなんです。実は……」
この国へ来た経緯を、レイラは偽りなく話して聞かせた。
サラはサラダを口に運びながら興味深そうに耳を傾け、「やっぱりレイラがルイ王子を好きっていうより、ルイ王子が惚れ込んでいるんだね」と笑った。
そんなこと……、とレイラは謙遜する。
口ごもりながら、頬が紅潮しているのが自分でも分かる。
初心だなぁ、と笑われた。
それ以上、ルイの話になるのを避けたくて、話題を変えようとすれば、思わず気になっていたことがそのまま口に出てしまう。
「サラさんはどうして護衛隊に入ったんですか?」
言ってしまってから、踏み入ったことを訊いてしまったかと後悔したが、今更引っ込められない。
レイラはごくりと生唾を飲み、サラを見つめた。
サラは食事の手を止めて、「うーん、」と唸り、どう話そうか思考をまとめようとするように天井へ視線をやった。
そして「長くなるよ」という言葉とともにレイラに視線を戻す。
向けられた真摯な瞳の中に、嫌悪感は含まれていなかった。
サラは誠実に、質問に答えようとしてくれている。
質問に対して嫌悪感を示されなかったことに安堵しつつ、その誠実さに応えようと、レイラは食事の手を止めた。
居住まいを正し「大丈夫です」と返す。
サラは咳払いをして、頭にある思い出の引き出しを開けるように口を開いた。
「私は、さ……」
* * *




