悪巧香る収穫祭
翌日、つまり収穫祭の前日は、広場や劇場の準備で慌ただしかった。
屋台の出店場所が合っているかの確認をはじめ、ロゼッタ王国ご一行をもてなす用意、劇場の掃除など、やらなくはならない仕事は尽きず、なかなか終わりが見えなかった。
すべての作業が終わったとき、時刻は深夜零時を回っていた。
オルゴールをもらって以来、ルイと顔を合わせていないというのに、その寂しさに浸る間もなく、あっという間に夜は更ける。
──そして迎えた、収穫祭当日。
バルコニーから見下ろす広場は、レイラが想像していたよりずっと華々しく、活気で満ちていた。
その活気に圧倒され、見たことのない光景に釘付けになる。
花の売り子である少女たちは綺麗に髪を結い上げ、民族衣装のような刺繍の施されたドレスを着ている。
西洋人形を巧に操り場を沸かせる人形技師もいれば、さまざまな毛色のテディベアを売っている人形技師もいて、子どもたちが嬉しそうに群がっている。
鼻腔を擽るのは、香ばしくて甘い匂い。
数秒、それらを堪能し、すぐにレイラは目の前に座るルイの後姿に視線を戻す。
徒に吹きぬける小風に、繊麗な銀髪が、さらさら靡く。
彼の右隣に座るのはジャスミン嬢。
ロゼッタ王国の王女。
そしてルイの左隣には、ルイの父親であるタリアテッレ国王が、そしてその横には王妃が座っている。
一方、ジャスミン嬢の隣には、彼女の父親でありロゼッタ国王のフィガロ陛下が、そしてその横に母親でありロゼッタ国王妃であるマリア様と続いている。
今回、ルイの兄であるタリアテッレ王国第一王子のリカルド様は、他国の任務に出向いていて、出席できないらしい。
レイラが席の配置を確かめていると、先ほどからうずうずしていたジャスミン嬢が、こらえきれなくなったように立ち上がり、バルコニーに駆け寄る。
「まぁ、すごい! 私も下に降りて広場の市場を楽しみたいわ!」
バルコニーから身を乗り出して、無邪気に言う。
その様子をエリカ様が窘める。
「危ないわよ、ジャスミン。戻りなさい」
母親に注意され、ジャスミン嬢は不服そうに頬を膨らます。
「だって見て、お母様。あのアップルパイ。なんて美味しそうなの」
すかさず王直属の料理長が口を挟む。
「それならこちらにお持ちいたしておりますよ。こちらのアップルパイは屋台で売られているものより、上等なリンゴを使用しております」
自信たっぷりに言う料理長。
彼の言う通り、バルコニーには屋台で売られている品々の上級品がすべて揃えられていた。
ジャスミン嬢は嬉しそうに料理長からアップルパイの皿を受け取る。
「まぁ、ハートの形をしているなんて可愛らしい……!」
満面の笑みで席に戻り、「ルイ様もお食べになって」と、一口大に切ったアップルパイをルイの口に向けて差し出す。
「いや、僕は甘いものはあまり……」
苦笑して遠慮がちに断るルイ。
どことなくこちらを気にしているのが伝わってくる。
「あら、甘いものは苦手でした? 初耳ですわ」
ジャスミン嬢は残念そうな顔をして、アップルパイを自分の口に入れた。
ゆっくりと噛みしめて、頬に手を当てる。
「うん、美味しい!!」
可愛らしくも品のある食べ方。
無邪気で幾分子供っぽい印象ではあるが、さすがは一国のプリンセス。
振る舞いに育ちの良さが滲み出ている。
なんとなく、レイラは第一王子が席を外している理由が分かった気がした。
両国王、王妃はどのような気持ちでルイとジャスミン嬢のやり取りを見ているのだろう。
自分の好きな人に、他の女の子が好意を寄せているのを目の当たりにして、レイラの胸はチクチクと痛んだ。
心に薄い靄がかかっていく。
溜息を吐きながら、二人から逸らした視線の先で広がる空は、《祭り日和》と言わんばかりに晴れ渡っていたが、自分の頭上にだけ、見えない雨雲が停滞しているような気がした。
* * *
収穫祭もすっかり佳境に入り、時刻は日が暮れて午後七時前。
予定通りレイラは中央劇場で任務に当たっていた。
劇場の裏から梯子で狭い通路に上がり、鉄板に寝そべり、怪しい動きがないか、ソフィアと手分けして監視している。
レイラがいるのは右側。
ジャスミンとルイに近い側だ。
二人は演奏に参加するためオーケストラと並んで座っている。
レイラは銃の照準を二人に合わせて備える。
不審人物が現れたとき、すぐに発砲できるように。
ソフィアがいる左側には、両国王陛下と王妃が座っている。
暗がりからひっそりとオペラを眺めていても、いまいちどのような内容なのか分からなかったが、この国で一番人気のある女優と俳優が出演しているらしいことは知っていた。
オーケストラもこの国随一の実力を誇る楽団を呼んでいる。
しばらくオペラは順調に進んでいった。
女性の高い声と男性の低い声、そして壮大な音楽が会場を包み込む。
物語について知識があれば、もっと楽しめたかもしれないと思ったが、オペラに気を取られるわけにいかないのだから、これで良かったのかもしれない。
(もうすぐジャスミン嬢のソロパート……)
レイラは特にオーケストラの周囲を注意して見ていた。
場面が切り替わり、静寂が訪れ、パッと舞台が暗転する。
──次の瞬間、《バン!》とスポットライトがジャスミン嬢に当てられる。
舞台脇にいるオーケストラの集団の中から、ジャスミン嬢の姿が浮かび上がる。
観客の視線が、一斉に彼女に向けられる。
その視線を跳ねのけるようにジャスミン嬢は立ち上がり、鼻から一息吸って吐き、再び短く吸い上げるのと同時に弓を弦にのせた。
まるで花が舞うかのような、軽やかで繊細な音。
複雑なリズムなのに可憐で、繊細さを失わない。
照準器を見つめたまま、不覚にも聴き惚れてしまう。
わぁっと客席から拍手が沸き上がる。
盛り上がりとともに音楽はテンポを上げ、激しさを増していく。
そのまま一気に最後まで駆け抜けようとしていた、
──そのとき!
突然スポットライトの光が、目も当てられないほど強くなる。
「……っ!!」
強烈な閃光に思わず目を逸らしてしまう。
ジャスミン嬢も目が眩んだのだろう、旋律が乱れ、音が止む。
「……なにが、起こって……、」
事態を把握できない。
まともに目を開けられるようになるより先に、響いてきたのはルイの叫び声だった。
「あぶない!!」
誰かが舞台に上がりこみ、ジャスミン嬢めがけて走っていく。
とっさにジャスミン嬢へ腕を伸ばすルイ。
細身だけど筋肉質で、優しさが隠れている腕。
彼の腕に触れられるのは、自分だけだと思っていたのに。
バン!!
目が眩みながらも、レイラはジャスミン嬢に襲い掛かる人物の足をめがけて狙撃した。
弾は見事命中し、間者はカラン、とナイフを落とし、舞台上でうずくまる。
「きゃあっ」
銃声に驚き悲鳴を上げたジャスミンはルイの腕にしがみつこうとする。
しかしドレスの裾を踏み、つんのめってしまう。
転ぶ寸前でルイに抱き留められ、それをいいことにルイの胸元に頬を摺り寄せる。
レイラはその光景を、照準器のガラス越しに見ていた。
すぐに周囲に警戒を走らせなくてはと思うのに、視線を動かすことができない。
──ズキン。
心の瓶に罅が入る、自分にしか聞こえない音がした。
その後レイラは、ソフィアに名前を呼ばれているのに気づくまで、怯えてルイにしがみつくジャスミン嬢と、それをなだめるルイの姿を、ぼんやり視界に映していた。
* * *
「私は緊急会議に出てくるから、その間に頭を冷やしなさい」
ソフィアに言われて自室に籠り、レイラは考えを巡らせていた。
(──ジャスミンを襲った男。あの男が身に着けていた制服……)
あれはこの国の軍人だけが着ることのできる制服だった。
もしかすると、この国の誰かが彼をそそのかしてジャスミン嬢を襲わせたのかもしれない。
しかし、タリアテッレ王国の人間に黒幕がいるのなら、どうして国王や王子ではなくジャスミン嬢を狙ったのだろう。
タリアテッレ王国の国政に対する不満や、派閥争いに原因があるなら、国王や王子を狙い失脚させようとするものではないか。
ロゼッタ国王ならまだしも、ジャスミン嬢を狙う理由がどこにある。
それとも個人的な恨みを晴らすためだろうか。
もっと深く考えたいところだが、残念ながらこの国の内政や情勢、人間関係についてレイラは詳しくない。
ジャスミン嬢を襲った男の目星をつけようにも容疑者が多すぎてどう範囲を絞れば良いのか分からなかった。
(なにか他に手がかりはないかしら)
──と、
《トントン》
扉を叩くノック音。
扉越しに声をかけられる。
「レイラ、私だけど。通達事項があるの。会議室に来てくれる?」
ソフィアだった。
時計を見れば、自分の部屋に戻るよう言われてから一時間が過ぎていた。
「はい」
整理しきれない頭で立ち上がり、そのままソフィアと部屋を後にすれば、会議室にはすでにルカとサラがいた。
空気が重い。
レイラが席に着いたのを見計らって、ソフィアが会議でのことを報告する。
「みんなもう気づいているでしょうけど、捉えられた人物がこの国の軍人だったことが緊急会議で問題になっていたわ。どうやら金銭目的の犯行で、ジャスミン嬢を襲うよう強要されたみたい。彼曰く、本気で襲うのではなく、襲うふりをしろと言われたらしい」
「ふり?」
ルカが眉をひそめる。
「そう、間違ってもジャスミン嬢に傷をつけるなというのが絶対条件だったそうよ。この国の軍人たちは、王宮に仕えているとはいえ貧しい。危険だとしても条件の良い話を持ち掛けられて魔が差したのでしょうね。……だけど、どうしてもそれ以上の情報は頑なに口にしないのよ。『誰に雇われたのか吐かないなら拷問にかける』と脅しても、『雇い主を吐けばどのみち死ぬ』の一点張り。」
少し考え込んでサラが言う。
「それはもう半分答えを言っているようなものじゃないの?」
雇い主を言えば殺される。
それはつまり、人を殺す権限のある人物が黒幕。
「……王族が関わっている──?」
自然と漏れた声。
レイラに視線が集まる。
私もそう思うわ、とソフィアが返す。
「ただの貴族に雇われたなら、吐いてしまった方が賢明だもの。王族に情報を与えるのと引き換えに手厚く守ってもらればいいんだから。でもそれができないということは、王族に黒幕がいるということでしょう。そもそも、本気でジャスミン嬢に恨みを持っている人間の犯行なら、『ジャスミン嬢を傷つけるな』なんて条件は出さないはずよ。軍人の雇い主はジャスミン嬢が傷ついたら困る立場にいる人間」
「ルイ王子か、タリアテッレ国王陛下かタリアテッレ王妃……、それとロゼッタ国王陛下かロゼッタ国王妃……」
天井を見上げて、サラが可能性のある人間を数え挙げる。
静かに話を聞いていたルカが足を組み変えて口を開く。
「やっぱり王位を狙っているルイ王子がジャスミン嬢と接近するために自作自演したんじゃないの? ──自分の手下にジャスミン嬢を狙わせて、彼女を庇う王子を演じる。彼女の心は自分のもの。彼女を手にしてこの国の王位にも一歩近づく」
「ルイはそんなことしない」
思わず口を挟んでしまう。
否定した自分の口調の強さにたじろぐ。
ルカはレイラに視線を向け、クスっと笑う。
「『ルイ』ねぇ……。あんたとルイ王子って一体どういう関係なの?」
(どういう関係……)
それは聞かれるまでもなく、レイラ自身、分からなくなってきていたことだった。
(私は、ルイにとって一体何なのだろう──?)
自分以外の女性を抱きしめる姿を間近に見て、何もできなかった。
立場の違いを思い知らされただけ。
自分とは違う世界で生きている人なのだと。
ルイにふさわしいのはジャスミン嬢のような女性なのかもしれないと、遠目に思った。
彼女は美しい。
ルイを守れる権力がある。
それに自信も、才能も、綺麗なドレスもティアラも持っている。
(それに引きかえ私は──)
ルイに与えてあげられるものなど、一体何が。
いくらルイが自分のことを好きだと言ってくれても、それを受け取ろうとすると惨めな気持ちになってしまう。
「ルカの言うように、ルイ王子の自作自演の可能性も考えられるけど、今のところは何とも言えないわね。調査するしかないわ。何か新たな情報が入ってくるかもしれないし、決めつけるのは良くない」
ルイがジャスミン嬢を襲わせてまで、彼女に近づこうとするはずがない。
(だって、ルイは私の──……、)
その先の言葉を、堂々と公言することがでない。
そうできない自分が、不甲斐ない。
けれど大切なことだからこそ、否定されるのが怖かった。
ルイの恋人であるということが、ルイが求めてくれるということが、ここにいる理由のすべてだったから。
レイラの頭の片隅には、《ルイが仕組んだのではなくむしろジャスミン嬢が仕掛けたのではないか》という疑念が薄っすらと浮かび上がっていたが、これ以上ルイとの関係を言及されたくなくて指摘しなかった。
しかしルイとの関係を問われたことに動揺して、このときレイラは見落としていたのだ。
冷静になれば容易に思いつく、その《ジャスミン嬢が仕掛けたかもしれない》という可能性を、ソフィアが見落とすはずがないということを。
いつのまにか会議とは違う内容に気を取られているレイラの肩を、ソフィアが揺する。
ハッと我に返る。
「ちょっと、レイラ聞いているの? ぼんやりしてないでよね」
すみません、と謝れば、しっかりしてよと目で念押しされる。
「……それでやっかいなことに、先ほど襲われたせいでジャスミン嬢が身の危険を案じているの。彼女はこの王宮の来客用の部屋において、最上級の部屋を利用しているけど、小間使いや兵士がどれだけ護衛に付いても安心できないみたい。実際に自分を守ってくれたルイ王子と一緒の部屋でないと嫌だと言っていて……。ルイ王子がどうおっしゃっているのか知らないけれど、タリアテッレ国王は『ジャスミン嬢のご要望とあれば叶えないわけにはいかない』と仰せで、ルイ様の部屋でジャスミン嬢が休めるよう手配しろとのことよ。さしあたり、陛下はこのタリアテッレ王国の王宮の中でも、とりわけ警備が厳重な部屋を使用しているルイ王子と一緒にいてもらうことで、少しでも信頼の回復に努めたいのでしょうね」
サラは頷き、
「要するに、ロゼッタ王国の信頼を回復するためにも、我々は命がけでジャスミン嬢を守らなくてはならないと」
ソフィアは頷き、一呼吸おいて告げる。
「そして最終的には彼女を狙った黒幕を見つけ、真相を暴かなくてはならない。それが私たちに課せられた使命よ」
「それで今晩から、ジャスミン嬢はルイ王子の部屋でお休みになることになった」
レイラの瞳が揺れる。
「そしてその部屋の警備をレイラ、あなたに頼みたい」
唾を飲み込み、言葉を失う。
返事をすることができない。
「他の皆にもそれぞれ任務がある。とはいってもいつもしていることと変わらない、情報収集だけど。サラは役所や門番、ルカは酒場や路地裏で聞き込みをして頂戴。情報収集は人脈と経験がものを言う仕事。だからレイラ、まだこの国に来て日が浅いあなたには任せられない。それで、ルイ王子の護衛が責任の重たい任務であることは分かっているけれど、腕の立つあなたならと思って」
「大丈夫です。了解です」
平静を装い、応える。
「ねぇ、ソフィア。ソフィアはなんの任務をするの? 私はルイ王子の護衛、ソフィアの方が適任だと思うけど」
腕組みをしてルカが言う。
「私は、ここの代表として現場検証に行くことになっているわ。まぁ、現場検証を行ったところで、あの様子じゃ収穫はなさそうだけど。情報を共有するためにも顔を出さないわけにはいかないの」
「……そう」とルカはつぶやく。
「なに、そんなにレイラがルイ王子の護衛をするのが不満なの?」
「べつに。そういうんじゃなくて、」
否定しかけたルカをソフィアが遮る。
「わかった。そんなに心配ならルカもレイラと一緒にルイ王子の護衛をして頂戴。一人より二人の方が安心だし。──いやね、本当に嫌がらせとかじゃなく、今回の件で軍人は信用できないから人手不足に悩んでいたのよ。いくら城の警備が頑丈とはいえ、レイラ一人でルイ王子とジャスミン嬢の部屋を護衛するのは心配だし、交代で守った方が効率が良い。現場検証が終わり次第、私が合流しようかと思っていたんだけど、あなたに任せるわ。ルカは国の事情や人の隠し事に詳しいから、怪しい人物を見抜くことができるはず。いつもの仕事が終わって戻ってきたら、レイラと一緒にルイ様の部屋の護衛をして頂戴。頼んでもいい?」
「はぁ」
一息に言われ、ルカは《しくじった》とでも言いたげな顔で声を漏らす。
次いで盛大にため息を吐く。
この様子じゃ、また初日みたく嫌味を言われそう。
身構えて心の準備をする。
「……まあいいけど」
──え、いいの?
思わずルカを見る。
「ジャスミン嬢はもうルイ様の部屋にいるの?」
「まだよ、広間でルイ王子をはじめ、タリアテッレ王国の王族一同がジャスミン嬢をなだめているはず」
「まぁ、じゃあ先にルイ王子の部屋に行って待つことにするか」
言うなりルカは立ち上がる。
「もう行って大丈夫?」
ソフィアに確認を取り、
「ええ、お願い。伝達事項ももう伝えたわ」
了解が取れると、
「わかった。ほら、いくよ」
と、一瞬だけレイラを見てすぐに背を向ける。
『ほら、いくよ』
相変わらずルカは振り返らなかったけれど、まさか自分に言葉を投げかけてくれると思わなくて、レイラは驚きつつ慌てて後を追いかけた。
* * *




