レイラとルイのそれから
それから三日後の朝のことだった。
あの晩レイラはギブ王国から脱し、ルイの祖国、タリアテッレ王国に亡命してきた。
しかしルイはコンサートの予定が入っていて忙しく、ニ日間はリアの屋敷に泊めてもらっていた。
そこでリアが従者に働き口を紹介するのを手伝っていたら、あっという間に日が暮れていき、今朝、陽が昇ってすぐにルイがレイラを迎えに来て、なぜかリアもついてきたのだった。
「【モートン卿、地位転落す】ですって」
ルイが住むタリアテッレ王国の屋敷の中で、一番豪華な客室のソファに腰を下ろし、新聞を広げたリアが言う。
「まぁ、当然の報いですね。無事事件が立証されてよかった」
ルイは淡々と返事を返し、メイドが淹れた紅茶をリアに勧める。
「ありがとう」
リアはそれを受け取り、上品に一口飲んだ。
モートン卿の地位が転落するに至ったのは、匿名で警察にこれまでの悪事がリークされたからだったが、それらの情報を警察に提供したのは他でもないリアだった。
屋敷の従者を解放し、難なく生活してほしかったとはいえ、従者全員分の働き口を用意していたのには驚かされた。
執事のディーンをはじめ、リアに心を尽くして従事していた者はいまでも自分の側近として屋敷に住まわせているらしい。
それらの手続きが滞りなく進むと、今度はモートン卿との婚姻関係を白紙に戻した。
どうやったのかは知らないが、あらかじめ卿の指紋を入手して書類を作成し、役所職員に無理を言って内密に受理させたらしい。
「それで? レイラちゃんはこの屋敷で暮らすことになるのよね?」
リアは手に持っていたティーカップをテーブルに戻すと、さりげなくハンカチでカップに着いた口紅を拭きとりながら尋ねた。
突然話題が自分のことになり、レイラはリアを見る。
「もちろん。何のために彼女を連れ出したと思っているんですか」
レイラの代わりに応えたのはルイだった。
「まったく、相変わらずレイラちゃんが大好きなのね」
否定せず、当たり前だ、とルイは紅茶をすする。
レイラの頬は紅潮していく一方だ。
「しかし、困ったことに、父上に屋敷に住む許可をもらうためには、この屋敷の従者になってもらうしかなさそうなんだ」
「えっ」
そんな話聞いていない、とレイラは思わず声を上げる。
「まさか、レイラちゃんを自分のメイドにでもする気?」
ルイは首を振る。
「レイラのメイド姿が見てみたい気がしないでもないですが……、いえ、僕の好奇心で彼女に下働きをさせるわけにはいきませんし、万が一兄の専属にでも割り振られたら僕は気が振れてしまう。それで、いろいろ考えてみたのですが、やっぱり、レイラは護衛隊に所属するのが一番良いんじゃないかと思って。……どうかな?」
どうかなと訊かれても。
ルイに問われ、レイラは答えあぐねる。
急にそんなことを聞かれても、この国に来た今の状況についていくだけでも精一杯なのに、──護衛隊? 所属する、って、チームで動いているのだろうか。
混乱しているレイラを見かねてリアが口を挟んだ。
「ちょっとルイ、あなた何を言っているの? レイラちゃんはまだこの国に来たばかりなのよ? そんな、右も左も分からない国に連れてこられて、『どうかな?』あんた馬鹿なの?」
ありえないと目を見開き、新聞をテーブルに投げ捨てて続けた。
「そもそも護衛隊の方がメイドよりましだと思っているの? 任務の内容によっては護衛隊の方が危険なのに。それこそレイラちゃんがこの国に来た意味がないじゃない。そんなふうにしか守ってあげられないのなら、私が預かった方がマシよ。このまま連れて帰ってしまおうかしら。」
「ちょっと待ってください、リア様。僕の考えを最後まで聞いてください。レイラを護衛隊に所属させるといっても、常に僕の側に置いて僕が守ります。危険な任務は絶対に行わせません。少なくとも……」
「浅いわね。現実をよく見なさいよ。護衛隊に所属させるなら、任務はレイラちゃんにも平等に割り振るべきよ。レイラちゃんを本当に守りたいと思っているならね」
「……それは、どういうことですか」
リアは呆れたように眉をひそめた。
「あなた、女の恐ろしさをまるで分かっていないのね。一人の女の子を特別扱いするということが、周りにどんな影響を及ぼすのか、──想像できない? ここの護衛隊は女性で成り立っているのよ? そのことについて、一度でもちゃんと考えた?」
「それは……、」
ルイは言葉に詰まる。
「だから浅い、って言っているの。結局は全部あなたの欲目じゃない。要するにレイラちゃんを独り占めしたいだけ。他の人の目に映したくないだけでしょう?」
ルイは何か言いたげに口を開いたまま止まり、結局言い返せずにつぐんだ。
悔しさからか、前かがみになり、脚の間で組み合わせた指先に力を込める。
「──僕にはまだ力がない。彼女を守れるだけの力が。情けないと思います。でも、それでも僕の目の届くところにいてほしい。そう思うのはいけないことですか」
リアの表情にほんの少しだけ、同情の色が混ざる。
「いけないとかそういう話じゃないわ。ただちょっと、自分勝手じゃないかと言っているの。《レイラちゃんにとっての幸せは何なのか》、一番大事なのはそこでしょう?」
『私にとっての幸せ』
「あの、」
口を挟もうとしたレイラだったが、リアに阻まれる。
「殺しをさせないのは当たり前。そしてこんなスパイが着るような服じゃなくて、ブティックのショーウインドウに飾られているようなドレスを着させてあげて。他の若い女の子たちがするように、可愛いリボンで髪を結ってお化粧をして、いろんなところへ連れて行くの。そして夜は子供みたいに安心して眠れなくちゃだめ。心から笑える時間も必要ね。その未来が約束できないなら、レイラちゃんは私が連れて行く。忘れないで、レイラちゃんを大切に思っているのはあなただけじゃないってこと」
レイラの頭にミアの顔が浮かぶ。
ミアはリアに雇われて、リアの屋敷でメイドとして働いている。
モートン卿の屋敷にいたころは男性がするような力仕事もさせられていたが、今は重労働から開放されて、料理が得意な彼女は主に調理場の仕事を請け負っていると、先日彼女から手紙が届いた。
『とてもよくしてもらっている』、と書いてあった。
『休日もきちんとあって、メイドの自分にはもったいない服を着させてくれるのだ』と。『お出かけにも付き添わせてくれて、美味しいケーキを食べさせてもらえて、まるでお嬢さんになった気分』だと。
その手紙にレイラは心からほっとした。
「もちろんです。僕の命に代えてでも彼女を守ります。彼女を幸せにするためならなんだってします。だから少しだけ時間をください。レイラ。居心地の良い居場所をすぐに用意してあげられなくてすまない。だけど必ず安心して過ごせるようにしてみせるから、どうか待っていてほしい」
ルイの力強い声音に、気圧されてレイラは頷く。
それを見て、仕方ないわね、とリアもため息を吐いた。
「その言葉、嘘だったら承知しないわよ」
ルイの顔を覗き込み、念を押した。
「さて、もうじき友達がこの屋敷にやってくるはずだから、私はお暇しようかしら」
「お友達、ですか?」
「えぇ、そうなのよ。ルイのお父様と国交のことで話があるとかで、家族で国を超えて遊びに来ることになっているの。バイオリン仲間でね。彼女に会う前にレイラちゃんの顔を見ておこうと思ったんだけど、来て正解だったわ。こんなに不安そうな顔をしているんだもの。大丈夫よ、レイラちゃん。いざとなったら私の屋敷に来ればいいわ。ミアと一緒に暮らしましょう。だから、『いざとなったらこんな男振ってやる!』って気概でどんと構えていなさいね」
「もう! なんてことを言うんですか。まったく、早くお友達のところへ行ってださい。僕の印象がどんどん悪くなる」
何てことを言うのだと、ルイがリアの退席を促す。
退席を求められてなお、リアは笑ってレイラに抱き着いて見せる。
「いいでしょう」
リアの華やかな見た目からは想像つかない奔放さが、やはり好きだ。
彼女の壁のなさに、肩の力が抜けていく。
「さっき言ったこと、あながち冗談じゃないからね」
耳元で囁かれたリアの言葉に、胸がじんとする。
根底にちゃんと優しさがある人なのだ。
頷くので精いっぱい。
「それじゃ、またね」
リアが手を振り部屋を出ていくと、ルイが扉を閉めて一つ息を吐く。
「さすがというかなんというか……、」
独り言をつぶやきながらレイラの隣に腰を下ろし、間近で顔を覗き込む。
「レイラ、お願いだから、僕から離れていこうなんて考えないで」
艶っぽい雰囲気に戸惑い、目を合わせられない。
「──護衛隊、ってなんですか」
雰囲気を変えたくて、つい話を逸らしてしまう。
ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
ルイはレイラの手を握り、もう片方の手でそっと撫でた。
「本当は僕のほうから詳しく護衛隊について教えて、仲間の紹介もしたいと思っていたんだけど、あいにくこれから予定があって時間がないんだ。父上から直々に呼び出しがかかっていて……。申し訳ないのだけれど、護衛隊の一人に屋敷の案内を一通りお願いすることにした」
そう言うとルイは扉に目をやり、「ルカ、入ってくれ」と言った。
扉が開き、他に染まらない意志を感じさせる赤髪をした、気の強そうな目つきとは裏腹に、線の細い美女が入ってきた。
すらりと長い脚と、手折られてしまいそうなほど細い腰に目を奪われる。
そこまで年齢に差があるようには見えないが、彼女の方が年下ということはさそうだ。
二つほど上だろうか。
見た目で年齢を推測したり、体格を見たりしてしまうのは《モルテ》として従事していた頃の名残だった。
「彼女は護衛隊の一員、ルカだ。屋敷の案内や業務の説明を頼んである。分からないことは何でも彼女に聞いてくれ」
頭を軽く下げるルカ。
ルイは部屋の時計を見る。
「名残惜しいけれど、もう父上のところに行く時間になってしまった」
レイラから手を離し、立ち上がる。
「忙しなくて申し訳ない。君の身の回りのものはもう用意してあるから何も心配しないで」
不安げにレイラが見つめると、ルイはレイラの頬を撫で耳元に唇を寄せてキスをした。
「君の部屋の枕の下を見て。今夜十時に会いに行くから」
ルイはルカに聞こえないくらい小さな声でそう伝え、『大丈夫だよ』と言い聞かせるように頭を撫でて出て行った。
それだけで心が軽くなったことに自分でも驚きながら、立ち上がり、ルカに向かい合って頭を下げる。
「ギブ王国から参りました、レイラと申しま、」
「いらない、そういうの」
最後まで言い切る前に、ルカはレイラの足を靴のかかとで踏んだ。
痛みと驚きでレイラは硬直する。
しかし痛みに顔を歪めたのは頭を下げている間だけ。
レイラは平静を装い、顔を上げる。
ルカは足を退けると、そのままくるりと体の向きを変えた。
『ついてきて』
その一言すら発さずに、ルカは部屋を出て行こうとする。
慌てて追いかけようとすると、
バタン!
目の前で扉が閉められた。
泣きたい気持ちになったが、目に力を入れて抑え、重たい扉を押し開けて彼女の後を追った。
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