殺せない殺し屋といつもの夜
拳銃の安全装置を外しながら、また今夜も眠れない、とレイラは溜め息を吐いた。
凍える夜の空気の中、レイラはレンガ造りの橋がよく見える林に潜り込み、木陰に身を潜めて、もうじき通るはずの辻馬車に照準を合わせていた。
今夜レイラが殺害するよう命令されたのは、グレゴリー卿に属する由緒正しい伯爵家の長、スペンサー伯爵だ。
スペンサー伯爵はグレゴリー派の中でも大きな勢力を持っている伯爵家の一つであり、レイラの雇い主であるモートン卿にとって邪魔な存在だった。
モートン卿は以前からスペンサー伯爵を疎ましく思っていたが、表面上は体裁を取り繕い、我慢強くスペンサー伯爵を暗殺するチャンスをうかがっていた。
スペンサー伯爵は用心深い人物なので、少ない護衛で人気のない道を辻馬車で走ることはめったにない。
基本的に厳重に警備が固められた自分の屋敷から出たがらない人物なのだ。
しかし、そんな彼も、隣国と外交をする際だけは屋敷を出ないわけにいかない。
警備の薄くなるそのタイミングだけが、彼を殺害する唯一のチャンスだった。
ところが、モートン卿はスペンサー伯爵が外交に赴く日時を掴めずにいた。
スペンサー伯爵は情報が外部に漏れないよう、細心の注意を払い、秘密裏に外交を行っていたため、なかなか外交日時を把握することができなかったのだ。
しばらく情報を得られないもどかしい日々が続いたが、ようやく今夜、スペンサー伯爵が辻馬車に乗って隣国に行き、貴族や政治家たちと会合を開くという噂を聞きつけた。
どうやら今回、卿は信じられないほど多額の金をつぎ込み、この国で一番と噂される情報屋を雇っていたようだ。
その情報屋が入手した話によると、スペンサー伯爵は今夜三つの辻馬車で隣国に出向くらしい。
前と後ろの辻馬車に乗っているのは護衛で、スペンサー伯爵は真ん中の馬車に乗っている。
モートン郷は情報屋に約束通り金を支払うと、レイラに事故死に見せかけて伯爵を殺害するよう命令した。
「モルテ、彼奴を消せ。今夜彼奴は隣国に出向く。分かっているだろうが失敗は許されない。これほどのチャンスは二度と訪れない」
「承知しました、我が主」
モートン郷はレイラのことをモルテと呼ぶ。
モルテはレイラに与えられたもう一つの名前だ。
レイラがモートン郷に絶対服従する所有物である証。
《モルテ》とは、イタリア語で死に神を意味する言葉。
レイラは言葉の意味を知ったとき、モートン郷に命じられるまま人の命を奪いに行く自分にぴったりな穢い名前だと思った。
自分では外すことのできない、呪われた名前。
レイラにとってモートン郷は絶対だ。
絶対的な主なのだ。
レイラのいる国から隣国に行くためのルートは二つある。
一つは正門を出て行く正規のルート、もう一つは橋を渡って遠回りして行くルートだ。
しかし、後者は一部の人間にしか知られていない。
情報屋の報告によると、スペンサー伯爵は深夜の二時頃に屋敷を出て辻馬車で隣国に出向くとのことだった。
夜に正門は空いていないから、橋を渡るルートを使うはず。
レイラはそのルートで隣国に行く場合、身を隠すのに最適な場所を知っていた。
橋の近くにある林だ。
そこなら自分の身を隠してターゲットを狙うことができる。
潜伏場所を決めると、さっそくレイラはスペンサー伯爵が城を出てから橋を通過するまでの時間を頭の中で逆算し、計画を練った。
まず、一発目の狙撃でスペンサー伯爵の頭を撃ち抜き、絶命させる。
そして二発目で馬車の車輪を撃って金具を壊し、馬と業者が乗っている部分を切り離す。
そうすれば狙撃の衝撃で車輪が壊れ、バランスがとれなくなった馬車は伯爵を乗せたまま川に落ちるだろう。
わざわざ連結部分を切り離さなくても暗殺することは可能だが、それだと手綱を引く業者まで川に落ちてしまう可能性が高い。
奪う命を最低限に抑えられるように、レイラは業者を巻き込まない方法を考えた。
前後の護衛を殺さないためにも、スペンサー伯爵は一発で仕留めなくてはならない。
もし外して中途半端に怪我をさせてしまったら、前後の護衛に気づかれ、護衛の者まで殺さざるを得なくなるかもしれない。
(一発だ。一発で仕留めなくては)
レイラは事前に立てた計画を、時間が許す限り、何度も脳内でシミュレーションした。
レンガ造りの橋の上は石畳になっており、等間隔で置かれている街頭から申し訳なさ程度に灯りが落ちている。
その薄黄色の灯りがレイラにとっては狙撃のタイミングを計る目安になった。
片目をつぶり、拳銃を持つ右手を左手で支え、何度も照準を細かく修正する。
計画を完璧にこなすためには、微塵のズレも許されない。
《ここだ》という完璧な位置を見つけると、レイラはその体勢のまま、じっと馬車が来るのを待った。
やがて少し遠くから、コツコツと馬の蹄が石畳を鳴らす音が響いてきた。
音はだんだんと大きくなり、着実に近づいているのが分かる。
レイラは耳を澄ましながら、馬車がどれくらいの距離にいるのか測った。
絶えず耳を研ぎ澄まし、しかし目は拳銃の照準から離さない。
そして視界の端に馬の頭が入り込んだその瞬間、レイラはすっと息を止めた。
──パン!!パン!!
まず一発、そしてすぐにもう一発、レイラは恐ろしいほど的確なタイミングで射撃した。
夜の冷えた空気の中に乾いた破裂音がこだまする。
役目を終えた拳銃から薄く煙が立ち上る。
レイラが撃った最初の一発は見事スペンサー伯爵の頭を撃ち抜き、粉々に割れた馬車のガラスが花火のように周囲に飛び散った。
次いで撃たれた二発目も計画通り馬車の車輪の金具を壊し、均衡の取れなくなった馬車は大きく傾く。
異変に気付いた業者が慌てて、思いっきり馬の手綱を引いた。
突然喉元を締め付けられて、いななく馬の声が苦しそうだ。
業者はなんとか馬を橋の上に踏み留まらせることができたが、スペンサー伯爵が乗っていた後部座席は、無慈悲にも橋の上から真っ逆さまに川へと落ちていった。
バシャン!
と大きな音がして、何事かと前後の護衛が馬車から降りてくる。
彼らは橋の上から川を覗き込んでいたが、もはや救い出すことは不可能だろう。
──手遅れだ。
どれだけ必死に探そうとも、スペンサー伯爵の死体は深い川底に沈んで見つからない。
林の小さな枝葉の隙間からその様子を眺めていたレイラは、慣れた手つきで拳銃を腰のポシェットにしまった。
そしてすぐさま立ち上がり、膝についた土を手で払う。
任務を終えた以上、長居は不要だ。
レイラはくるりと林に背を向けて、一つに結った長い黒髪を夜の闇に揺らしながら、足跡を残さず、主の待つ鳥籠の城へと帰って行った。
* * *
人々の寝息すら吸い込んでしまいそうな夜闇の中、レイラはモートン卿邸宅の庭を横切り、草木で隠されている小さな裏口から玄関である大広間に入った。
大理石でできた床は曇り一つなく磨き上げられ、二階に続く横幅の広い直階段には、上質な深紅の絨毯が敷かれている。
階段の横には石膏でできた花台が置かれていて、その上には紫の胡蝶蘭が、美しいガラス細工の花瓶に生けられている。
レイラの記憶が正しければ、昨日の朝、花瓶に生けられていた胡蝶蘭は白だった。
まだ枯れるどころか入荷したばかりだと聞いたのに、もう入れ替えてしまったのか。
(……馬鹿みたい)
この屋敷には、恐ろしく高級なものしかない。
レイラは、この屋敷にあるそれらすべてが嫌いだった。
視界に映り込むたび壊してやりたい衝動に駆られる。
モートン卿にとって、絨毯や花瓶や花といった装飾品は、権力を誇示するための見世物にすぎないのだ。
そして彼の目には、掃いて捨てるほどあるそれらの装飾品よりも、市民の命の方が価値のないものとして映る。
どれだけ間違っていようが、金と権力を持ってさえいればその人物の考えがまかり通るなんて、どうかしている。
そして信じがたいことに、あれだけ人の命を軽んじていながら、モートン卿は直接人の命を奪ったことがないのだった。
その実、今夜だって実際に手を汚したのはレイラだ。
レイラはとある事情があり、モートン卿の従順な下僕になることと引き換えに屋敷に住むことを許され、食事や服など、色々と面倒を見てもらっている。
こんなにも彼を嫌っているのに、彼が持つ金や権力のおかげで生きているなんて反吐が出そうだ。
──特に今夜は、殺しなどせず、心穏やかに過ごしたかったのに。
クチナシが満開を迎える優しい季節。
今日はレイラの母の命日だった。
不意に母の顔が脳裏に浮かべば、レイラは遣る瀬無くなり、階段を上がっていた足を止めて冷えた手をぎゅっと握り締めた。
指先にはまだ、先ほど撃った銃の衝撃が残っていた。
後ろめたさを感じたところで、他に選択できる道などなかったのだし、今更何をしても伯爵の命が戻ることはない。
分かっている。
分かっているのだ、そんなこと。
レイラが横を向くと高窓から月明かりが差し込んでいた。
高窓からひっそりと大広間に落ちる月明かりは、満月には程遠い、三日月にもなれないか細い月だった。
レイラは自分の瞳が滲むのを感じた。
なんだかすべてが嫌になって、しゃがみ込んで泣いてしまいたくなったが、それを払いのけるように首を横に振り、何も考えまいとした。
きっと今頃、召使いたちはみな自室に下がり、それぞれ眠りについている。
レイラは込み上げる溜息を一つ一つ潰すように、ゆっくりと階段を上っていった。
足音はしない。
それは日ごろの生活で染みついた悲しい習慣だった。
いまやレイラにとって誰にも気づかれないように屋敷に潜入するのは造作もないことだった。
階段を上り切り、眠るために自室へ向かおうとすると、不意に背後から屋敷の執事であるディーンに呼び止められた。
「モルテ様。主様がお呼びです。至急会議室にお向かいください。」
──こんな時間に呼び出し?
思いがけない言葉にレイラは息を飲む。
「いますぐ?」
時計の針を見れば、深夜零時をとっくに過ぎている。
「はい。今夜は《夜鷹》の集会が開かれております。帰り次第、モルテ様をお呼びするようにとのことでした」
──夜鷹。
そういうことか、とおよそを察し、レイラは鼻で笑う。
「それはどうもご丁寧に。主様はどうやら、私にお仲間の前で今夜の仕事の報告をさせたいみたいね。それでもし失敗していたら、いたぶって殺すおつもりなのでしょう? ……見世物にするなんて悪趣味な。そんなことをされるくらいなら、このまま窓から飛び降りてしまおうかしら」
皮肉で言ったつもりだったが、ディーンはにこりともしなかった。
張り合いがなくて白けた気分になる。
「どうか早くお向かいくださいませ、モルテ様。モルテ様がお遅れになると私にもお叱りの矢が向きます。心中お察しいたしますが、どうかお気持ちをお静めください」
深々と頭を下げるディーン。
溜息を吐きつつ、レイラはその手に目がいった。
日ごろ、あれだけ神経質なまでに完璧な身のこなしをしているディーンが、どういうわけか手袋をしていない。
良く見れば彼の重ねられた手の甲には痛々しいむち打ちの跡がついている。
おそらく彼は寝ているところをモートン卿にたたき起こされ、仕事を言い渡されたのだ。
手袋をつけている余裕がないほど急かされたに違いない。
モートン卿は感情が昂ると、意味もなく従者の手を鞭打つ癖がある。
今夜はスペンサー伯爵の暗殺日であり、いうなれば今後の行く末が決まる運命の夜。
神経の高ぶりを抑えきれず、ディーンにぶつけて解消しようとしたのだろう。
成す術もなく、痛みに耐えているディーンの姿が思い浮かべば、レイラは同情した。
「分かっているわ。冗談よ」
どうせ主に逆らうことなどできないのだ。
レイラはディーンに言われた通り、足早に会議室へ向かった。
先ほどはディーンの前で軽口をたたいてみせたレイラだが、本当は〝夜鷹〟の集会に呼ばれて、緊張のあまり冷や汗をかいていた。
これまでも何度か集会に呼ばれたことはあるのだが、そのときも蛇に睨まれた蛙のごとく硬直した。
何せレイラを睨む蛇は一匹ではない。
タチの悪いのが四匹もいるのだ。
レイラは会議室の扉の前に立ち、両開きの開き戸に取り付けられた真鍮のドアハンドルに手を伸ばした。
ふぅ、と息を吐き、ポールを握る手に力を込める。
そのまま力いっぱい、前に押して中に入れば、真正面にモートン卿の姿があった。
卿は派閥の長らしく堂々といつもの席に着き、机の上に両肘をついて指を組み合わせ、値踏みするように鋭い視線でレイラを捉えた。
目が合うや否や、レイラは瞬時に片膝を床に着き、頭を伏せ、忠誠を示す体勢をとった。
「ただいま戻りました。我が主」
顔を床に向けたまま、モートン卿の言葉を待つ。
「待っていたぞ、モルテ。表を上げよ」
ゆっくりと、一音一音、心臓に響く低い声。
言われた通り顔を上げれば、卿の威圧的な視線とかち合い、ゴクリと生唾を飲む。
「──それで?」
モートン卿は多くを語らない。
屋敷の従者たちにとって、卿の言葉の含みで、何を問われているのか察するのが常習だ。
的外れな返答は卿を苛立たせる。
だから卿との会話は、数言のやりとりでも相当なエネルギーを消費した。
「はい、ご指示の通り、事故死に見せかけて馬車ごと川に落としました」
スペンサー伯爵の死は待ちわびた吉報のはずだったが、モートン卿は顔色一つ変えなかった。
しかしそれは喜んでいないからではなく、それくらい卿にとって下した命令が通るのが当たり前ということだった。
卿の描いた未来が訪れない、──すなわち従者がミスを犯す可能性など端から想定されていないのだ。
「良くやった。明日は宴を開こう。特別にお前にも席を用意してやる」
──最悪だ。
「はい。身に余る光栄です」
レイラは無表情で定型文を読み上げた。
と、顎にひげを蓄え、額に脂汗を浮かべたフォーブス伯爵が下品な目つきでレイラを見る。
「卿殿、前任の男の殺し屋とは違ってこれは綺麗な娘ですな。こんな華奢な娘が殺しをするなど、半ば信じられませぬ。踊り子にでもしたら人気がでるでしょうに」
レイラは気持ち悪くて身震いをしそうになったが、その様子はおくびにも出さなかった。
モートン卿が乾いた笑い声を上げる。
「腑抜けたことを言ってくれるな、フォーブスよ。モルテは儂が育てたのだ。身寄りのないこやつを引き取り、拳銃の握り方から情報収集の仕方、潜入の仕方まですべて儂が仕込んでやったのだ。そこらの殺し屋よりずっと腕が立つ。──下らぬ下層階級の踊り子になどするものか」
冷たい語気に顔をこわばらせるフォーブス伯爵。
卿の駒を色目で見たという失態が伯爵の目を泳がせる。
ピリピリとした空気を見かねて、サラバン伯爵が助け舟を出した。
「しかしまぁ、良かったですな。スペンサー伯爵を無事始末できて。これで政権は我ら夜鷹のものとなりましょう」
満足そうに頷くリヴォーグ伯爵。
頷くたび顔に掛けた小さな眼鏡が明かりで光る。
「いやはや、これほど順調に計画が進むとは。少し怖いくらいですよ」
「それもこれも卿の作戦あってのことですな!」
ここぞとばかりにフォーブス伯爵がモートン卿を持ち上げる。
安い社交辞令が卿の癇に障ることを知らない伯爵は、のんきにヘラヘラと笑っている。
案の上、卿にギロリと睨まれ、また顔をこわばらせることになる。
その様子を眺めながら、レイラは奥歯をかみしめた。
侃々諤々、政治の会議でもしているのかと思えば、夜鷹など所詮このざまだ。
恩恵を受けている伯爵家の人間が、卿が持つ権力という名のグラスに「お世辞」という名の酒を注いでいるだけではないか。
くだらない。
この人たちはこれだけの地位にまで上り詰めておいて、これ以上何を望むというのだろう。
今の生活のどこに不満があるというのか。
レイラの心はどうしようもなくささくれ立ち、普段なら考えず素通りできるところで引っかかっていた。
早く部屋に戻って眠りについてしまいたい。
「モルテ。もういい。下がれ」
モートン卿が満足したようにレイラに言った。
「承知しました。我が主」
レイラは言われるがまま会議室を去り、とりあえず何事もなく集会を終えられたことに安堵した。
* * *