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件の夜

「はぁ、終わったぁ~」


日頃からかなりの量が出る生物の課題を終え、ぐっと背伸びをする。


部活から帰ってすぐに始めたが、結構時間を喰ってしまった。


夜も更けてきて、もうすぐ11時を回るところだ。


テーブルライトの明かりを消し、紅茶でもつぎにいこうかと部屋を出て、階段を降りた先にあるリビングに向かう。


リビングの引き戸に手を掛けたところで、パタン、と大きな音を立てて乱雑に戸が開く。


ムスッとしたような顔の妹が立っていた。


「なに」


妹が少し赤くなった目で、不貞腐れたようにこちらを睨む。


鋭い眼光に俺は少しばかりたじろいだ。


「え、いや、なにも」


「どいて」


「お、おう」


俺は一歩下がる。


妹はわきを通り過ぎて階段を駆け上がり、二階の自室へと戻っていった。


開いた戸からは、父がこめかみをおさえ、深々と溜息をついていたのが見えた。


親子喧嘩でもしたのだろう。


沸かした湯をカップにゆっくりと注いで、紅茶を香り立たせる傍ら、父に話しかけた。


「また夜遊び?」


「……ああ」


父は投げやりに答えた。


「いつ帰ってきたの?」


「15分くらい前」


「なんて言ってた?」


「女友達とカラオケに行ってた、だって」


「ふぅん」


俺の返事が興味なさげに感じたのだろうか、父はむっとしたように語気を強める。


「……お前なぁ、妹のことなんだから、もうちょっと真剣に」


「まぁまぁ、反抗期ってやつでしょ。いいんじゃないの?少しくらい」


「でもなぁ……。奏汰に反抗期が来るってんだったら、分からなくもないが。まさか、春香が……」


父は大きな溜息をついた。


春香は素直で物静かな俺の妹だ。父曰く、『ひねくれ坊主で手のかかった』俺とは対照的に、物分かりがよくて愛嬌があった。春香はお気に入りのクジラの抱き枕以外、なにか物をねだるということもあまりなかった。


授業参観に参列できず旅行にも連れて行けず、ごめんなと謝ってばかりいた父を、咎めることもなかった。


母は妹が物心つく前に亡くなっている。そのため、俺たちの面倒は長らく父が見てくれていたのだが、男手一つで子供二人を育てる父の苦悩を、妹はどことなく感じ取っていたのかもしれない。


妹はどちらかといえば内向的で、一人静かに本を読むことが多い。かといって根暗かといえば、そうわけでもない。コミカルな小説を読めば声を立てて笑うし、俺にも読んでほしいという本を見つけたら、その感動をまくしたてて話してくれる。楽しそうに語る妹を眺めて和むのは、俺のひそかな楽しみだ。まぁ、本を渡されても大抵は棚の肥やしになっていたのだが……。


だからだろう。それまでの“お利口”な振る舞いをすることに嫌気がさして、一気に反動がきたんだとしても驚くことはない。俺としても、妹が控えめな分、小さいころは父にかなり我儘を言っていたので、そうなるまで妹に遠慮させ、我慢させていたんだとしたら、申し訳ない気持ちになる。


そういう負い目もあって、俺は妹が荒んでも口を出せないでいた。


俺が紅茶を啜りながらスマホをいじっていると、父が声をかけてくる。


「今日、洗濯頼めるか?」


「エ?」


俺がとぼけたような返事をすると、ノートパソコンのキーボードを叩く手を止めて、父はこちらに顔を向けた。


「明日の分の資料がまだ作り終わらなくてな。手が回らん。奏汰は今から風呂入る所だろ?最後だし丁度いい」


「えぇ~」


面倒くさいです、と暗に伝えるためにごねるような声を出せば、父は俺を睨み、無言の圧を掛けてくる。


「……」


「小テストが近くてですね……」


「明日、土曜は登校日じゃないだろ?」


「ま、まぁ……」


くそ、ごまかせなかった。


俺の通う高校では、土曜日でも午前中だけは、あるいは午後だけは登校しないといけない日が月に一、二度ほどある。しかし、明日はあいにくその日ではない。間の悪さを嘆くばかりだ。


「……」


父はじっとこちらを見つめてくる。


「わ、分かったから。やりますやります」


居心地の悪さに耐えられなくなった俺は、きまり悪さをごまかすように早口で答える。


「お、そうか。それはありがたい。よろしくな」


「はぁ……」


俺は大きくため息をついて、立ち上がった。


面倒だなぁと重い足どりで風呂に向かう。リビングの戸を開きかけたとき、ふと気づいた。


「はるちゃんは入らないの?」


俺が最後ということは、父と妹が先にふろに入っていることになる。が、少し前に帰ってきたという妹は、まだ風呂には入っていないはずだ。俺が最後ということにはなるまい。


「いや、今日はいいらしい」


「えぇ……」


それは大丈夫なのだろうか、女子として……。


 


 


 


 


洗濯物をパンパンとはたいて、ハンガーにかけていく。


基本的には室内干しだ。土日はともかく、日中は家に誰もいないから、ベランダに干しても取り込むタイミングがない。生乾きのようなにおいがするだろうと思われるかもしれないが、最近の洗剤と柔軟剤は有能で、服が湿気たようなにおいはほとんどしない。


まだ妹が小さい頃は、俺が洗濯物をハンガーから外したのをたたむ係であった。ソファの上にちょこんと座り、膝の上に服を広げる姿はとても健気で愛らしかった。


妹が手伝ってくれるたびに『はるちゃん、エライ!』『はるちゃん、お利口!』とほめちぎり、はやしたてたせいか、気をよくした妹は洗濯物のとりこみを全部自分一人でやるようになった。代わりに俺は洗濯機を回す閑職についていたのだが、妹が成長して洗濯機の動かし方までわかるようになると、それも引き受けるようになった。


妹曰く、俺が洗濯すると服のポケットの確認やら、雑に脱いで裏返ったズボンや靴下の直しやらがまるでなっていないので、イライラするのだそうだ。


まるで主婦のようなことを言うと笑うと妹は、『誰か、同棲してくれた人を怒らせないようにね』と心底心配そうな顔で言っていた。


……妹よ、そこは『私がお兄ちゃんと結婚するんだからいいの』みたいな、定番のデレをくれるところではあるまいか。割と真顔で言われたから、結構落ち込んだんだぞ。


それはともかく。


そんな風に精力的に家事を手伝っていた妹であったが、夜遊びが多くなるにつれてその機会も減っていった。今は主に父と俺が分担する形になっている。ま、反抗期がそう何年も続くことはあるまい。俺は反抗期が来なかったからわからないが、長くても高校生になるころくらいには落ち着くものじゃなかったかな?それまでは気を長くして待っておくとしよう。


ひととおり洗濯物を干し終わって時計を見てみれば、もう日をまたぐぐらいの時間であった。どおりで、目が霞んできたわけだ。


うんと唸って背伸びする。


はぁと脱力すれば、一日の疲労がぐっと肩にのしかかる。


今日はよく頑張った。


明日は昼まで寝ようかしら。


週末、何にもせかされることなく惰眠を貪るのは、この上ない幸せだ。


さぁ、怠惰を満喫するとしよう。


 


 


 


 


その日、俺は、夢を見た。


展覧会で、白い壁に掛けられた絵を見てまわる夢。


俺は、いつもは熟睡して夢を見ることもないので、とても珍しいことだ。いつになく疲れていたのだろうか。


秀麗な額縁に飾られた絵はどこかの街を描いたような風景画だ。


だが、描かれた街にはすべて、なにか異様なものが入り込んでいた。


窓ガラスを割ったかの如くひび割れた赤い空から、長い腕が垂れていたり、皮膚が爛れたように歪んだ真っ黒なドアが開きかけていたり、街を覆うほどにかさを広げたキノコが、煙たい胞子をまき散らしていたり。


どれもグロデスクで、おどろおどろしい。


絵の具を厚く塗りたくった油絵で、決して写実的とは言えない印象である。が、しかしどことなく、その絵が虚構ではないような、妙な現実感をもって俺に迫ってきた。底知れぬ不安が俺の心を絡めとる。


……もし、これが神様の気まぐれか、悪魔のいたずらでこんな悪夢を見たんだとしたら、もうすこし審美眼の有るやつに見せればいいのにと思う。美術にさいして興味のない俺は、これがどういった価値のあるものかを知らない。


まぁ、こんな絵をかける人は、幸福ではあるまい。それだけは感じる。


絵画の、厳とした質量感に心が締め上げられながら、嘲るように俺は笑った。


 


「――ぃちゃ――」


「んん……」


「お兄ちゃん、起きて」


「ん~」


妹は、ぐっすりと寝ている俺をゆさぶる。


妹の方に寝返りを打ち、ねむけまなこをこすって開けてみれば、妹が疲れた顔でこちらをのぞき込んでいた。


妹の眼もとには、うっすらと隈が浮かんでいる。


「なに」


「なにじゃないって。もう、11時だよ」


「ん……。まだ午前」


布団をかぶって丸まる。


「何言ってんの!もう昼だって!おきて!」


妹は一段と激しく俺の身体を揺らしてくる。布団越しなのに、よく揺れる。


「はるちゃんももうちょっと寝れば?」


「え?」


「眠そうだよ」


「……」


顔を少しだし、妹を見やる。


布団を揺らす手がとまり、妹は気まずそうに目を逸らした。


俺はその隙をついて、ガバっと起き上がり、妹を抱き寄せる。


「きゃっ」


「ほら、久々の添い寝だ」


不用意に近づいた妹を布団の中に引き込む様はさながらアリ地獄だ。妹地獄とでも呼んでおこうか。


「いいって!いいって!」


「まぁまぁ、今日くらい兄孝行をしてくれたまえ」


「なにいってんの!じゃま!うざい!」


え、うざ…ぇ…!?


槍で貫かれたかのように、じくじくと心が痛む。


「んー!!」


妹は抜け出そうと手をつねったり引っかいたりして暴れるが、俺が腹に腕を回してがっちりホールドしていたのもあって、脱出できなかったようだ。俺の手は相当赤くなっていることだろうが……。


妹は観念したように力を抜く。


丁度胸辺りに妹の頭がきているので、頭を撫でてやる。


妹は『ん~』と、不満そうな声を漏らす。


俺は、まぁまぁと言って妹の髪をそっと撫でつける。


……妹がもう少し成長したら、お兄ちゃん呼びもしてもらえなくなるだろう。


こんな風に、添い寝することも二度とあるまい。


だからというわけでもないが、今だけは腕の中にいてほしい。


ちょっとだけだから、さ。


ささくれだった妹をなだめるように、やさしくなで続けていると、ぽつりぽつりと話し出した。


「ねぇ、お兄ちゃん……」


「なに?」


「もし……。あ、やっぱいいや」


「なになに、それめっちゃ気になるやつやん。言いかけたんなら、最後まで言ってよ」


「えぇ~」


「ほら~」


妹の身体を揺らせば、煩わしがるような、しかし上ずった声でやめてと俺の腕をはたいた。


け、結構痛いぞ……?中学生が出す力ってこんなもんだっけか?


妹はふぅと一呼吸おいて話し始めた。


「もし、自分が命を張らないといけないとして……誰の為だったら大丈夫?」


「なにそれ」


「いいから……」


「……う~ん」


まさか、妹が世界を救うような、ヒーロー活動をしているという訳でもあるまい。なにかの比喩だろうか?


とはいえ、考えたこともないテーマである。むむ、ちと難しいな……。


「そうだね……。きょうだい二人の為か、いとこ八人の為なら、俺の命と引き換えに助けても後悔はないかな」


「なにそれ」


妹はくすくすと笑う。


「でも特別に、俺ははるちゃん一人だけでも大丈夫だよ?」


「え……?あぁ、きょうだい二人のところを、一人でいいってこと?」


「そそ」


「うわ……。おも……」


「そんなはっきり言わんでいいやんけぇ」


妹はからからと楽しそうに声を上げた。久々に聞いた、妹の心からの笑い声だったように思う。


妹はひとしきり笑い、ふぅと呼吸を落ち着けるために息を吐く。


「ありがと……」


独り言のようにつぶやいた妹の言葉からは、すこしだけ、彼女の気持ちが軽くなったような気配を感じる。


「どういたしまして」


抗えぬ二度寝の睡魔に身をゆだね、俺はゆっくりと瞼を閉じた。


 


 


 


 


「へぇ、二回の反抗期以外に、ギャングエイジってあるんだ……」


日曜日の夕暮れ、積読していた新書を読み終わったところだ。子供の発達に関するもので、妹の反抗期の到来に衝撃を受けた俺が、半年くらい前に買っていた。父の書斎にも同じ本があったのは笑った。


分野としては発達心理学に関わるものらしく、第一次反抗期は二歳ごろまでに現れ、第二次反抗期は中学生、思春期の頃に現れることが解説されていた。またそれとは別に、小学生中ごろにかけて、周囲からの影響を受ける中で生じるギャングエイジなるものがあるらしい。大仰なネーミングに面食らうが、親や先生といった大人への依存から抜け出す重要な契機ということらしい。


もう、小さいころなんて覚えていないからわからないが、俺も妹もその頃は父を大変困らせたのだろう。そう考えると、二度目の反抗期に差し掛かった妹は順調に育っていることになる。安心といえば安心……なのだが、やっぱり悲しいものは悲しい。


兄心妹知らずだ。


しかし、たまには落ち着いたはるちゃんが戻ってきてほしいとも思う。


さすがに、そう何日も夜に家を出ていくと、ひやひやしてしまう。


自室を出て、コーヒーを継ぎなおそうと階段を降りると、妹が玄関で靴を履き替えているのが見えた。


む。こんな時間に一体どこへ。


「どこいくの?」


俺がそう問えば、妹は踏み出そうとした足を止めた。


「え?あぁ。友達の家……」


「こんな時間から?明日は学校でしょ?」


「きゅ、急な用ができたから」


「……」


もう日暮れ時だ。そんな時間から友人を呼びだすようなことがあるのだろうか?


俺は訝しむ視線を投げかける。


「いってきます!」


妹は逃げるように駆け出して行った。


ガチャンと、玄関のドアが閉まる音が響く。


流石に怪しい……。


急に呼び出されでもしたのだろうか?


断ることもできず、ああまで焦って?


いじめ……?


うっすらと、嫌な予感が首をもたげてくる。


これは妹の交友関係、干渉するべきではないのだろうが、ここまでくるとさすがにきなくさい。


俺は急いで靴を履き、カップを玄関に置きっぱなしにして、急いで妹の後を追って走り出した。


大急ぎで追いかけると、住宅街の通りを走っているのを見つけた。


かなり足が速いようで、もう遠くの方にまで行っている。


見失わないように、しかし後をつけているのに気づかれないように、ほどほどの距離を保つ。


しばらくの間そうして走っていると、角を曲がって裏道に入っていくのが見えた。


どこに向かっているのだろうか?こっちは学校の方向でもないし、駅に向かう方向でもない。


同じ道をひた走りながら、妹の目的地に考えを巡らせるが、皆目見当もつかない。


俺も裏道に差し掛かり、妹が入っていった方に顔を向けてみれば。


人影が、空に吸い込まれるように、音もなく飛んでいったのが見えた。


「え……?」


その人影は遥か向こうへと飛んでいき、あっという間に見えなくなった。


裏道を走っているはずの妹の姿も見えない。


「どういうこと……?」


ま、まるで意味が分からないぞ……。


 


妹が遊んでくるといった日は、本当に遅くまで家に帰らない。


今日もそんな感じなら、妹が帰宅するまで時間があるということだろう。


というわけで、見失った妹を探して、しばらく街をうろつくことにした。


俺が追いかけていたのに気づいて、撒くために裏道に入ったのだろうか?


あるいは……。いや、あんな鳥のような動きを人間ができるはずがない。しかも、それがよりによって妹なんてことも、あるまい。


多分、飛蚊症というやつか何かだろう。昨日、ちょうど医療番組でやっていた。


黒い影が視界に紛れ込んでくる病気。それと人影を見間違えでもしたのだろう。


来週あたりに眼科にでも行こうかしら。


ま、分からないことは考えても仕方ない。とりあえずは、裏道をまっすぐ行った方角を目指すことにした。


もうすっかり日も暮れてきたので、街道をゆく人の顔も、陰で見分けがつかない。


とはいえ、妹は身長も中学生並みなので、小さめの影が夜にうろちょろしていたらわかるだろう。


この先には公園がある。住宅街をすこし外れた場所にある広い公園だ。


その公園は、子どもの怪我を防止するため、アスレチックの類が年々撤去されていき、もはや更地に近くなってしまっている。更地ということは、遊び道具は自分で持参しないといけないわけで、しかも大抵の遊び道具は誰かと遊ぶことを想定している。


だから、昔はぽつぽつと一人で遊んでいた子供もいたのだが、最近公園で見かけるのは家族連れか友達で集まったグループばかりである。ぼっちには厳しい世の中になってしまった……。


しかし、そんな多くの人で賑わう公園も、日が沈んでみんな家に帰ってしまったためか、ひどく閑散としていた。


公園の入り口を街灯がかすかに照らすばかりである。


闇の帳に覆われた街の中で、鍋底に落ち込んだように、この公園には暗闇が淀んでいた。


夜の学校といい、公園といい、なぜだか不気味な雰囲気を纏っている。


長居したい場所ではないなと思いつつ、公園を見渡した。


すると、遠いところで、ぽつりと人影らしきものがゆらめいているのが見えた。


妹……だろうか?


遠目からではどれくらいの身長かわからない。


はやる気持ちをおさえながら、人影の方へ走り出した。


「あの~すいませ~ん」


遠くから声をかけてみるが、人影は振り返らない。


なおもずんずんと近づいていくと、生暖かい風が頬を撫でるのに気づいた。


まだ、夏ではない。


さっきまでの夜風はひんやりとしていて、急に温かくなることはないはずだ。


よもや、公園で焚火でもしているのか?


……そんなわけはない。


これは、引き返した方がいいかもしれない。


身を固くする。


何が起こるかわからないから、昔の人は『触らぬ神に祟りなし』という言葉を残しておいてくれたのだ。危険は不意に襲ってくるから、逃げるのが難しい。それはちゃんと理解している。


だがその一方で、あの人影が妹かもと一旦思い始めると、そうとしか考えられなくなってくる。


すごく、気になる。


結局、俺は人影へ向かって歩く足を止めることはなかった。


「っ!?」


月光に照らされて淡く輝く白い花の傍を通り過ぎた時、意識が飲まれるような感覚に襲われた。


頭を振って、意識にまとわりつくいやな感覚を振り払う。


顔をあげてみてみるとそこには、脈打つ巨大な肉塊が空に浮かんでいた。


 


巨人が拳を丸めて作ったような巨大な肉団子。


その表面に動脈が張り巡らされ、ところどころからクラゲの足のように触手が長く延び、宙にゆらめいている。


暗闇の中にあってなお強烈な存在感を放つバケモノは、まるでそこにあるのが当前だと言わんばかりに、悠然と浮かんでいる。


「なに……これ……」


唖然としていると、七色に輝く光線が空から肉塊に向けて殺到した。


浮かぶばかりであった肉塊はその身を貫かれ、触手も何本かはじけ飛んだ。傷口からはどくどくと血のようなものを流し、ワインが注がれるように大地へとこぼれていく。


人影が肉塊の前に降り立った。


空に泰然と浮遊する肉塊に比べるとひどく心許ない体躯の人影は、しかし臆することなくバケモノに立ち向かう。


バケモノは人影を脅威だと認識したのか、触手を人影に向けてふるった。


人影を飲み込むように太い触手が打ち付けられ、轟くような地響きをあげた。


人影は飛び退いてその攻撃をかわしていた。


しかし、触手が振るわれたその場所には、龍が這ったような長く深い溝ができていた。


圧倒的な重量感を大地に刻み付けている。


「ぁ……あ、警察……」


ポケットに入れていたスマホから、震える手をおさえながら、119番通報しようとする。


しかし、何度叩いてもつながらない。


「な、なんで」


来た道を帰れば電波が通じる場所に出られるはずだと、踵を返して走り出す。


しかし、いくら走っても、全く景色が変わらない。


振り返ったときに見える肉塊の大きさも、変わらない。


即ち。


俺はこの、異様な空間に閉じ込められた。


「ひっ」


切り飛ばされた触手が、すぐそばに落ちてきた。切られた断面の方から、灰となって崩れていく。


もう少しずれていれば、俺は潰されていたかもしれない。


肉塊が触手を叩きつける轟き、振るわれる肉の重量、放たれる異臭のすべてが、この身が滅ぼされる恐怖を掻き立てる。質量の有る現実感が、夢想に逃げ込もうとする心を握り潰す。


俺は腰が抜け、座り込んでしまった。


上手く呼吸ができず、かすれた声だけが、喉から吐き出される。


俺が恐怖で動けない間も、その人はなお、バケモノと戦っていた。


……怖くは、ないのか?


逃げ出したくは、ならないのか?


その人は縦横無尽に駆け回り、苛烈な攻撃を避け、反撃を加えていく。


彗星のように煌めく光線を放ち、どんよりと赤黒く沈んだ空を場違いに明るくしていた。


瞬く光の輝きが、空に舞い散る光の粉が、澄んだ美しさをこの空間にふりかけている。


だがそれは、マグマが蠢く地獄のような場所に、クリスマスツリーを添えるような、不釣り合いな可憐さで……。


思わず見ほれていた俺ははっと我に返り、もたつきながら立ち上がる。


「あ、にげ、にげ、……ないと」


無駄だとわかっていながら、俺は逃げ出した。


走る……走る。


バケモノから、耳をつんざくような甲高い絶叫が響く。


走る…走る。


肉が断ち切られ、血が噴き出す音が鳴る。


走る、走る。


触手がブンと振るわれ、切り裂かれる大気が悲鳴を上げた。


息が上がるのをおさえ、俺はなおも走り続ける。


「危ない!」


「え」


振り返るとバケモノが、こちらに狙いを定め、刺突せんと触手をふりかぶるのが見えた。


引き絞られた矢が放たれるように、触手の輪郭がぶれる。


俺はぎゅっと目を瞑り、座り込んでしまった。


……。


…………。


何も、起きない。


金縛りがとけたように力が抜け、何が起こったのかと顔をあげる。


目の前には、少女の後ろ姿があった。


彼女はステッキを掲げて立っている。


その先端の水晶から噴出する光線が、磁場のように彼女の小さい身体を覆い、刺さりかけた触手をドロドロに溶かしている。


助かった……。いや、守られた……のか?まだ、こんな小さい子に?


少女はステッキをふるって、動きが鈍った触手を切り落とす。


そのまま飛び上がってバケモノにむかっていった。


「は、……はぁ、はぁ」


思い出したかのように俺は浅い呼吸を繰り返した。


呼吸を整えて立ち直り、バケモノを見上げる。


肉塊は、切られた端からぶくぶくとあふれるように肉が再生してキリがない。


対して戦い続ける少女は、息が上がってきている。このままではジリ貧だろう。


俺はふぅと息を吐き、意を決して叫ぶ。


「あの!俺にできることないですか!」


俺の声に少女は反応する。


「大丈夫です!逃げててください!」


すげなく断られた……。


「に、逃げろって言われても……」


何かできないだろうかと辺りを見回す。


と、乱闘の余波で折れてしまったのであろう何本かの倒木が目についた。そこは並木道になっていたのであろうが、ことごとくが切り倒されている。刀で切り捨てられた巻き藁のように寸断された木もあれば、雷が直撃したようにひしゃげた木もある。


と、少女がバケモノと熾烈な戦闘を繰り広げながらも、誰かと言い合っているのが聞こえた。見ると、その肩になにか白いものが乗っている。


「手伝ってもらった方がいいって」


「ダメ!」


「でも、一人で闘ってても埒が明かないよ!」


「巻き込まないって約束したじゃん!」


俺はとにかく武器になりそうなものはないかと探して回る。


寸断された木でも丸太ほどもある。この重さではまともに運べない。しかし、だからといって細い枝を束ねてもおそらく打撃は与えられまい。


木……石……石器、とか。


いや、ダメだ。手ごろな石もないし、それを括り付ける紐もない。


なにかないか。なにか。


「いってくる!」


「あっダメ!戻って、テンコ!」


少女が何かを止めようと叫ぶ。


声がする方へと振り向いた俺の前に、白く流麗なキツネが舞い降りた。


箒星のように白い尾を広くたなびかせ、音もなく優雅に着地する。


白キツネはこちらを見上げて、口を開く。


「どうしてここに入り込むことができたかは聞かない。とにかく、今は君の協力が必要だ。手伝ってくれるね?」


「……はい」


「では、手を出してくれるかい?」


俺は膝を折って、白キツネの前に手を差し出す。ちょうど、犬にお手をするような格好だ。


キツネは前足をそっと乗せる。


すると、そこからえもいわれぬ感覚がせり上がってきた。


な、なにか、蟻が腕を這うようなむずがゆさと不快感。


こらえられずに手を引っ込めようとする俺を白キツネが制止する。


「我慢して」


「あ、はいぃ」


神経を直接撫で上げるような感覚にしばし耐えると、白キツネが俺の手に添えていた足を戻した。


「よし、これでいいよ。身体の調子はどう?」


「……?特に変化は」


力が湧いてくる……!みたいな感覚はない。


「身体が軽くなった感じしない?」


「え?あ、うん。言われてみれば……」


「よし、それならいいんだ」


白キツネは傍に転がっていた倒木に前足を置く。淡い光がその先からあふれ出し、木全体を包んだ。


「これ、持ちあげてみて」


「え?」


「はやく」


「は、はい」


一人では丸太なんて持ち上げられない。


普通なら。


半ば疑いながらも言われた通りに倒木を抱えようとすれば、難なく持ち上がった。


こ、これをあの触手にぶつければいいのだろうか。


一体俺の身体のどこからそんな力が出ているのか不思議だが、白キツネにとっては驚くことではないようで、俺の周りに倒れている木々に黙々と光を注ぎ込んでいった。


俺が木を抱え上げ、臨戦態勢に入ったのを確認した白キツネはこちらを見やり、去り際に指示を残す。


「全部あいつに向けて投げつけて」


「え、投げる?あ、ちょっと」


止める間もなく駆け出して行った。


槍投げみたいな感じ……か?


とりあえず、やるだけやってみるか。


木を肩に乗せ、身体を傾け、切っ先を上にあげる。


そして二、三歩踏み込む。


「っだ!」


弾丸のように放たれた木はバケモノへ一直線に向かっていき、その身体をかすめた。


まともに当たったわけではないが、それでもかなりえぐれた。


キツネが注いだ力は、あいつへの特効薬だということだろうか。


ふらつくように揺れたバケモノの隙をついて少女から放たれた光線が、俺が作った傷口とは反対側の部位を貫いて、肉塊に風穴を開けた。


その穴から、欠けた月のように穿たれた球体が見えた。


アレがあのバケモノの核ということなのだろうか?


バケモノの身体に逃げ込むように球体は姿を消し、傷口がふさがっていく。


しかし、その再生スピードは先ほどと比べると段違いに遅い。


彼女が、俺が攻撃した箇所の反対側を狙ったのはおそらく、核が俺の攻撃を避けようと端に逃げ込んでいたのをわかっていたためだろう。アレが見えるのか、あるいはそういう性質であることを看破したのかはわからない。が、これで俺がやるべきことは分かった。


さらに二本、三本と、投げていく。


「五本目!!」


決して手を緩めてはならない。


回復が間に合わないうちに、できるだけ肉を削り取る!


投げられる木にえぐられるたび、肉塊は銃撃を受けたかのようにぼろぼろになっていく。


いいぞ、このまま!


と、肉塊の傷口が再生するのが止まった。


「え?」


その代わり、残存する部位から触手がぶくぶくと泡立つように生え延びていく。


あっという間に何十本もはやした。


そのすべてが、こちらを向いた。


「あ、やば」


攻撃対象の変化に気づいた少女が、触手すべてを切り落とさんと長大な光線を振り上げるが、構わず俺を攻撃してくる。


「おわっ」


飛び退き、かわし続けるが、触手がたたきつけられた場所から粉塵が巻き上がり、視界をふさぐ。


上からはこちらが見えているのか、なおも執拗に迫ってくる。


長く伸ばした触手に向け、少女は流星群のように光線を降り注がせるが、バケモノは切られた端からまた再生させ、キリがない。


俺は少女の方を向いて、叫ぶ。


「こっちは構わないでください!本体を!」


「え!でも!」


「いいから!……いっ」


やばい、肩をかすめた。


焼けつくような痛みに顔をしかめる。だが、ここで止まってはいけない。


殺到する触手をなんとか避けていく。


もうすこし。……もうすこし。


かろうじて空に浮かんでいるバケモノを睨みつけ、密集する触手の合間を縫い、駆ける。


白キツネから力をもらう前だったら、最初の段階で死んでいただろう。


しかし、俺は今、あのバケモノに立ち向かえるだけの速さがある。


矢のように速かったはずのバケモノの触手も、軌道が読めるほどに感じる。


まだ、いける!


と、極大の光線が、残存する肉塊を薙ぎ払ったのが見えた。


密度が下がった!


しかし、それでも多少の触手は動き続けている。


おそらく、三日月のようにわずかに残った部位に核があるのだろう。


薙ぎ払われた所につながっていた触手は崩落し、残りは三日月から生えるもののみとなった。


あと、すこし。


……いける!


「え、あ?」


足元がぐらつき、暗い空が急に視界一面に広がった。


気づいた時には、仰向けに倒れていた。


足を見ると、くるぶしから先がなくなり、ホースから水が溢れるように、血が流れだしている。


俺が倒れたのを見計らったように、残り全ての触手が俺を殺そうと振るわれ――


「はっ、あ」


束になって打ち付けられる間際。


触手で赤黒く塗りつぶされた視界の端。


青く、白く、彗星のように美しく流れる光が伸びていくのが見えた。


光線が肉塊の最後の部分を貫き、消し去った。


主を失った城のように、硬直していた触手は根元の方から瓦解しだす。


触手が落下して俺が圧死する直前、少女が俺を間一髪で助け出してくれた。


少し離れたところで、横にしてくれた。


「だ、大丈夫ですか……あ!足が!?」


「……へへ。これじゃ、歩けないね。まぁ、でも」


自嘲するように笑いながら、俺は上体を起こす。


「あ、だめですって、おき……ちゃ……」


俺を止めようとする少女に目線を合わせ、その顔を覗きこんでみれば。


「多少足が悪くてなっても、お兄ちゃんは大丈夫だぜ……春」


それは、妹であった。


「おにぃ……ちゃん」


よもや、妹が魔法少女か何かだったとは、驚くばかりであるが。


「へぇ、兄妹だったんだね、お二人さん」


どこからともなく、ひょっこり白キツネが姿を現した。


「あ!テンコ、お兄ちゃんの足、治せる!?」


「んん~。ギリギリってとこかなぁ……。今、マナはどれくらい溜まってる?」


妹はステッキを白キツネに見せる。問いかけに応えるように、先端に備え付けられた水晶が淡く輝く。


「うん、いけるいける。でも、今ある分全部使うことになるけど、いい?」


妹はこくこくと頷く。


「じゃ、失礼して」


俺の足元に屈みこんだ白キツネは、俺の傷口に前足を添えた。


切られたところが白く輝いているのが見えた。


みるみるうちに足が生えていって、あっとういまに元の状態に戻った。


「お……おぉ」


ちょっとグロかった。


「でしょ?」


白キツネは得意げに鼻を鳴らし、妹の肩にもどった。


それを見た妹は、安堵したように深々と息を吐いた。


すると、それまで着ていたお洒落な服が光に包まれる。


ぱっと光ったかと思えば、家から出ていったときの格好に戻っていた。


さ、さっきのが戦闘服だったのか……。


「どういう原理?」


「企業秘密」


俺が尋ねれば、妹の代わりに白キツネが答えた。にくらしくウィンクをする。


「そ、そうか」


「ね。この子、私にも教えてくれないんだよ」


「秘密は誰にも喋らない主義でね」


「お、おう……」


妹の膝に飛び降りて丸まり、白キツネはゴロゴロと喉を鳴らす。


しばらく二人して白キツネを眺めていたが、ふと気になったことを妹に問うてみる。


「いつも、ひとりなのか?」


そう問いかける俺に、妹は目線を逸らし、口ごもりながら答えた。


「……ちがう。私が……先走っちゃっただけ」


「先走る?」


言い淀む妹の言葉を白キツネがつなぐ。


「あいつはまだ生まれたばかりだったんだ。実害が出る前に退治した方がいいと春香は言ってきかなくてね。応援が来る前に、ひとりで突っ込んじゃったのさ」


「あぁ……なるほど」


妹はしゅんとしていた。まさに、青菜に塩だ。


「……はぁ」


俺は妹の額を軽く小突いてやる。


「いて」


「被害が出る前に、っていうのはいい心がけなんだと思うが、それで自分がやられてしまったら、もっと被害が出るんじゃないのか?」


「……ぅん」


俺の言葉に、白キツネがピンと耳を立てた。


「よくは分からんから何とも言えんが、協力してくれる仲間がいるなら、頼った方がいい」


「……わかった」


白キツネが妹の膝から降りて、そのまわりをうろちょろしだす。


「ほうら、僕が言ったとおりでしょ」


「テンコは黙ってて」


「ぴぎゃ」


妹は、煽ってくる白キツネをはたいた。


キツネは相当軽いのか、ぽーんと飛ばされていった。


……妹よ、相棒の扱い方が雑ではなかろうか。もう少し大切に……。


「も、もっと優しくしてやった方がいいんじゃないのか?」


「いつも一言多いんだもん、テンコ」


「へぇ……。仲、いいんだな」


「え?あ、まぁ……。言われてみれば、そうかもね」


妹は少し恥ずかしそうに、はにかんで笑って見せた。


それを見て俺は破顔する。


「そうか、それはよかっ……ん?」


「どうしたの?」


戦闘中、触手は、本体から切り離された端から崩落していた。根元から灰になっていったのだ。


だが、妹の肩越しに見える最後に残った触手、核が貫かれ、もうとっくに朽ちているはずの触手が一本だけ、まだ形が保っているのが見えた。


最後だったからか?


それにしても随分としぶとい……。


「あ」


「え?」


死にかけのはずの、最後の一本。


その先端が持ち上がり、こちらに向いた。


あれは何度も見た、刺突の体勢だ。一矢報いようとする強烈な執念と憎悪が、俺をゆさぶる。


「にげっ」


妹は変身をといている。対応できる状態ではない。


白キツネは遠くの方ですねたように丸まっている。こっちまで来る時間がない。


……ならば。


「きゃ」


妹を、触手の俺への射線から逃がすために、投げ飛ばした。


妹が射線から離れたその時、その脇をかすめ、銃弾のように猛烈な勢いで放たれた触手が、俺の身体を貫いた。


意識を吹き飛ばされ、視界が暗転した。

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