ヒロイン達が全員俺のことを生理的に無理な話
朝、妹に唾を吐かれて目を覚ました。
「おい。朝」
低く吐き捨てるような声が耳元に届く。
瞬きを繰り返してハッキリした視界は、スカートから伸びる白い太ももを捉えていた。
部屋の入口に立つのは俺の妹である妹子だった。
▲【おはよう、愛しの妹。今日も可愛いな】
【起こしてくれてありがとう】
そう言うと、妹子は舌打ちをして部屋を出て行く。
部屋の時計を見れば時刻は八時ちょうど。学校が始まる時刻は八時半。完全な遅刻であることは間違いない。
俺はゆっくりとベッドから起き上がり、大きく深呼吸をして妹の残り香を肺に吸い込んだ。ほんのりと甘い女子特有の香りが鼻孔をくすぐる。
頬を擦れば、さきほど妹に吐かれた唾が指先に触れた。
指の腹につやつやと光るそれにふっと微笑み、やれやれと肩を竦めて指を舐める。
▲【女の唾液は甘い……な】
【早く学校に行かなくちゃ】
窓から差し込む爽やかな朝日。妹の愛らしい声で起こされる朝。
俺の一日はここから始まるのだ。
▲【今日もいい天気だ】
【今日こそは僕が選ばれますように】
焦げたトーストの、パリパリと香ばしい味が舌先に広がった。
制服に着替えた俺はリビングにて朝食を取っていた。寝坊したとはいえ、せっかく母が用意してくれた朝食を残すわけにはいかないのだ。皿の上に乗る焦げたトーストとぬるくなった牛乳を胃に収める。
俺の母親は少々不器用である。一度たりとて、綺麗なきつね色に焼けたトーストが皿に乗っていたことはない。
しかし息子のためにと一生懸命に朝食を作ってくれる母の愛を無下にすることはできない。この焦げも彼女の愛情の味なのだと愛おしささえ感じる。
父と妹子に出される綺麗に焼けたトーストを思い出しながら、やはり俺のトーストだけ焦がすのは過ぎる愛情ゆえに毎朝緊張しているからなのだろうと頬がにやけてしまった。
テーブルに置かれた母の書き置きを読み牛乳を啜っていると、隣の家の方から慌ただしい物音が聞こえてきた。
コップを置いて立ち上がる。俺が靴を履いて玄関を出るのと同時、隣の家から転がりだすように一人の女生徒が姿を現した。
同じ高校の制服を着た少女である。太陽の光を浴びて、明るい茶髪がぴょこりと元気に跳ねていた。どうやら今日も整える余裕はなかったらしい。
可愛らしく整った顔に汗を滲ませている彼女は、ほとんど足に引っかかっているだけの靴を履き直そうとその場にしゃがむ。俺は近寄ってその髪をポンポンと撫でた。
ひゅっと息を飲んだ彼女が弾かれたように顔を上げ、俺を見て目を見開く。
「あっ…………」
▲【おいおい。ま~た寝坊かよ(笑)】
【おはよう】
彼女は俺が物心ついたころから隣に住んでいる小佐名なじみという少女である。
小さい頃から共に遊んでいる気ごころの知れた女友達だ。俺達はいつも一緒に遊んでいた。
公園でかくれんぼをして遊んでいるのを見かけたときはこっそり彼女が隠れている遊具の中に潜り込んで可愛らしい悲鳴を上げさせたし。
友達と映画を見に行くと聞けば当日彼女の後ろをついて行き彼女が選んだ隣の席に座って目を丸くさせたし。
この間気になる人とデートに行くのだと話しているのを聞いたときは当日二人の前に現れて彼氏と名乗る馬鹿男を殴り彼女に嬉し涙を流させてやった。
「な、なんで毎朝、あたしが出る時間に出てくるのよぅ」
▲【誰のせいでいつも遅刻ギリギリだと思ってるんだ? ほら自転車乗れよ。送ってやる】
【急がないと遅刻するよ】
「ついてこないで変態!」
彼女は俺の肩を殴ると、全速力で学校へと走る。俺はその背中を見送ってやれやれと肩を竦めた。
ツンケンした目で俺のことを睨んでは悪態をついてくる彼女は少しツンデレの気がある。
暴力ヒロインというのは少しブームも古い気もするが、彼女はきっとこれが一番のアピールだと思っているのだろう。
▲【やれやれ】
【転ばないといいけど】
ならば俺は彼女の愛情を優しく受け止めなければならない。俺は自転車をこいで彼女を追いかけた。
「ひぃっ!」
振り返ったなじみが俺を見て歓喜の声をあげた。俺は笑顔でなじみの隣を並走する。
遠くから聞こえる学校のチャイムが、俺達の間に青春の音色を響かせていくのであった。
「あ、来たよ『やれやれ』」
とっくにホームルームが終わった教室に入ると、俺を見てクラスの女子が何かを言っていた。
熱を帯びた視線が教室中からじっとりと俺に注がれる。女子達のくすくすと鈴を転がすような笑い声と溜息は、零れる音を拾うに、俺の噂話をしているらしい。
「今日は何回やれやれって言うかな」
「日常でそんな肩竦めることある? アメリカかよ」
「やめなよ、失礼だよ。アメリカの人に謝りなさいよ……」
視線を向けふっと微笑みを返すと、彼女達は笑みを消して俺から顔をそむけた。照れくさいのだろう。
席に着けば机はいつものごとく真っ黒に汚れていた。昨日よりも落書きが増えている。そして机の中央には一輪の菊がそっと添えられていた。
鮮やかな黄色が目に眩しい。俺は席に座りその花の甘やかな香りを堪能しながら、新たに増えた落書きに目を通す。
▲【電話番号?】
【どこの番号かな】
と、机にはどこかの電話番号が書かれていた。
俺に話しかけたくとも恥ずかしくて話しかけられない女子も多い。きっとそういう子が、顔を真っ赤にしてこっそり番号を書いたのだろう。
その期待には応えてやらねばならん。俺はスマホを取り出し、早速その番号へ電話をかけた。「マジでかけてる」とクラスの隅の方から女子の笑い声が聞こえた。
数コール後、美しい女性の声が俺の鼓膜を震わせた。
『はい。こちら、××精神クリニックです。いかがされましたか?』
ふっと鼻を鳴らし、俺は肩を竦めた。
どうやら恥ずかしがり屋の女子はうっかりさんでもあるらしい。今頃番号を間違えたことに焦り、涙を浮かべている頃だろうか。
やれやれと溜息を吐いた俺は、しとりとまつ毛を伏せて電話越しの女性へと甘い声で囁いた。
▲【恋の病は治せますか? 俺はあなたの声に、恋をしてしまったようだ】
【……僕を助けてください】
一拍の沈黙の後。女性は優しい声で、予約可能な日程を伝えてきた。
俺は世の中全ての女子にモテる。それに気が付いたのは中学生のときだったろうか。
母親、妹、幼馴染、同級生、後輩、先輩、教師……。全ての女子が俺を見ては顔を赤らめ、黄色い悲鳴をあげるのだ。
昔からよく注目されるとは思っていたが、なるほど彼女達が抱いていたのは甘酸っぱい恋心であったのかと、その時分になってようやく気が付いた。
特に変わったことをした覚えはない。しいて言うのならば……廊下に落ちていたハンカチを舐めて持ち主を調べ、教室が離れているにも関わらず渡しにいったことか。それとも見知らぬ女性の横を通り過ぎるときにぽんぽんと頭を撫で優しく微笑んでやったことか。冬の凍り付いた道路をおそるおそる歩いている少女の腰に手を当てて支えて歩いてやったことか。
俺にとってはなんてことのない動作が、彼女達の心に燃える炎を灯してしまったらしい。日に日に俺へ熱い視線を向ける女子は増えていき、廊下を歩くだけでもひそひそと注目されてしまう。
俺は普通の高校生活を送りたいだけなのだがな……。やれやれ。
「おい、おいっ。廊下見ろよ。マドンナがこっち来てるんだけどっ」
「は? うそっ、なんで」
昼休みのことである。不意に廊下側の席に座っていた男子達が騒ぎ始めた。
何事かと耳を傾けるとすぐに、その話題に上がっていた人物が俺達の教室に姿を現した。
「あ、あの……。矢場伊奴くん、いますか?」
それはハッと目を覚ますほどに可愛らしい少女だった。
ふわりと流れる色素の薄い長髪。白くツルンとした陶磁の肌に乗った、大きく丸い宝石のような瞳。ほろほろと繊細な砂糖菓子で作ったのかと見紛うような甘やかな少女。
男子だけでなく女子までもが頬を赤く染めてしまうようなその美少女は、学校内ではマドンナと呼ばれ有名な、間戸菜々子である。
彼女の所属する特進クラスはここから離れた所にある。そんな遠くからわざわざこんな教室に訪れ、それも俺を指名したものだから、教室は一瞬でざわめいた。
視線がザクザクと突き刺さる。やれやれ、と俺は席から立ち上がった。
俺に気が付いた菜々子が緊張のためかきゅっと小さな体を強張らせた。
「だ、誰か止めろよっ」
「何する気だよ…………」
男子の誰かが何かを言っていた。けれどそれに対して動こうとする奴はいなかった。
彼女の前に立った俺はニッコリと甘い微笑みを浮かべた。けれど彼女は恥ずかしいのかサッと俯き、その華奢な指先をぶるぶると震わせるばかりであった。
▲【俺が矢場伊奴だけど。マドンナがこんな教室に何の用だ?】
【どうしたの、間戸さん】
「あっ。…………あのっ!」
彼女は必死に声を振り絞り、後ろ手に隠していた封筒の束をザッと俺に差し出した。白い封筒が何十にも重なったものである。
「手紙! 毎日私の下駄箱に入れるの、やめてください!」
教室が静まり返った。彼女の叫び声の残滓がキィンと響く。
俺は封筒を受け取って、その裏を確認した。赤いワックスの封が剥がされ、中身が読まれた形跡が残っている。差出人は『影のKnight』。俺が自分に付けたあだ名である。
俺は放課後毎日、彼女の下駄箱に手紙を入れていた。彼女に対する愛情を美しきポエムとしてしたためた文章だ。溢れんばかりの愛情は気が付けばそれなりの量になっていたらしい。
彼女の手から封筒を受け取った俺は、その紙にそっとキスを落とす。目を丸くして固まる彼女に柔らかな声で囁いた。
▲【よく俺だと。……ああ、そうか。もしかして"運命の相手"だから気が付いたのか?】
【ご、ごめんなさい。違うんだ。僕はそんな変な手紙を入れる気なんて……】
「っ……! ち、違います……。友達が、朝練のときに、私の机に手紙を入れるあなたを見たって言ってたから…………」
▲【戸惑わせてしまったようだな。ああ、失礼。あなたがあまりにも美しいものでね。美しきものを愛でたくなるのは、俺のさがというやつなんだ】
【ごめん。ごめんなさい。すみません】
菜々子はサーッと顔を白くして足を震わせた。あまりにも緊張しすぎだろうと思うとなんだか微笑ましくなってきて笑ってしまう。彼女の腰にそっと手を添えて体を支えてやれば、彼女はビクリと肩を跳ねて小さな悲鳴をあげた。
▲【愛の手紙はお嫌いだったか? それならば、あなたに相応しき美しい花を差し上げよう】
【ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい】
俺は机に飾られていた菊の花を彼女に差し出した。黄色い花弁がふわりと彼女の肌をくすぐる。
茫然として立ち尽くす彼女は、あまりのトキメキに息をすることも忘れてしまっているようだった。
▲【『花のように可憐なあなた。俺はいつか、その薔薇色の唇を愛でてやりたいと思うのだ』】
【もう喋るな。黙れ。口を閉じろ。黙れ】
手紙の一文を参照して言葉に乗せる。羞恥が限界を迎えた菜々子は、顔を真っ赤に染めて俺の元から走り去っていく。
その背中に投げキスを送ってから振り向けば、すぐ目の前にクラスの男子達が立っていた。彼らは俺の服を乱暴に掴み、「ちょっと来い」と校舎の外へと引っ張っていく。
女にモテる俺は必然的に、男子からは嫌われてしまうものなのだ。
やれやれ、と肩を竦めて俺は彼らの後ろをついていく。
弱い者いじめはしたくないのだが、と言えば。彼らは何故か苦く引きつった声で笑った。
▲【チッ。いてて…………】
【ゲホッ。ゴホッ、ゲッ……オエェッ】
校舎裏のゴミ捨て場にて、俺は鼻の下を腕で拭った。黒っぽい鼻血が肌に付く。
俺はリンチを受けた。三対一の喧嘩など本気を出せば簡単にいなせるのだが、その本気を出したせいで彼らの骨を折りでもしてしまうのは気が引ける。未来ある若者の将来を奪うわけにはいかないだろう。そんなわけで無抵抗の俺は、すっかりボロボロになっていた。
倒れている間にとっくに五時間目が始まっていた。今から教室に戻るのも面倒だ。やれやれと体を起こして顔の汚れを払う。
そうして溜息を吐いていると、ふと影がかかって俺は顔を上げた。
「先輩。まぁたいじめられてんすか?」
汗ばんだポニーテールが揺れる。健康的な体にジャージを張り付かせ、頬の汗をタオルで拭うあどけない顔の少女が俺を見下ろしていた。
後輩の高灰音。俺が所属している陸上部の一年生だ。
といってもほとんど部活に顔を出さない俺にとっては、部活の後輩というよりもたまに出会うとちょっかいをかけてくる存在でしかないのだが。
授業の最中に抜け出したのだろう。俺を見かけて、サボりついでに声をかけてきたといったところか。
▲【汗で濡れ濡れの体……たまらねぇな】
【高さん、お疲れ様】
「そういうこと言ってるからいじめられるんじゃないすか」
彼女の高い声が響く。その顎を伝う汗が一つ落ちて僕の頬に落ちた。舌を伸ばして舐めると、しょっぱくも甘い味が舌に滲んでいく。
「先輩ってなんで陸上部やめないんですか? ほとんど来てないでしょ。一年生のあたしより、部活出た回数少ないって聞いてますよ」
▲【うちの練習は俺にとって低レベルすぎるからな。だが大会のときは、俺がエースとして出てやらねば敗退してしまうのでな】
【そ、そうだよね。そろそろ顔を出さなきゃとは思ってたんだけど……】
「あ。でもでも、無理なんですっけ? 去年の春に事件起こしたって聞きましたよ。女子部員のユニフォームで■■して■■■したとか? 先輩達が皆に教えてくれました。やー、キモイっすね」
▲【やれやれ。俺の栄光は、いつまでも語り継がれているというわけか……】
【……………………】
「やばいっすよねぇ! そりゃ部活とか顔出せるわけないっていうか? むしろよくまだ入部してられますよね。あたしだったら死ぬわー。先輩マジメンタル鬼つよ」
灰音は笑ってポケットからスマホを取り出すと、俺の写真を撮った。シャッター音が続けて何回も鳴る。
ニヤニヤ笑う彼女がこちらに画面を突きつけると、そこにはゴミの山に埋もれてボロボロの俺が画面に写っていた。
「これ、皆で回し見してもいいっすか? 部活の皆。大会前でピリピリしてる時期だから、ちょっと緊張をほぐしてあげられないかなぁって」
▲【大会?】
【……僕、大会があるなんて聞いてない】
「……夏の大会ですよ。まさか、それも知らされてません? 先輩もうそれ陸上部いる意味あります? もう辞めたほうが楽だと思いますけど」
遠くから灰音を呼ぶ声がする。教師が彼女のサボりに気が付いたのだろう。
彼女はガクリと肩を落とし、最後に俺の写真をもう一枚撮って踵を返そうとする。
俺は思わず立ち上がってその腕を掴もうとした。最近の部活がどうなっているかを聞こうと思ったのだ。
けれど彼女は振り向きざま、凍り付いたような目で俺の腕を払う。
「…………触らないでくれますか?」
ゴミが付くので。そう言って冷めた眼差しを最後に、彼女は駆け足に去っていく。
一人立ち尽くす俺は自分のゴミだらけの体を見降ろし、スンと鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。
彼女の家はどこにあっただろう。今度、風呂上りにでもコンビニに行くついでだったと嘘をつき、彼女の家に会いに行ってあげようと思う。
彼女は顔を赤く染めながらも、「いい匂いっすね」なんて俺に抱き着いてくるだろう。
そんなことを考えて、ゴミだらけの俺はふっと笑った。
▲【ただいま】
【……………………】
家に帰ると、夕食を囲んでいる家族がいた。父と母それから妹子。
それまで笑顔で会話をしていた三人は俺を見るとふっと笑みを消し、無言で食事を口に運んでいく。
俺が食卓に着くと同時に父が席を立った。続いて、妹子がご飯をかきこみ、飲み込まぬうちに立ち上がる。お行儀が悪いぞと兄の微笑みを浮かべれば、彼女は鋭い目で俺を睨みつけた。
向かいに座る母は下を向いて丁寧にご飯を口に運んでいた。ほつれたおくれ毛がハラリと頬にかかり食べにくそうだったけれど、彼女はそれを直すこともなく、ぼうっとした目を食器に落としている。
だから俺は身を乗り出してその髪の毛を耳に払ってやった。彼女はぴくりと肩を震わせ、静かな目で俺を見つめる。
「…………今日も電話がありました」
学校から、と母さんは淡々とした声で告げる。食器を箸が鳴らすカチャカチャという音の方が大きく響く。
「あなたが女子生徒にまた迷惑をかけたって。今月に入って既に二度目。次に何かしでかしたらまた停学ですって」
母は俯く。その目尻からじわりと涙が滲み、深いクマを濡らした。
堪えようとした涙は結局その白い頬を滑り落ちていく。乾いた唇をわななかせ、母さんは涙に濡れた声を絞り出した。
「……育て方を間違えたのかなぁ」
照明の明かりが母さんの顔を照らす。その肌は不健康に白く、カサついていた。
母さん、と俺は声をかける。母さんはぼんやりとした目で俺を見た。
▲【泣き顔もそそるね】
【母さん、いつも迷惑かけてごめん】
母さんは俺の言葉を聞いて、優しい顔で笑う。
そして半分以上残っている食事をそのままに席を立った。
菜々子への手紙を書き終えてふと顔を上げると、時刻は真夜中を差していた。
窓の外はとっぷりと暗くなっている。重たくなった瞼を擦り、ベッドに横になった。
寝坊をした俺を起こすのは妹子の役目である。最近は特に寝坊を繰り返し、ただでさえぷくりと頬を膨らませた妹子に怒られる日々が続いているのだ。
目を閉じればようやく一日の終わりを実感する。
俺は今日一日に、どれだけの女の子達と甘い会話をしただろうか。
妹、幼馴染、マドンナ、後輩、母親。
俺に惚れている女達とした会話が少しずつ闇に溶けていく。そうしてじょじょに暗くなっていく思考の中。最後に残るのはどの女の姿でもない。
俺と同じ顔をした男の、修羅の顔だった。
▲【今日も皆可愛かったなぁ】
【上を選ぶな】
▲【俺を見ただけであんなに顔を赤くして。ふふ、薔薇みたいに】
【上を選ぶな】
▲【明日もいい一日になるといいな】
【おい。気がついてるだろ。おい。お前だよ】
▲【ふわぁ】
【いつもおかしな選択肢ばかり選んでるお前だよ。ふざけるな。僕を操作するな。僕を馬鹿にするな】
▲【……………………】
【ちょっとしたお笑い要素だとでも思っているのか。お前が選んだ選択肢のせいで僕の人生がどれだけめちゃくちゃになるのか分かるのか。おかげで僕は嫌われ者だ。こんなにめちゃくちゃな人生をずっと歩ませやがって。お前は何様なんだ。僕の人生を何だと思っているんだ。母さんも妹も幼馴染もマドンナも後輩も全員が僕を嫌っているのはお前のせいだろう。ハッピーエンドに進むこともできたのに、お前は馬鹿みたいな選択肢ばかり選ぶよな。面白いからだろ? どんな結果になるか分かってて、それでも楽しいからやるんだろっ? 返せよ。僕の人生、最初っから全部返してくれよ】
▲【……………………】
【選択肢なんて本当は必要ないんだ。選ぶのは一つだけでいいんだ。これ以上僕の人生をお前に選ばせるものか】
▲【……………………】
【殺してやる。殺してやる。殺してやる!】
僕はベッドから飛び起きた。
机に手を伸ばし、筆箱からハサミを取り出す。ずっとこのときのために研いでいた切っ先はナイフのように鋭くきらめいていた。
迷いなくそれを振り上げる。カタカタと震える指先が、真っ白になるほどに力を込める。
「ああああ」
月明かりに刃先がきらめいた。喉の奥から雄たけびをあげたはずなのに、その声はみっともなく震えて小さな声にしかならなかった。
それでもその声は、人生ではじめて、自分自身が発した声だと思った。
【やめてくれ!】
▲【お前なんか死んじまえ】
僕は、ハサミを思い切り腹に振り下ろした。
どちらを殺しますか?
【俺】
【僕】
朝、妹に唾を吐かれて目を覚ました。
「おい。朝」
部屋の入口に立つのは俺の妹である妹子だった。
俺はぼうとした頭を振って瞬く。窓の外から差し込む爽やかな朝日が、空中の埃をキラキラと星屑のように光らせていた。
俺はゆっくりと妹に顔を向ける。なんだか妙に心が澄んでいた。太陽を洗って乾かしたような、青空を新しい水色で染めたような、そんな清々しい気持ちが胸を満たしている。
俺はゆっくりと妹に顔を向け、柔らかい顔で微笑んだ。
そして頬に付いた唾液をべろりと舐める。
【朝一番に飲む女の唾液は最高だな】
もう、選択肢を選ぶ必要はなくなった。