別れ
僕は久しぶりに定時に仕事を切り上げ、自宅への道を急いでいた。なんといっても、今日は娘の4歳の誕生日。欲しがっていたクマのぬいぐるみも買ったし、あとは娘の喜ぶ顔を見るだけだ。水たまりに映る僕の顔は、気味が悪いほどにほころんでいた。喫茶店でくつろぐ女性に笑われたのは少し恥ずかしかったが、そんなことは気にせず足早に帰路を辿る。落ち葉が散りばめられた枯葉色の道を10分ほど歩いたのち、視界の右手にはいつもの墓場が映り込んだ。この墓場を横目にそのまま直進するのが普段の道順だが、実はここを抜けて帰った方が幾分か早く帰宅できる。
「ごめんな、待ち遠しくてね。少しだけお邪魔するよ」
言い訳がましい独り言をつぶやき、そそくさと墓石のすぐ横を通り過ぎていく。ただでさえ肌寒く、夕日も落ちかけたこの時間。案の定、人はいなかった。あるいは、見えなかっただけなのかもしれない。こっちの方が近いから、なんて理由で先祖の弔いの場をまたぐとは、とんだ罰当たり者だ。気づかないうちに彼らから大目玉を食らってるのかも。そんなことを考えながら墓地を抜け、大通りに出ようとしたその瞬間。聞き覚えのある声が僕の歩みを止めた。
「圭人…?」
後ろを振り返ると、そこには白いワンピースを着た黒髪長髪の女の子がいた。その姿を見た瞬間、僕の身体に衝撃が走った。こうして会うのは何年ぶりだろうか。
「お前は…もしかして、亜里沙じゃないか!?」
不安そうだった亜里沙の顔が、ぱあっと明るくなる。
「やった、覚えててくれた!うん、亜里沙!」
僕の幼馴染。数えてみれば、もう10年も前になるか。高校2年の冬、何も告げずに突然転校したあの日から、僕らの関係は完全に途絶えていた。まさかこんな形で再会するとは。
「久しぶり。何も変わってないな。元気だった?」
一瞬の戸惑いを見せた気がしたが、彼女はすぐに明るく返事をした。
「んー、まぁぼちぼち。圭人に会って元気になった!」
「またそうやって、調子のいいことを」
僕たちは、今までの穴を埋めるように語り合った。
本当は重い病気を患っていて、もしものことで僕を悲しませたくなかったから、黙って転校したこと。あのアホな子だった亜里沙が、ちゃんと大学に合格できたこと。今は遠くで元気にやっていること。いろんな話を聞いた。
この10年の間に結婚したこと。娘が生まれたこと。今は高校の先生をやっていること。そして、亜里沙が元気でいてくれてるかずっと心配していたこと。僕もいろんなことを話した。
「もしかして、圭人がここの墓地に寄ったのって…」
彼女の声は少し震えていた。既にあたりは薄暗く、おばけでも出てきそうなおどろおどろしい雰囲気。不安にならない方がおかしいか。僕もつい調子に乗ってしまった。女性をこんな時間まで残すわけにはいかなかったな。
「あぁ、そうだった。娘が待ってる。今日娘の誕生日でさ、早く帰りたくてつい近道しちゃったんだ」
彼女は胸に手を当て、ホッと一息ついた。
「そういうことか!てっきりーーー」
「てっきり?」
「…ううん、いいの。今日は本当に楽しかった!帰るの遅らせちゃってごめんね。またいつか会お」
彼女は僕の背中を押した。
「駅まで送るよ。もう暗いし、1人じゃ危ない」
「大丈夫、うちすぐそこだし」
「え、けど今は遠くで…って」
「気にしないの!じゃあねっ」
再び僕の背中を強く押す。彼女の押しに負けた僕は、仕方なくここで別れることにした。お互い満面の笑みで手を振り、鼻歌を歌いながら自宅へと足を運んでいった。
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命日の妹への報告を終えた私は、いつもの喫茶店で一息ついていた。友達とのたわいもない話に明け暮れ、気づけばもう黄昏時といった感じ。空は雲に覆われ、薄暗い月明かりが街を灯していた。
そんな中、天気とは似合わず笑顔で歩いてくる男性と、ガラス越しに目が合う。あれ、この人…
もしかしたら、あの彼かもしれない。
私はしばらくの間、その男性の姿を目で追った。
「ねぇ、どうしたの?そんなにあの人のこと見つめて。もしかして、一目惚れ??」
「もう、そんなんじゃないって。なんか妹の幼馴染に似てる気がして…」
「知ってるんだ?」
「散々一緒に映ってる写真見せられたからね。もう覚えちゃったわよ」
人目も憚らず、クシャッとした笑顔。私もつられて笑ってしまった。
「もし彼がその人なら、妹もきっと空の上で喜んでるわ。あの嬉しそうな顔。亜里沙に見せてあげたい」
雨上がりの空。さっきまで澱んでいた雲はいつしか消え、綺麗な満月が顔を覗かせていた。