紅夜の女王を求めて
ハークが流れ流れてその酒場に立ち寄ったのは、全くの偶然のことであった。
鈍色の重い扉を引いて開ければ、暗く狭い店内にはバーカウンターだけがあった。その奥では立派な髭を蓄えたマスターが皿を拭いている。蓄音機のようなものからは、一昔前のピアノ・ジャズが途切れることなく流れていた。その音だけが空間を満たしており、他の客は誰もいない。
奥のカウンター・チェアに腰掛けたハークは、依頼書をジトッと見ながらオンザ・ロックのウイスキーを舐めるように口に含んだ。氷が溶けてグラスに当たり、カランと音を立てる。橙の灯に透けた琥珀色が、厚くニスを塗られた黒檀のテーブルに映り込んでキラキラと光っていた。男の無骨な指にも映りこむ。
――流離いの請負人を自称する彼は、金さえ積まれれば何でもやる男だ。精悍な顔立ちはそれだけで迫力があり、さらに右眼を覆う黒い眼帯が、今迄潜り抜けてきた修羅場を象徴するかのように、凄みを際立たせている。
ハークがこの酒場に立ち寄ったのは、とある依頼に応えるために立ち寄った地で、たまたま目に入ったのが理由だ。固めた灰色の頭を搔いて、年季の入ったコートから太い煙草を取り出した。オイルライターを骨張った太い指でグッと押し、火をつける。
「マスター、もうちょっと良いウイスキーは無いのか。こいつも美味いが薫りが物足らねぇな」
スモークされたチーズを噛み、灰皿に煙草を押し付けた。また重たい煙を吸い込んでハークは言う。
「こんな良い夜だ。いい女といい酒があれば言うことはねェがな」
「あいにく、髭のマスターと高級には及びません酒しかありませんな」
「だろォな」
マスターの背側に並べられた数々の瓶も、ハークにとっては大したことのない代物ばかりであった。しかしこの場末のバーという空間は嫌いではない。ハークのようなならず者が何も考えずに呆けられる貴重な場所なのだ。
「最高級なウイスキーといえば」
低いバリトンで、マスターは呟く。
「お客様、『紅夜の女王』は聞いたことがありますかな」
ハークは依頼書を眺めていた頭を上げた。
「……戯曲か何かか?」
「いいえ、それは幻の赤いウイスキーのことです」
赤いウイスキー。
ハークは眉を寄せた。そんなものは初めて聞いたからだ。
「それは、3000年生きた吸血鬼の女王が魔界から持ち込んだと噂される、幻の紅」
「……吸血鬼だと?」
訝しげにハークは声を低くした。マスターは平坦な口調で続ける。
「私は……実は、一度だけ飲んだことがあるのです。紅夜の女王を。まるで寿命が縮むかのような、心臓を掴まれる味がしました。一口飲んだが最後、あの味に人は永遠に囚われてしまう」
ショットグラスに、重いガラス瓶から別のウイスキーを注いでいく。
「私はもう一度あれが飲みたいのです」
満たされたショットグラスをハークの前に置き、マスターは皺のある顔を笑わせた。
「お客様、請負業をされているとか」
フッとハークも笑った。
「俺は、金さえ積まれれば何でもやる男だ。密偵調査から捜し物、果ては殺しや用心棒まで何でもやる」
「でしたら、是非」
今日のお代は結構ですから――と、マスターは言った。
「実は、もう私は先が長くないのです。頭の片隅にでも置いてやってください。そして、もし見かけたら私に、一口飲ませてくれませんか。何かの依頼のついでで結構ですから」
「……おう、いいぜ」
ハークは二つ返事で了承した。マスターを哀れに思ったのか、それとも自身が紅夜の女王に惹かれたのか――どちらなのかは分からなかったが、久々に心躍る依頼だったのは確かだ。
琥珀色をグッと飲み干したハークは「いつかこの店に持ってきてやるよ」と嘯いたのであった。
そして、あれから5年の年月が過ぎた。ハークは請負業を続けた5年の間、一度も噂の一つも聞かなかった。
(ったく、本当にあんのか、紅夜の女王って奴は)
頭の片隅にでも――とは言われたが、あれ以来ハークの頭の半分は既に紅夜の女王に囚われていた。片時も忘れたことなどなかった。3000年生きた吸血鬼のウイスキー。きっと理屈を超えた、極上の味に違いない。考えるだけで、そのほとんど上がることのない口角が緩みそうになる。
用心棒を手掛けた富豪に「赤いウイスキーってのを知ってるか」と尋ねたのも数知れず、立ち寄った酒場でも同じことを尋ねては「なぁに、酔いの戯言だ、忘れてくれ」と誤魔化したりもした。しかし、その名を二度と聞くことは無かった。
あの酒場のマスターとも、あれから一度も会うことはなかった。次に会うときは、紅夜の女王に会わせてやる時だと決めていたからだ。しかし、先が長くないと言っていた。死んだのかもしれんな、とハークはぼんやり月を見上げた。愛車のバイクから煙を吹かせ、依頼人の元へと向かう。
日が昇った頃にハークがやってきたのは、とある地主の屋敷であった。大型のバイクを停め、ズカズカと大きな門を潜ると、太った領主が出迎える。豪華絢爛とまでは言わないが、それなりに高級な調度品を飾った応接間に通されたハークは、いつものように依頼の相談に乗っていた。
「実は、私の領土の隣にあります……森の獣が最近荒れておりまして。既に羊を何匹も殺されているのです。こんなことは初めてです」
「森の獣か」
よく繁殖期になれば獣は気が荒くなるとは聞くが、それにしては季節外れだ。領主は、「あの、それでですね」と体型に似合わない細い声で言った。
「ハーク殿、『紅夜の女王』というのは、聞いたことがありますか?」
「……ッ!?」
それを聞いた途端、一度も固く表情を変えなかったハークが、左目を見開いて驚愕したので、領主は「ご、ご存知でしたか」と笑う。
「……悪ィ、取り乱した。知ってるも何も、俺がずっと探してる奴だ」
「なんと、それは奇遇な」
領主が語りだしたことは、突拍子もないことだった。
「ええ、なんでも噂ですが……アレが、あの森で作られているという伝承さえあるのです。本当かどうかは分かりませんが……。その事と関係があるのかは分かりませんが、どうかあの森で何が起こっているのか確かめてきてくれませんか。うちの者たちは皆、あの森の獣を怖がって近づくことすらできないのです」
「……こりゃ、渡りに船だ」
呟いた直後、ハークは立ち上がった。出された紅茶に一口もつけず、コートを羽織り、煙草を咥え、
「今からでも行ってきてやる」
ニヒルに微笑んだ。
(3000年生きた吸血鬼か。どんな美女なんだろォな、女王っつーぐらいだしなァ……ようやく会えるってワケかい)
バイクを森の入り口に留めたハークは、躊躇いなくザクザクと音を立てながら森を歩いていく。針葉樹で鬱蒼とした森は、わずかな太陽の光さえも遮り、ひたすら薄暗い。ふと耳をすませば獣の遠吠えが聞こえる。猛獣がいるのは確からしい。緑の匂いに混じって獣の臭いがする。実に森らしい森だ。
ハークは腰に掛けた銀色の銃を見やる。早打ちの腕には自信がある男だ。これで今迄何度も修羅場を掻い潜ってきた。気の荒い獣など、ハークの敵ではない。
しばらく歩いていくと、木の陰からガサガサと音がした。
「……ッ」
銃を構えるハークの前にヨロヨロと現れたのは、一匹の白い狼だった。狼はハークに襲いかかる――――こともなく、ヨロリと足を縺れさせたかと思えば、そのまま崩れ落ちるように倒れた。
「……なんだ、どういうことだ………」
目を座らせ、赤い舌をダラリと地面に垂らしたその姿は、まるで
「酔ってんのか、こいつ……」
どういうわけだ。何故こんな深い森で狼が酒に酔う。思い当たることは一つしかない。ハークは柄にもなく、また一人でほくそ笑んだ。コイツは当たりに違いない。しかし、いつから歩いているのかも忘れそうなほど、森に入ってからかなりの時間が経過していた。いつの間にか日は落ち、薄暗さを通り越した闇に辺りは包み込まれていく。
「参ったな、まあいい」
そんなことを言いながら全く参っていないハークは、煙草に火をつけた。夜目は効く方だ。少しの明かりがあればそれで十分だ。
(しかし、この森はいつになれば終わる)
ここまで広い森ではなかったはずだ。まさか迷ったのか。
(迷うなんてこたァ……ねェはずだがな)
もしそうなら、泣く子も黙る流離いの請負人が笑い者だ。煙草を捨て、新しいものを咥える。まだ依頼は完了していない。何故獣が酩酊しているのかを突き止めること、そして紅夜の女王を一目見る事。その紅に口付けること。それのみを考え、歩いていく。
突如、視界が開けた。森の中にぽっかりと開いた場所にハークは辿り着いた。その中央には黒い小屋がある。
そこで、少年が一人、狼を世話しているのだった。
「……うわっ、わわわ、人だ」
ハークに気づいた少年は、顔を上げた。狼が驚いて森の奥に走って逃げる。それを見届けてから、ハークは少年に尋ねた。
「あんた、この森に住んでんのか」
「は、はい」
おどおどしたブラウンの瞳が眼鏡の奥で泳ぐ。ハンチングを被り、黒いツナギのような物を着た少年はあまりに普通の見た目をしていた。こんな所で暮らしているのは明らかに不自然である。
「俺の名はハーク。依頼で最近凶暴化した獣について調査しに来た。……アンタ、どうにか出来たりするのか」
眼光に射抜かれた少年は「っひぃ!」と肩をすくめた。
ぶるぶると爪先から頭の天辺まで震え上がったあと――大粒の涙が、ぼろりと溢れ、
「や、やっぱり僕、一人じゃ無理です、ルビー様」
少年は、蹲ってしまった。
少年は、膝を抱えたまましばらく嗚咽を漏らしていた。溜息一つ漏らさず、黙ってそれを見ていたハークは、何本目かも分からぬ煙草を夜闇に灯す。
「す、すみま、せん、久しぶりに人に会ったのと、いろいろ動転してしまって」
少年は幼い声で言った。涙で濡れたままの顔を上げると、小屋に吊るされたランプが眼鏡に反射して、風で一度大きく揺れた。
「……すみません、多分その、僕のせいです……何とかなると思います」
ハークは怪しそうに目を細くする。
「……悪ィが、根拠を聞かせてもらわんと帰れん。まずお前は何者だ。どうしてこんなところで暮らしている」
ハークが銃口を向けると、
「ま、待って下さい……! 分かりました、話しますから。その代わり、誰にも僕の正体は言わないでください」と少年は慌てる。
「……ハークさん、吸血鬼『ルビー』を知っていますか」
「知らねェな」
「そうですか」
少年は、眉を下げて俯く。
「僕は実は、吸血鬼でして、」
「……ほォ」
怪異の存在は信じていないわけではなかったが、実際に見たのは初めてだった。最もハークが想像していたような、黒マントに牙の生えた様相ではなかったが。
「……僕はその、ルビー様の眷属なんです」
「ルビーって奴に血を吸われたのか」
少年は、「いえ」と、眉を下げたまま微笑んで首を振った。
「僕から吸ってくださいとお願いました。ルビー様を好きになってしまったんです」
おどおどした表情を、一瞬紅潮させて口元を緩ませた。ハークは「なるほどな」と冷淡な声で呟いた。
「そのルビーってのは、どこに消えた」
「自由な方なので、また帰ると行って500年帰っていないんです……」
少年は、また肩を落とした。
「大層自由な吸血鬼なんだな。じゃあ、『紅夜の女王』を作ってんのも、そのルビーってやつか」
その言葉を聞いた途端、少年の目が大きく瞬きをした。
「……それを作ってるのは僕です」
瞳が揺れる。深く息を吐き、ハークの動かぬ眼を見つめた。
立ち上がった少年は「……来てください、ハークさん」と手招きした。軋む音がして、小屋の扉が開かれる。中に躊躇いなく入ったハークは「……これは、」と、思わず口元を吊り上げる。
その空間に足を踏み入れた瞬間、息を呑むしか無かった。
ーーーー酔ってしまいそうなほどの、華やかなウイスキーの薫り。
ーーーーそれに混じった芳醇な森の匂い。
小さなランプに照らされて広がっていた光景は、何十、何百もの樽が丁寧に並べられた貯蔵庫であった。
「まさか、これ全部が」
「『紅夜の女王』です」
少年は微笑む。寂しそうな憂いを帯びて。
少年は語る、女王との恋を。
曰く、『紅夜の女王』は500年前にいなくなったルビーを恋い慕って作ったウイスキーだと。
あまりに長い年月を生きてしまう吸血鬼の、
あまりに長い年月を待ち続けてしまう吸血鬼の、
願いの結晶のような紅だと。
ルビーが長年暮らしたこの森の木で作った樽で熟成させると、
何故かルビーの瞳の色のような紅色に染まると。
「……不思議なものでして、ハークさん。『天使の取り分』をご存知ですよね」
「当然だ。熟成する内、天使が勝手に飲んでいきやがるんだろ」
「吸血鬼は、嫌に飲むのがゆっくりなようで、」
少年の視線の先に、ハークも目を移す。そして、真っ黒な左目に映った樽に刻まれた数字を見て――今度こそ笑った。
「悪い冗談だろ」
小屋を出ると、夜闇は明けようとしていた。薄っすらと紫色に曇った空をハークは仰ぐ。少年は頭を下げた。
「……実は、最近脆くなっていた樽から紅夜の女王が漏れていたらしくて、小屋に入り込んだ狼がそれを飲んでしまっていたようです。すぐさま修繕しましたし、もう落ち着くかと思います。ご迷惑をおかけしました」
随分と贅沢な狼もいたものだ――と、ハークは口の中で呟いた。
「……迷惑かけた詫びに、俺にも紅夜の女王をくれねェか? ずっと探してたんだよ。……安心しろ、あんたのことは誰にも言わねぇ」
ハークの言葉に、少年は顔を綻ばせた。
「喜んで。また良かったらいらしてくださいね」
手渡された、紅色の愛を大事そうにコートの中に入れたハークは、背を向けて歩き出した。振り返らず、二度だけ軽く片手を振り、ザクザクと音を立てる。歩いていく。
不思議な夜から、数日が経った。
ハークは、5年前に約束した場所に帰ってきていた。
既に廃虚となり、朽ち果てた酒場の前で、ハークは立ち尽くす。紫煙を吐いて、立付けられた扉を引き剥がした。埃が舞う、薄汚い暗闇の中を歩く。
かつてと同じ、奥のカウンター・チェアに腰掛け、無音の中で紅夜の女王を開けた。目を閉じ、ハークは、待ち望んだ吸血鬼の女王との口付を交した。
「…………こりゃ寿命が縮まるほどの、ラブの味だな」
かつて、色とりどりの琥珀色のガラス瓶が並べられていた棚に、そっと紅色を飾ると、一度も振り返らずにその場を去って行った。