地下牢にて
王宮には地下牢と呼ばれる場所があるが、そこにはどうにも罪人がつながれているわけではないようだった。
ただ、初代大王アレクサンダーがこの城をモンスターどもから手に入れた時には、すでにあった施設らしい。
「……まあ、人目につかぬし、声が漏れても『幽霊でも出た』で済ますこともできるとはいえ、なにもこの場所で逢瀬を重ねるとはのう」
とは『月光』の言葉だった。
地下牢に思い入れがあるということもあるまいし、それは、この地下牢の暗さやかびくささ、温度の低さや名状しがたい無気味さから出た言葉なのだろうとアレクサンダーは思った。
「アレクサンダー様!」
しばし地下牢でロウソクの明かりだけを頼りに待っていると、階段を降りてくる足音があった。
アレクサンダーがそちらを見れば、イリスがフードを上げながら駆け寄ってくるところが見える。
「イリス姫殿下、本日は……その、ぶしつけな呼び出しに応じていただき、まことにありがとうございます」
「王城には簡単に入れましたでしょう?」
「え、ええ、意外なほど、すんなりと」
アレクサンダーの言葉がぎこちないのは、イリスがすぐ目の前にいるからであった。
普通、他者と会話をする時にはもう半歩、いや、一歩ほどは遠いのではなかろうかと思うほどの、それはそれは体温さえ感じるほどの近距離なのだ。
そのような距離に近付かれ、アレクサンダーはイリスの美しい顔をまともに見ることが適わなかった。
視線を泳がせ、あとから地下牢に入ってきたイリスお付きとおぼしき若いメイドや、横で意地悪く笑う『月光』などをせわしなく見るばかりで、視線がちっとも定まらない。
「アレクサンダー様、わたくし、運命を感じておりますの」
心臓が口から飛び出るのではないかというほど高鳴る。
運命――その言葉は歌劇や詩で繰り返し繰り返し使用され、もはや口に出すだに陳腐で滑稽なものになってしまっている、はずだった。
けれどイリスのかわいらしい、小さな桃色の唇からつむがれるだけで、これほど瑞々しく響くものなのか、とアレクサンダーは驚嘆する。
「その、姫殿下、わたくしめも、畏れながら……」
言葉はうまくつむげなかった。
もとより口のうまい方ではなかったのだ。
面と向かって二言三言かわせば、イリスの可憐なかんばせが脳裏によぎってなにも手につかないという、この病気としか思えぬ症状も、快方に向かうものと思っていた。
ところがどうだ、面と向かうことで胸はますます高鳴り、呼吸はままならず、妙な汗が額から流れるような感覚を覚えた。
悪寒はない。代わりに、暑くていられぬ。
アレクサンダーは父譲りの赤い髪をかきあげ、精悍な顔つきでイリスを見下ろす。
そして、
「……わたくしめも、運命を感じております」
「まあ! やはり、アレクサンダー様もそのように?」
「ええ。これほど胸の高鳴るのを、わたくしは他に知りませぬ」
「そうでしょう、そうでしょう。わたくしも、同じ気持ちです。……あの、お手紙をいただいてすぐにお会いしたいとお返事をしたことで、わたくしをはしたないとお思いかもしれませんが……このようなこと、わたくしも初めてですのよ」
「はしたないなどと、そのようなことは」
「わくわくしてたまりませんの。できることであれば、夜通しお話をしていたいと、こんなふうに思ったのは、今回が初めてのことですのよ」
「私もです!」
「ですので――」
イリスがさらに一歩、歩み出る。
そして、彼女は白く細い手を伸ばし――
――『月光』の両手をとって、
「『月光』さま、どうか、あなた様のお話をうかがいたいのですわ」
「……なんじゃと?」
これには『月光』も困惑をあらわにしていた。
イリスは嬉しそうに顔をほころばせた。
「あなた様のお姿、そしてお名前――王家に伝わる口伝がございますの。銀の狐獣人。その姿は永遠に若く、そしてその生命は永遠に尽きぬ……」
「……」
「あなた様はひょっとして、ひいおじいさまと旅をした『月光』様ではございませんか?」
「待つのじゃ。この展開は予想しとらんかった」
『月光』は気まずそうにアレクサンダーを見る。
アレクサンダーは目も口も開いたまま硬直していた。
「『月光』様、どうぞ初代様の冒険譚をお聞かせくださいまし! わたくし、様々な冒険譚を読みあさってまいりましたが、どれもこれも、妙にお上品で……やはりその当時を生で見ていた方にうかがうのが一番と思っていたのです」
「待て待て。えー、その、そうじゃな、荒唐無稽じゃろ? その、百年も前の話じゃからな? 永遠に若く、永遠に生命が尽きぬ? ないない。わらわはなんじゃ、その、『月光』ではあるし、銀の体毛を持つ狐獣人でもあるが、お前の言う『月光』ではないと、その……それよりアレクサンダーと話してはみんか? わらわなんぞより、そこのいい男に興味はないか?」
「初代様の話をいたしましょう」
「じゃからその……人違いじゃよ?」
「人違いにしても、三本の尻尾に、その幼き容姿でアレクサンダー様のお母様という事実。なにかしらそこには物語があるに相違ございません」
「相違はないかもしれんが……その、ええと、イリスよ……わらわはな、そこの赤毛のアレクサンダーと、貴様を引き合わせようと、それだけを考えて……珍しく悪だくみの一つもなく、親としての純粋な善意でな?」
「アレクサンダー様も、初代様の物語を聞くことを望んでおいでだと、さきほど!」
「いや、絶対違うじゃろ、アレ」
「ともあれおばあさまより、『尻尾の数が多い銀の狐獣人を見たら伝説の人物と思え』と言われているのです」
「……イーリィの娘か……そういえば、あやつとは何度かかかわったことがあったのう」
「ほら!」
「………………アレクサンダー、わらわはどうしたらよい?」
弱り果てていた。
この、底の見えぬ、人を見透かしたような笑みばかり浮かべる謎の人物『月光』が、こうまで弱り果てている姿を見たのは、これが初めてのことであった。
だからアレクサンダーは、どうにか己を取り戻すことが適った。
そして彼の価値観において、女性が、それも仕えるべき王家の女性がこうまで熱心に頼みこんでいるのを無下にするなどというのは、ありえなかった。
「母上、私からもお願い申し上げます。どうぞ、姫殿下の心ゆくままに」
「……いや、本当にすまん……まさかこうなるとは、予想しとらんかったんじゃ……」
「お気になさらず。私は、姫殿下のお顔を横で見ているだけで、充分に幸福なのです」
優しく微笑む。
これが、本当に、まんざら偽りでもなく、芯から幸福な気持ちで浮かべた微笑みであった。
子供のようにはしゃぐイリスを見て、彼は真実、幸福を感じていた。
そしてわずかならず『助かった』という思いさえあった。
なにを話せばいいかわからなかったのだ。
どうにも女性と面と向かうのは、彼には難しいことであった。
ならば、同じ方向を見ていたいと思った。
だから――
「母上の出自について、私は姫殿下ほどは信じられませぬが……謎多きあなたのことを知りたいという望みは、私にもあるのです」
「……なんだか妙なことになったのう……どうしてわらわの計画通り物事は進まぬのじゃ……」
『月光』は肩を落としていた。
弱々しいその姿に、アレクサンダーは初めて親しみを覚えた。