王都へ
会話と呼べるものは、その日以降なかった。
彼は己に課せられた『母の世話』を事務的にこなし続けたし、『月光』の方も黙って世話を受け続けた。
ただ、相変わらず『月光』の笑みが――アレクサンダーの心の底までを見通し、そのうえで嘲笑するような顔つきが気に入らず、アレクサンダーの生活の中で、母に食事を運ぶ時間というのは、手早く済ませたい苦痛の時となっていた。
そんな彼がこの苦痛から解放させられる時がおとずれた。
社交界入り――すなわち、次の家長として王家や他の貴族たちに目通りするため、王都で開催されるパーティーへ向かうことになったのである。
アレクサンダーの暮らす領地は王都の東側にある。
王都とそう距離は離れていないが、王都を訪れる以上は献上品などが必要であり、それを守るための私兵、運ぶための御者などもいるので、準備にはだいぶ長くかかった。
最終的には二頭立ての馬車が二つ、四頭立ての豪華な馬車が一つ、随伴する兵が十名という、それなりの大所帯と化していた。
この国家の価値観で言えば、少々大げさと言える。
これには二つの背景があった――現代の女王は先代に比べ『少々欲が深い』ので知られていて、土産の数などに少し色をつける必要があったというのが一つ。
そしてもう一つが――
「……なんで、あなたまでついてくるんですか」
二頭立ての馬車の一つには、アレクサンダーにとって望まざる同行者がいた。
我が物顔をして、馬車の一つを手荷物ですっかり占領した三尾の獣人――『月光』である。
「王都に用事があってのう。ジェファスンの許可は得ている」
そう言われては、アレクサンダーも黙るしかない。
いかに脅迫を受けていようとも――アレクサンダーの中でその説はゆるぎない――父は絶対なのだ。
「王都に着けばあとは勝手にするでな。帰りまで貴様は自由じゃ。よかったのう、わらわから解放されて」
できればそのまま王都から帰ってこないでほしい、とアレクサンダーは思った。
だが、そうもいかないだろう――父が『月光』に唯々諾々と従うなんらかの『理由』を知るまでは、彼女を野に放てないのだ。
アレクサンダーはまだまだ『脅迫説』を支持している。
愛などと――そんなもの、アレクサンダーには認めがたかった。
彼にとって『愛』というのは、もっと美しいものだったのだ。
こんなことを『月光』に面と向かって主張すれば馬鹿にされるのが目に見えている。一度愛について語った時は取り合われもしなかった。それでも彼は、『愛』というものに憧れているし、厳格で立派な父と、この童女のような生意気な女のあいだに愛があると信じたくなかった。
とはいえ抗弁もできない。
彼はまだ愛を知らなかったのだ。
誰か女性を強く想ったこともないし、そういう心理も理解できなかった。
ただ、愛というものがあり、それは素晴らしいのだと、物語でのみ知るだけだった。
「……父の命ならば、是非もございません。ただ、あなたは秘された身。ゆめゆめ我が家と関係があると知られぬよう、注意なさってください」
絞り出すようにそれだけ言う。
『月光』は楽しげに――見透かすように、笑った。
「母へ向けた言葉とは思えぬのう。……ま、よかろう。一週間ほどの滞在と聞いておる。帰るころには誰にも見られず、この馬車の中へと戻っていよう」
「お願いしますよ、本当に」
こうして人生で初めての、王都への旅路が始まる。
これが彼の人生をすっかり変えてしまう道行きであることを、アレクサンダーはまだ知らない。