『月光』という女
ところがアレクサンダーは、その日から母へ食事を持っていく役割を仰せつかることになった。
これには大いに反発した――父からの命である。いかに今まで父に逆らわず、品行方正であることを『是』とし生きてきたアレクサンダーであろうとも、それだけは嫌だという意思を述べたのである。
「そうは言うがなアレクサンダーよ。これは、我ら親子がせねばならぬ役割なのだ。わかってくれ、我が愛しき息子よ……我が妻のことは、世に明かせぬ。部屋の鍵を持つ執事と、私と、お前しか、あれのことを実際に目にした者はいないのだ。秘さねばならぬ。わかってくれ」
「それは母が獣人だからですか? それとも――幼い少女だから、ですか?」
「あれは幼い少女ではないのだ。お前にも、いずれ明かされよう。今はただわかってくれとしか言えぬこの父を、どうか許してほしい」
厳格一徹と思われた父は、母のことになると、とかく情けない顔ばかりする。
これによりアレクサンダーは、ますます『月光』への憤りを高めていった――厳格なる父の弱みを握り、傀儡としているのではないかと疑ったのである。
だからその日、彼が嫌がりながらも食事を届ける役目を引き受けたのは、『月光』へ直談判をするためであった。
「わらわがジェファスンを脅迫している? ……貴様も面白い妄想をするものじゃな」
だから、香の焚かれた部屋でそう返されて、アレクサンダーは閉口した。
『月光』の口調は本当に心の底からあきれたようなものであったし、その目にはアレクサンダーに対する憐憫さえあったのだ。
自分の想像が全然見当違いだったと言外に言われたようで、アレクサンダーは顔から火が出るような思いであった。
「では、なぜ父はあなたのような者を、これほどまで大事にしているというのです」
「愛しとるからじゃろ、わらわを」
「愛などと……愛しているならば、このように世間から隠さず、堂々としているはずです。あなたはなにか父の弱みを握っているに違いないし、私の母でもないのではないのですか?」
「どうやら貴様は、わらわより世情に疎いらしいのう。イーリィの孫――三代女王にして四代王の御代になってから、ことに『人間主権』の風潮が高まっているというのを、知らんのか? 貴族が獣人を妻としているなどと知れれば、あっというまに家を取りつぶされるであろう」
「それは……」
「さらに言うならば、今の女王はそもそも貴族の家を取りつぶす機会を狙っておるぞ」
「なぜです、初代大王に貢献した者の子孫たる我らを、なぜ初代大王のお孫様であらせられる女王陛下が……」
「金のためじゃろ」
「……」
「イーリィが――初代女王がみまかってから、王宮は歯止めを失っておる。二代目女王は凡庸だが優しい子じゃったが、今の女王はダメじゃな。生まれついての女王のせいか、己が恵まれていることを当たり前と思っておる」
「見てきたようにおっしゃるのですね」
「時折王宮には行っておるでな。現代の治世を見ていると、王宮の地下に封じられたアレを放ってやろうかとも思うわ」
「……アレ、とは?」
「貴様らの言うところの、初代大王アレクサンダーじゃ」
「……」
アレクサンダーは、ジッと『月光』の様子をうかがってみた。
しかし口にはあいかわらず高飛車な笑みがあって、ごろりと横になった姿勢からは、相手を嘲るような様子がうかがえる。
「……なるほど、あなたはたしかに、この家から解き放てない。父を脅すばかりか、王家のみなさまを巻きこんだ嘘をつくなどと」
「貴様の耳には、わらわがなにを言ったところで嘘としてとどきそうじゃな」
「ご自分の語ったことを、少しご自分で検討なさってはいかがですか? 初代女王陛下たるイーリィ様を知り合いのように語り、あまつさえ、王宮の地下に初代大王がいらっしゃる?」
「そうじゃな。すべて、事実じゃ」
「異なことを! 初代大王は、今、王墓にいましてこの国の行く末を見守ってくださっている! それをなんと不敬な……まして現代の女王陛下にまでそのような暴言。陛下がどのようなお方であっても、その御意思にかたい忠誠心をもって従うのが、その御代を生きる我らの使命であり宿願ではありませんか?」
「時代は変わったのう」
「どういう意味ですか」
「『王だから』『王家だから』――貴様が尊敬しているのは、人ではなく立場ではないか。国が興った当初のことを思えば、ひどい有様になったものと言わざるを得ぬ。アレクサンダーは王だから国を興したのか? 違うじゃろう。国を興したから、王となったのじゃろう?」
「それは、彼の大王に天命があったからです。大王は王となるべくして生まれ、天命に従い世界を救い、人民をまとめ、王となった――生まれついて王になるべきお方だったのです」
「ジェファスンの悪いとこをすべて受け継いでいるようじゃな」
「……どういう意味ですか」
「アレもかたい男ではあった。そして被虐的じゃ――苦境であればあるほど、それを天命として己を奮い立たせる、そのような男じゃ。貴様も、王家の現状を嘆いているからこそ、ますます忠誠心を奮い立たせておるんじゃろうな」
「……忠誠心が奮い立つのは、素晴らしいではないですか」
「素晴らしいものか、たわけ。……はあ、まったく。あのアレクサンダーの興した国で、どうしてこう妙にくそ真面目な連中が生まれるのか。イーリィはアレクサンダーの不真面目なのに閉口しておったが、わらわは貴様らの真面目すぎるのに口を閉ざすわ」
「では、ずっと黙っていらっしゃればよろしい!」
投げ捨てるように食事を置き、アレクサンダーは退出する。
その背後からは、『月光』の笑う声が聞こえた――ような、気がした。