結実
「お会いしとうございました」
様々な覚悟を抱き王女イリスのもとをたずねたアレクサンダーに向けられたのは、そのような温かな言葉であった。
これには意外だという想いを禁じ得ない――なにせアレクサンダーは、突如の不埒な来訪を責められ、あらん限りの拒絶を示されることまで想像していたのだ。
少なくとも、にくからず想われているのであろうか――
反射的に都合のいい想像をしそうになる己を、アレクサンダーはかたく戒めた。
けれど、やはり彼自身の心は、彼自身にもどうにかできるものではない。
薄い桃色の寝間着を身につけたイリスは、普段忍びで会う時よりもそのほっそりした腕や脚、体のラインがあらわであり、無防備にさらされた桃色の髪からは、どきりとするような香りが感ぜられる。
こちらを見上げてくる顔は、おおきな窓から差しこむ夜の光に照らされて、この世のものとは思えない美しさを見せていた。
アレクサンダーは、真っ直ぐに彼女を見ることが適わなかった。
だから視線をあちこちに泳がせるのだけれど、ここはイリスの部屋である。
普段彼女が眠っているであろう、ツヤツヤと光沢のある上等なシーツだったり――
彼女がそこで書をしたためるのであろう、桃色の柔らかそうなクッションのはまった椅子と文机だったり――
白い木材に下品にならない程度の黄金の装飾をほどこした箪笥だったりが、そこかしこにあった。
どれ一つとして、イリスから意識を逸らすのには役立たない。
アレクサンダーはけっきょく、イリスのつむじあたりを見るしかなかった。
「私も、お会いしとうございました……その、ここへは、母の手引きで……」
つい、聞かれてもいないことを答えてしまう。
イリスは楽しげに微笑んだ。
「まあ! 『月光』様は、ほんとうに、お城のことならご自分の庭のようにご存じですのね」
「今は――今はその、用事を済ますとかで……」
――二人きりにしてやる。
本来、『月光』がアレクサンダーをこの部屋に送り出す際にかけた言葉は、そのようなものであった。
とても正直に打ち明けることはできない。
「不思議なのです」
アレクサンダーがまごついていると、目の前でイリスが言う。
彼はすっかり自分から言葉を告げる機を見失い、「なにがです?」とたずねることで精一杯という有様であった。
「あなたのことは、大事なお友達だと思っておりました。けれど、たった一日会えぬだけで、あなたに会いたくてたまらないのです。お友達なら、たくさんおります。大事なお友達も、片手では足らないぐらいおります。けれど、会えなくて苦しいのは、あなただけなのです」
「……それは」
「このようなことを打ち明けて、おかしいと思われますでしょうか……? わたくしたちは、初代大王の英雄譚に興味を持つ同士。あなたとの絆は『月光』様を挟んで結ばれていたはずが、いつしか、わたくしは、あなたに会うことが、外せぬ大きな楽しみになっていたのです」
「それは、私もそうです。というよりも――私は、あなた様に嘘をついておりました」
「?」
「私は、初代大王アレクサンダーの英雄譚になぞ、興味はなかったのです。母がそんなものを語れるというのも、あなた様に言われ、初めて知ったぐらいなのですから」
「まあ、そうでしたの?」
「すっかり打ち明けてしまいますと、私の目的は、あなたでした」
アレクサンダーは、まっすぐにイリスを見た。
鼓動がうるさい。悟られぬように、シャツにシワがつくほど、胸のあたりを握りしめる。
「ひと目見た時、私は、あなたに夢中になってしまったのです。姫――いえ、イリスさん。私の頭はいつしかあなたでいっぱいで、まぶたを閉じればあなたの顔が浮かぶほどなのです」
「……それは」
「私は、この気持ちが恋であると教えられました」
「……」
「若輩の身でありますから、未だにこれが恋であるのか、私自身は、判断を迷っております。しかし、あなたのお顔をもう一度拝見したかった。このまま、あなたに会えぬまま領地に帰るのは、どうしても耐えがたかった。今宵の埒外な訪問は、すべてこの一念により行われたものなのです」
「ああ! ようやく、わかりましたわ! わたくしが、あなたに婚約のことを知られたくなかった理由が! きっと、わたくしもあなたと同じ気持ちだったのです! あなたに婚約を祝福された時に感じた胸の痛みは、わたくしが、あなたに恋をしていたからなのです!」
イリスは感極まったように口元をおさえ、目をうるませた。
アレクサンダーは強く胸のあたりを握りしめ、深い呼吸を一度だけ行い――困ったように笑った。
「……なぜでしょう。すっかり打ち明けてしまったのに、胸の苦しさがいっこうにおさまりません」
「わたくしもです。あなたに会えぬ時に感じていた苦しさは、こうしてあなたを目の前にしても、おさまるどころか、高まるばかりです」
「……私は己をかたく律することを正義と信じて疑ってきませんでしたが……」
「?」
「今日ばかりは、衝動に身を任せたく思います。失礼」
アレクサンダーは、イリスを抱きしめた。
イリスは少しおどろいた様子を見せたけれど、抵抗せず、されるがまま、アレクサンダーの胸に頬をあずける。
「寒い夜に温かな毛布に身を包んだ時も、幼いころお母様に頭をなでられた時も、大きな犬に抱きついた時も、これほどの安らぎを感じたことはございませんわ」
「ああ、ようやく苦しさがおさまってまいりました。……冒険もしてみるものですね」
「冒険?」
「ええ。母が、この夜の侵入劇を、『冒険』と――危険を冒さねばわからぬこともあるものだと、ただただ己の未熟を恥じるばかりです」
「冒険、よろしいですわね、冒険」
イリスが小鳥のさえずりのように繰り返した。
そうして、彼女はアレクサンダーから半歩離れ――
「ではもう少し、冒険なさいませんか?」
差し伸べられる手。
アレクサンダーは――その手を、とった。




