そこまでの経緯 (5)
しんと静まり返る。
ゲーム参加者達は左手をじっと見つめた。
「今の……階段の方から聞こえてきましたよね……」
山本が怯えながら言う。
川瀬は唾を飲み込み、頷いた。
「もっちゃん、見てきてよ」
「はい? なんでわたしが? こういうのって普通、男の人が確認しに行くんじゃないの?」
「じゃあ武田さん、見てきて下さい」
「あ? なんで俺が?」
「だって、入口に近いじゃないですか」
「こんな狭い部屋で入口から近いも何もないだろ」
「でも、お客さん達に確認しに行って貰う訳にはいかないじゃないですか。だから武田さんが」
「どうしてお前が除外されてんだよ。お前が行けよ」
「僕は、ほら、ね」
川瀬はちらりと自分の左手を見た。
「お前、手を離すのが怖いのか?」
「まさか……」
「だったら後輩のお前が行くべきだ」
「分かりました。それならみんなで一緒に行きましょう。それなら文句ないでしょ?」
それを聞いた樫木が目を細め、声を低めて言う。
「先生、さっき先生は客に行かせる訳にはいかないって言ったばかりじゃないっすか」
成宮が頷く。
武田は自分の方が優勢だと考えたのか、偉そうに踏ん反り返り、大きな声で川瀬を追い立てた。
「ほら、お前が行くべきなんだよ」
川瀬が黙っていると、再び樫木が口を開いた。
「三人で行ってくれば良いじゃないっすか。お客様の俺達は待ってるっすよ。よろしくお願いしゃーす」
思惑通りにいかず、武田は顔を引きつらせた。
「あれ? なんで、そうなるんですか……」
武田の声は上擦っていた。彼は参加者一人ひとりの顔を、その意思を確認しようとするかのように順に見つめた。
皆、視線を逸らす。最後に武田は川瀬を睨みつけた。
「やっぱりお前が行ってこいよ」
「やっぱりって、脈略がなさ過ぎですよ」
「お前は後輩だろ。先輩命令だよ」
「武田さんは僕の上長じゃないじゃないですか。指示に従う必要はないですよ」
「お前が入社した時に現場研修のアテンドをしたのは誰だったか忘れたのか?」
「武田さんですよ。覚えていますよ」
「だったら恩を返そうと思えよ」
「何年前の話をしているんですか。それに、その時の研修担当がたまたま武田さんだっただけの話じゃないですか。そんなことで恩を売られても困りますよ」
「俺の方が社歴が長いんだぜ」
「だから?」
「お前さあ、先輩とか上司のことを馬鹿にし過ぎなんだよ!」
「そんなことはないですよ」
「いいや! そんなことあるな。なあ、やまもっちゃん?」
「はい? どうしてわたしに話を振るんですか」
「川瀬は先輩と上司を馬鹿にしてるよな?」
「確かに、川瀬君にはそういうところありますけど……」
「ほらな!」
武田は誇らしげに川瀬を指差した。
「ちょっと、もっちゃん! 何言っているの」
川瀬は慌てて山本に問い質した。
「川瀬君って実際そういうとこあるじゃない。特に奈良坂さんに対しては酷いよね」
「そんなことないよ」
「はい? ホントに自覚ないの? 今日も奈良坂さんに何か悪戯をしたでしょ?」
「ちょっとした冗談だよ……」
「この間も、奈良坂さんが親戚の女子大生の子の入学祝いに何をプレゼントしたら良いか迷ってた時、熱心に幼児向けのオモチャを勧めてたよねえ? あの時、周りの人達はドン引きしてたよ」
「だからジョークだって。みんなも奈良坂さんの悪口を良く言っているでしょ? それに結局、奈良坂さんは僕の勧めるオモチャを買わなかったじゃないか」
「それはわたしが他の物を勧めたからでしょ? わたしがフォローしなかったら、奈良坂さんは川瀬君の言う通り魔法少女変身セットを買ってたと思うよ」
川瀬は言葉に詰まった。周りの人達が引いているのを感じる。
「先生、それはギルティっすね」
樫木が火のついたタバコを川瀬に向けた。
「樫木さんは黙っていてくれませんか」
川瀬は苛立った調子で応じた。
すると樫木は目を上に向け、鼻から煙を出しながら肩をすくめた。いかにも、やれやれと言わんばかりの表情だ。
一々腹立たしい男だ。文句を言ってやりたいが今は武田を諭すことが先決だ。川瀬は樫木の態度を無視し、武田の方を向いた。
「ほらな。やっぱり駄目な後輩のお前が席を離れるべきだ」
武田が言う。もはや論点がずれている。
「理屈になっていないですよ。それに、なんだかんだ言っても僕は奈良坂さんや上司から信頼されていますよ」
「それは会社がお前は広告塔に使えるって勘違いしてるからだろ? 調子に乗んなよ」
「調子に乗ってなんかいませんよ。ひがんでいるんですか?」
「お前のそういう人を見下したような態度が鼻につくんだよ!」
「見下してなんていませんって」
「いいや! お前は見下してるよ。お前だけじゃないな。三階の連中は一階と二階の社員を馬鹿にしている!」
武田は川瀬と山本を指差した。
「はい? わたしを巻き込まないで下さいよ」
山本は手を振った。
「枝島ヒエラルキーは存在するぜ。一階で仕事してるとなあ、ヒシヒシと感じんだよ。上の連中は俺達を差別してんだろ?」
「被害妄想ですよ」
川瀬は呆れたように返事をした。
「俺はなあ! 今日初めて応接室のソファに座ったんだぞ!」
「社外の人と接する機会がないだけですよね」
「それになあ、俺専用の机がねえんだ!」
「デスクワークが少ないからですよね」
「一階は空調が効かねえんだよ!」
「頻繁にトラックが出入りするからじゃないですか」
「土日も出勤してんだぞ!」
「物流と製造はシフト制ですよね」
「早朝に出勤することもあんだぞ!」
「だからシフト制だからですよね。年間休日数と勤務時間数は全社員一律です」
「お前なあ! おまっ、お前は、反論が早いな……」
「ありがとうございます」
「褒めてねえよ!」
川瀬は救いを求めるように成宮を見た。しかし饒舌なはずの成宮は涼しい顔をして、そっぽを向いている。駄目だ。この人は役に立たない。
そうしている間にも武田は次々と捲くし立てた。
「……大体なあ! お前がこんなくだらないゲームを始めるからいけないんだろ!」
「たかがゲームじゃないですか」
「そう思うんだったら、さっさとその手を離せよ!」
「武田さん、いつもビビり過ぎですって」
「てめえ、いい加減にしろよ!」
武田は身を乗り出し、川瀬の左腕を掴んだ。
「やめて下さい」
「うるせえんだよ!」
武田は強く川瀬の腕を引いた。川瀬の腕に爪が突き刺さる。
川瀬は痛みに顔を歪めながらも左手がテーブルから離れないよう力を込めた。武田は体重を後ろに掛け、更に強く川瀬の腕を引いた。
「やめて下さいって!」
川瀬は大きな声を出して右手で武田の腕を払い、彼の胸の辺りを押した。
中腰の姿勢だった武田はバランスを崩し、ソファにつまずいて、左手をテーブルから離した。
ゴチンッ。
鈍い音が響く。