そこまでの経緯 (3)
奈良坂達の姿が見えなくなると、笠松が口を開いた。
「パワフルな方ですね……」
川瀬が応じる。
「一緒に仕事をすると疲れますよ」
「ハハ。色々と苦労があるのですね。それにしても、こんな時間から用事があるなんて、部長ともなると本当にお忙しいのですね」
「課長と一緒ということは行き着けのスナックのママにでも会いに行ったんですよ」
その会話を聞いた武田が苛立ち気味に川瀬を注意した。
「おい、余計なこと言うなよ」
「大丈夫ですよ。笠松さんは察しの良い方ですし、記事になんてしませんよね?」
「あ、はい、もちろんです。もうインタビューの本題も終えていますし、気楽にリサイタルゲームを楽しみましょう」
川瀬、成宮、山本が笑う。
しかし、武田は不安そうな顔で笠松に尋ねた。
「本当に大丈夫ですか? インタビューを終えたと言っても、奈良坂さんは大したこと話してないじゃないですか」
彼は横柄な割に細かいことを気にする。
笠松はその問いに答えようとした。ところが先に樫木が話し始めた。
「平気っすよ。笠松さんは、ポテトチップの原材料を読み上げられただけでもペラ十枚くらいの記事は余裕で書けるって、いつも偉そうに言ってるっすから。ね、笠松さん」
「……樫木さん。余計なことを言わないで下さい」
慌てる笠松を見て川瀬達は声を出して笑った。樫木だけは何が可笑しいのか分かっていない様子だ。
「それより、奈良坂部長は手を離したっすけど、良いんすか?」
樫木がやや不満げに川瀬に問い掛けた。
「それは、ほら、ねえ、あれですよ……」
しどろもどろに答える。すると成宮が発言した。
「大人の事情だよ。さすがに偉い人に対して、参加を強制したり拒否したり、ましてや退場を咎める訳にはいかないからねえ。奈良坂さんに関しては、参加していないということでね」
「俺が手を離したいって言った時には、みんなして反対したじゃないっすか……それに参加者が多い方が良くないっすか?」
そう樫木が言った時、再びドアをノックする音が響いた。川瀬が返事をする。ドアを叩いたのは、またもや沢渡だった。
彼は気まずそうに室内に入ってきた。
「失礼します。もうオフィスの従業員は全員退社しました。私もそろそろ上がろうと思うのですが、皆様はどうされますか?」
遠回しに、早く帰りたいからお前らも早く帰れ、と言っている。
そこで川瀬は気を利かせた。
「まだインタビューに時間が掛かりそうなので、先に上がって頂いて結構ですよ」
すると沢渡は少し困った顔をして武田に声を掛けた。
「武田君は鍵と警備の掛け方を知っていたかな?」
「あ、はい。分かりますんで、お任せ下さい」
「そうか。では、お言葉に甘えさせて貰おうかな」
話がまとまりかけた時、樫木がいやらしい笑みを浮かべて沢渡に声を掛けた。
「えーっと、お名前なんて言うんすか?」
「私ですか? 沢渡と申します」
「沢渡さんっすね。沢渡さん、この後、予定がないならゲームに参加しないっすか?」
「ゲーム?」
また面倒なことを提案している。早く帰りたそうな人を捕まえてどうする。
川瀬は手っ取り早く話を済ませようと思い、至極簡単にサバイバルホラーゲームについての説明をした。沢渡のような真面目な人間ならばゲームには参加しないだろうと踏んだのだ。
ところが、沢渡からは思い掛けない言葉が返ってきた。
「面白そうだね。実は僕はサバイバルホラーが好きなんだよ……」
彼はそう言って最近流行のサバイバルホラー小説のタイトルや作家の名前を挙げた。知っているものから知らないものまで、いくつもだ。
同じ会社に勤めてはいるが川瀬は沢渡とあまり面識がなく、どんな人間なのか全く知らずにいた。僅かながら彼の意外な側面に触れたことで、川瀬は自身に言い聞かせた。
もはや彼のゲーム参加は免れないだろう。普段接点のない人と親睦を深めるのも良いかも知れない。
そうして、ゲームの詳細を沢渡に伝えることにした。
説明を聞き終えた沢渡は片側の口角を引き上げて深く頷いた。
「そういうことならば正式に参加する前に準備をしなければならないね」
彼はそう言うと、部屋を出ていった。
「準備?」
成宮が川瀬を見る。
川瀬は肩をすくめた。
その時、外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。赤く点滅する光が窓の縁を照らす。
サイレンはすぐ近くで途切れた。外を見たくても席を離れる訳にはいかない。川瀬は窓際に座る樫木に話し掛けた。
「外、見えますか?」
樫木は中腰の姿勢になって首を伸ばした。
「無理々々。テーブルを動かして貰わないと無理っすね」
「そうですか……」
しばらくすると沢渡が戻ってきた。その手には、給湯ポットと、インスタントコーヒーやミルクや砂糖などの入ったバスケットが握られていた。
川瀬は沢渡にも同様のことを聞いた。
彼は山本と笠松の後ろを通り、窓から外を覗き込んだ。同時にサイレンの遠ざかる音が聞こえる。
「何があったのか分からないな。事故があった気配はないから、近所の人が倒れたとかじゃないかな」
沢渡は素っ気なく答えると、笠松の後ろにあるコンセントにコードを繋ぎ、給湯ポットとバスケットをテーブルの上に置いた。
「どなたかコーヒーのお代わりはなさいますか? インスタントで申し訳ありませんが」
樫木だけが手を挙げた。沢渡は自分の分と樫木の分のコーヒーを紙コップに淹れ、山本と武田の間の床の上に腰を下ろし、テーブルに左手を置いた。
武田が即座に席を退き、ソファを沢渡に勧める。しかし沢渡は手を振って断り、武田に座るよう促した。武田は素直にソファに座り直した。
沢渡はコーヒーを一口飲むと、笠松達と互いに自己紹介を始めた。