そこまでの経緯 (1)
創業三十五年、埼玉県郊外に四階建ての工場兼本社ビルを持つ枝島ラッピング株式会社は、転換期を迎えていた。
同社は長年、企業向け資材の製造販売と文具メーカー等のOEM生産のみを行なっていたが、今年度より一般消費者向けの製品も販売することにしたのだ。
それに伴い、営業部に卸売りを担当する二課を新たに設置。外部から引き抜いてきた福本を課長に据え、川瀬、山本ら若手社員が同部署に配属された。
枝島ラッピングには広報を担当する専門部署がない。その為、営業二課がPR活動全般を担うこととなった。
そんな折、川瀬が小説家としてデビュー。営業部長奈良坂の思い付き且つ独断により、川瀬を広告塔にすることが決定された。
「……無茶な話だと思いませんか? 会社は僕がどんな作品を書いているのかなんて分かっていないんですよ。創作活動に前向きに協力してくれると言われたので承知はしましたが、名刺にまで、『兼小説家』なんて書かれるとは思いもしませんでしたよ。取引先の方は社交辞令でどんな作品を?って聞いてはくれますが、ホラー書いていますって、ねえ、答え辛いですよ」
川瀬は冷めたコーヒーを啜り、お茶請けのミックスナッツをポリポリとかじりながら愚痴を零した。
成宮がやや冷めた調子でなだめる。
「まあ、業界においても川瀬君の扱いは異例だね。会社勤めをしながら副業として物書きをする人は多いけれど、そのことをわざわざ公にする人は少ないし、まして社名を、ネットで暴露されることはあっても、自分から明かす人はまずいないからね。ただ、それによって他の作家との差別化、川瀬君のアイデンティティというものが形成されているのも事実なのだから、方向性はともかく、会社のバックアップがあることについて前向きに捉えるべきじゃないかな」
「そうですねえ……あ、豆食べます?」
「いや。いらない」
川瀬は鳩のように首を前へ突き出して小さく頷き、新たにミックスナッツの袋を手に取って器用に片手で封を開けた。
その手付きを見た山本が呟く。
「どうして片手で開けられるの? わたしなんて両手でも開け辛い時があるのに」
川瀬は更にもう一袋手に取った。
「簡単だよ。こう片側を中指と薬指で挟んで、切り口の所で二つ折りにするでしょ。で、親指を折り目の内側に入れて、エイッ。ほら開いた。これあげる」
山本は封の開いた袋を受け取り、豆を口に含んだ。
「その、『エイッ』のところが分からないんだけどさあ。そこの説明を端折っちゃ駄目じゃない?」
「口では説明し辛いな。ま、修行しな。家で練習すると良いよ」
「別に出来るようになりたいとは思ってないから」
その不毛な会話に笠松が参加した。
「さすが先生、どんなことに関しても才能がありますね」
川瀬は笑いながら応じる。
「もうねえ。知り合ったばかりですけど、笠松さんの性格がなんとなく分かりましたよ」
「どんな性格でしょうか?」
「大人の言うことは信じないことにしようってことです」
「ハハ。私は正直者ですよ。近所でも有名です」
「近所って……」
談笑が続く。
部長奈良坂の指定したインタビュー開始時刻から三十分が過ぎていた。
夜七時半。翌日が休みのためか、ほとんどの社員は早々に退社しており、三階オフィスの一部と四階応接室だけが明かりを灯していた。
しばらくすると、武田が激しく貧乏揺すりをしながら唇を歪ませた。
「こんなにグッダグダで良いんですか? おい川瀬、奈良坂さんを呼んでこいよ」
「そう言われましても……」
曖昧に応じると、武田は益々苛立たしげな態度を取った。
空気を察したのか、笠松が穏やかに武田に声を掛ける。
「私達は川瀬先生にお話を伺いにきていますので平気ですよ。こういうのもなかなか楽しいですしね。それに奈良坂部長につきましては、一言コメントを頂き、写真撮影をするだけということで最初からお話しを受けていますので、ご安心下さい」
武田は渋々納得した。
「あっ」
樫木が突然声を発する。
「……そうだ、写真撮影があるんすよね。片手だと難しいなあ」
彼は、煙を吐き出しながらそう呟き、火のついたタバコをいかつい灰皿の底で捻り消した。続けてもう一本ショッポを咥える。灰皿には既に吸殻が山になっていた。
「撮影の合間だけ両手使っても良いっすか?」
樫木が全員にそう尋ね、笠松が笑いながら答える。
「もう社内の様子は撮影済みで、あとは先生方の集合写真だけなのですよね? オートフォーカスもあるのですから、片手でも大丈夫ではないですか?」
その言葉を聞くと、樫木は眉間に皺を寄せ、巻き舌気味に低い声で返事をした。
「あ? 笠松さん、俺の仕事を馬鹿にしてるんすか?」
空気が凍りつく。
取材先で喧嘩なんかするか? 川瀬はこの不躾な男を糾弾しようと賛同者を探すように全員の顔を見回した。笠松のコメカミが一瞬ひくつく。しかし、彼はすぐに笑顔を作り、申し訳なさそうに樫木にこう述べた。
「失礼なことを言ってすみませんでした。ただ、せっかくみんなでゲームを楽しんでいるのですから、出来るだけ片手で作業をしてみませんか? そうやって苦労をしながら仕事をするのも、このゲームの醍醐味だと思うのです」
樫木が濃い煙を吐き出す。
その険悪なやり取りを見かねた成宮が助け舟を出した。
「まあ、樫木さん、このゲームもインタビューの一環、つまりは仕事の一つなんだから片手で頑張ってみようよ。こういうゲームはさ、例外を作ってしまうと面白みが半減してしまうからねえ」
「…………」
「うん。気持ちは分かるよ。樫木さんのプロカメラマンとしての意識の高さは尊敬に値するよ。今はフリーなんだっけ? 機会があったらまた一緒に仕事をしたいねえ」
「……あざっす」
樫木の機嫌は直ったようだ。むしろ嬉しそうでさえある。
それもそうだ。成宮の勤める出版社はネームバリューとしては十分。実際に一緒に仕事をすることになれば良い経歴になるだろう。
山本が川瀬に視線を送った。その視線に気付いて見つめ返すと、彼女は周りに悟られないよう声を出さずに口を動かした。
『シャ・コ・ウ・ジ・レ・イ』
そう伝えたいようだ。川瀬は含み笑いをしながら細かく頷いた。
その時、扉の開く音がした。