クライマックス(1)
それは最初に会った時と同じ表情だった。
目の前の男、笠松は、柔らかな笑みを浮かべている。
本日の午後六時、まだ日の残っていた頃、川瀬と笠松は初対面の挨拶を交わした。その時も笠松は笑っていた。その顔を見て川瀬は人当たりの良い人だと好印象を抱いた。
しかし今、目の前にあるその笑顔は、恐ろしく禍々しいものに思えた。最初の笑顔と寸分違わない、ある意味完成された笑顔、完成され過ぎた笑顔。
その表情の持ち主の右手には、いかつい灰皿が握られていた。
いつでも殺すことが出来るのだということをアピールでもするかのように、笠松はわざわざテーブルの上に灰皿を載せていた。
「先生、成宮さんが窓から落ちて少し経ちましたが、外で騒ぎの起きている気配はないですね。やはり、ゲームは生存者が一人になるまで続くのでしょう。先生、この後、いわゆるサバイバルホラーではどのような展開になるのでしょうか?」
白々しい言葉。笠松は勝利を確信しているに決まっている。どのような展開になるのか聞きたいとは思っていないはずだ。
川瀬は体を震わせて、答えた。
「小説の世界でどのような展開になるのか? 知っていても教えないですよ。教える訳がありません。さっき不用意に伏線アイテムの話をして、こんなことになっているんですから……」
笠松は声を出して笑った。
「ハハ……伏線と言えば、成宮さんにはやられました。まさかポットを利用するなんて」
笠松は右の太股をさすり、顔を歪めた。
「……しばらくまともに歩けそうにありませんよ。あ、先生はしばらくどころか、今後一切歩くことの出来ない物体になり果てるのですけれどね」
冗談ではなく、本気で言っているから困る。
「笠松さん、まだ分からないですよ。その射程の短い武器では、僕が体を大きく反らしたら、僕の頭まで攻撃が届かないじゃないですか」
「ハハ……ミスリードさせようとしていますね? この鈍器は頭を狙う物ではないです。成宮さんの敗因は私の頭を狙って攻撃したことです。もしあの時、頭ではなく左腕を狙われていたら、私は負けていたでしょうね」
笠松の指摘通りだ。どんな策を弄しようと、左手は敵の攻撃範囲から逃れられない。
川瀬は軽く舌を打ち、左手を見つめた。その手は熱湯による火傷で真っ赤に腫れ上がっている。
「さて……」
笠松はそう言うと、提案を持ち掛けてきた。
「……ゲーム終了時刻まで、あと一時間ほどです。包み隠さず申し上げますと、優位に立っている私が最も懸念しているのは、時間切れなのですよ。この状況で負けるとは思えませんが、しぶとく粘られた場合、引き分けはあり得ると考えています。そこで、他のゲームをしませんか?」
「シンプルなところだと、ジャンケンとか?」
「そうです。先生が仰いましたよね? 時間が差し迫った時に他のゲームで勝敗を決めるのも手だと……」
「それは……」
それは、ブラフとして他のゲームを持ち掛けるのも有りだと成宮が暴露してしまった。他のゲームで勝敗が決しようと、その指示に従う必要などないのだ。そんなことは笠松も重々承知しているはずだ。つまり、他のゲームをすることで互いに隙を探り合おうということだろう。
川瀬は考えた。圧倒的に不利なこの状況。少しでもチャンスを見出せるのであれば他のゲームに応じるべきだ。
「……それは、他のゲームで笠松さんが負けた場合、笠松さんは左手をテーブルから離すということですか?」
「ハハ……それもスリリングで良いかも知れませんが、先程も言った通り、私は私が現在有利だと考えています。その条件では、あまりにも私に旨味がないです。どうでしょう、私が他のゲームで敗北した場合は、この灰皿を差し上げるというのは」
「差し上げるって、それはうちの会社の備品ですよ」
「失礼しました。言い方を変えますね。私が敗北した場合は、この灰皿を返却致します」
「悪くないですね。で、笠松さんが勝った場合は?」
「それはもちろん、負けた人に左手を離して頂きます」
実際には意味のない交渉だ。どんな条件だろうと誰も約束を守るつもりなどない。あくまで演じるための設定だ。
「分かりました。その条件で何かのゲームを行ないましょう。すみませんが、手帳にそのルールを記載してくれますか?」
「ハハ……冗談ですよね? 手帳にメモなどしていたら、その隙に灰皿を奪われてしまいますよ」
「ハハハ……ですよね」
笠松は自信に満ちた顔付きをして鼻で笑った。
「油断も隙もありませんね。先生は、チャンスさえあればすぐに悪巧みをする。そういえば、成宮さんがお湯を撒いて私が拭く物を貸して欲しいと先生にお願いした際、惚けましたよね? そのせいで私は危うく殺されるところでした」
「あれえ? そんなことありましたっけ?」
「分かりました。もう結構です」
「そうですか」
「では、何のゲームを行なうか考えましょうか」
川瀬は考えた。考えて、提案をした。
「笠松さん。その前に、ちょっと良いですか?」
「はい、なんでしょうか」
川瀬は隣の席に置いてあるラッピィのぬいぐるみを拾い上げた。
「タイマーをかけておきませんか? 他のゲームに熱中し過ぎてしまって、気が付かないうちに時間切れになってしまっては元も子もありません。えーっと、そうですねえ、サバイバルホラーゲームが終了する五分前、二十三時五十五分にアラームが鳴るようにでもしておきましょうか。アラームが鳴ったら勝敗が決していなくても他のゲームを終了させるんです」
「終了させてどうされるのですか?」
「もうそうなったら、各自、玉砕覚悟の攻撃をするしかありませんよ。何もしなくても五分後には死んでしまうのですから」
「確かに仰る通りですね。では、タイマーのセットをお願いしても良いですか?」
「はい、もちろん」
川瀬はラッピィのクチバシを押した。ラッピィが鳴く。
『今は二十三時零分ラッピィ!』
ちょうど一時間後にゲーム終了だ。
笠松が川瀬の手元をじっと観察している。何か細工をするのではないかと疑っているのだろう。
川瀬は堂々とクチバシを長押しした。
『何時ラッピィ?』
左耳を五十五回押す。
『…………五十二、五十三、五十四、五十五』
右耳も必要回数押す。
『…………二十、二十一、二十二、二十三』
クチバシを二回押す。
『……セットオッケーラッピィ!』
川瀬は顔を上げた。
「アラームのセット完了しました。じゃあ、これは邪魔にならないように、そっちに投げておきますね。笠松さんの物ですし」
そう言って川瀬は、ラッピィを笠松の左側に置いてある鞄へ向かって投げた。ラッピィは鞄の上部にぶつかり、そして壁際に転がった。
「……あ、すみません。投げる勢いが強すぎたみたいで床の上に転がしてしまいました」
「気にしません。アラームが聞こえれば問題ありませんよ」
「心が広いですね」
「話を戻します。何のゲームを行なうか良い案はありますか?」
「うーん……」
「先生?」
「うーん……」
川瀬はしばらく唸った。





