伏線の活用(3)
元の状態に戻る。川瀬は全身を汗で濡らしていた。
「……か、階段まで、階段まで、テーブルを運ぶんじゃなかったんですか? 裏切るなんて酷いじゃないですか!」
川瀬が怒鳴ると、向かいの席に座る二人は笑いだした。
「ハッハッハ……川瀬君、今のはちょっとした冗談だよ」
「ハハ……そうですよ。本気にしないで下さい」
「冗談? はあ? 何が冗談なんですか! みんなで助かろうっていう作戦そのものが冗談だったんですか! それとも僕を殺そうとするのが冗談だったんですか!」
成宮が困った顔をして返答する。
「外部に連絡しようとする作戦は、もちろん冗談じゃないさ」
笠松も続く。
「そうですよ、先生。それから、先生のことを殺そうとする訳がないではないですか。テーブルをちょっと押したのは冗談だと申し上げているのです。ハハ」
「僕はもう少しで死ぬところだったんですよ! 冗談で済む問題じゃないでしょ!」
「落ち着こうよ、川瀬君」
「先生、冷静になりましょう。そうして、気持ちが落ち着きましたら、もう一度テーブルを傾けましょう」
川瀬はテーブルを強く叩いた。
「ふざけないで下さい! そんな作戦に協力なんてしませんよ!」
成宮が真剣な面持ちになり、諭すように川瀬に話し掛けた。
「悪かったよ。申し訳なかった。もうテーブルを傾ける作戦は行わないよ。だから君も大声を出すのはやめようじゃないか。怒鳴っても人は死なないよ?」
川瀬は黙った。
笠松も口を閉じている。
「……うん。少しは落ち着いたみたいだね。どうだい? コーヒーでも淹れようか?」
川瀬は溜め息をつき、成宮の方を見ずに返事をした。
「はい。じゃあ、頂きます」
「私も……」
成宮は屈んでコーヒーを淹れ始めた。
「信じてくれないかも知れないが、私は本当に階段までテーブルを運ぶつもりだったんだよ。ただね。テーブルが高く持ち上がった時、魔が差してしまったんだ。今なら倒せるんじゃないかってね。ねえ、笠松さん? 私はテーブルを押す直前まで裏切る素振りなんてなかっただろ?」
「はい。隣で見ていた限り、そのような感じでしたね」
「そういうことなんだよ。すまなかったね……」
川瀬はうつむいて、小声で喋った。
「僕こそ、ちゃんと作戦を決行するつもりでしたよ。百パーセントじゃないにしろ、全員助かる可能性もあるって思っていました」
その言葉を聞いた笠松が問う。
「では先生。もう一度やりますか?」
「いいえ、お断りします。もう懲り懲りです」
「しかし、他に全員で助かる方法は思い付きませんよ?」
「それはそれで仕方ないんじゃないかと諦めました。と言うより、とっくに諦めていたんですよ。殺し合いは免れないって」
「その割には随分と落ち込んでいらっしゃいますね」
「殺し合う覚悟の状態で攻撃を受ければ、もちろん嫌ですけど、まあ、納得出来る部分もあるんです。それに対して、みんなで生き残ろうって思っている時に攻撃を受けると、なんて言うか、精神的にきついですね」
「ハハ。全員で生き残ろうという嘘の作戦を最も好んで使っていらっしゃったのは、先生ではないですか」
「はい。だから物凄く反省しています。悪いことしたなあって……」
「先生が反省をするなんて珍しいですね」
「そうですね」
「死を目前にして、やっと大人に成長されたのですね」
「ハハハ……笠松さんはブレないですね」
笠松も笑い、そこで会話が途切れた。
室内が静かになり、紙コップにお湯を注ぐ音が響く。
成宮はまだコーヒーを淹れているようだ。
時間が掛かり過ぎていると思い、川瀬達はそちらを向いた。そして目を見開いた。成宮の目の前、テーブルの上にはコーヒーの入った紙コップが四つ置いてあり、更に彼の足元の右側にお湯の入った紙コップがいくつも並んでいたのだ。
笠松が咄嗟に危険を察し、身を乗り出して紙コップを奪おうとする。しかし成宮の方が早かった。彼は熱いコーヒーを笠松に乱暴に浴びせ、続けて川瀬の顔に向かって二杯目のコーヒーを飛ばした。
燃えるような、皮膚を剥がされたかのような感覚がする。明らかに通常のコーヒーの熱さではない。
川瀬は悟った。成宮は伏線の話題が出た時から、ずっとこれを狙っていたに違いない。あの時、成宮はコーヒーを飲むと宣言することで、堂々と給湯ポットの設定温度を上げて再沸騰の操作をしていたのだ。灰皿のことに意識がいっていて気付くことが出来なかった。
成宮が追い打ちを掛ける。彼は自分の左手をテーブルの端に移動させた上で、他の参加者達の左手の上に何杯もお湯を注いだ。
「グァッ!」
川瀬は短く叫んだ。
左手の周りはお湯が溜まった状態になっていた。
出来ることならばすぐにでもテーブルから左手を離したかったが、そうする訳にもいかない。川瀬達は可能な限りお湯を振り払おうと素早く手を左右に滑らせた。しかし、なかなか熱さが引かない上、追加のお湯がやってくる。
それだけではない、混乱を利用して別の攻撃が行われる可能性もあった。しかも、その攻撃は成宮からのものとは限らない。すぐにでも態勢を立て直すため、熱湯に対してスマートな対処が必要だ。川瀬は片方の靴下を脱いで、お湯を拭くことにした。
お湯を拭き取ると幾分熱が緩和された。
「先生! 私にもそれを一瞬貸して下さい!」
笠松が額に血管を浮かばせて叫んだ。
川瀬の心に邪な感情が湧く。
「靴下ですよ?」
「気にしないですよ!」
「臭うかも知れません」
「気にしないです。早く!」
「僕が気にするんです」
「はあ?」
「足が臭いと思われたら嫌じゃないですか」
「ふざけているのですか!」
「いいえ」
「早く貸して下さい!」
そのやり取りを成宮が嬉しそうに見ていた。
「笠松さん。自分の靴下を使えば良いんじゃないかな?」
「あ、そうですね!」
笠松は熱さで思考が鈍っているのか、成宮の提案を疑いもせずに受け入れ、無防備にも前屈みになった。
その隙をついて成宮は窓際に移動し、灰皿を拾い上げ、それを笠松の後頭部めがけて振り下ろした。
すんでのところで体を捻って頭への攻撃をかわす。灰皿は笠松の太股にめり込んだ。
「ダハッ!」
悲鳴があがる。
成宮は更に一撃を加えようと、灰皿を振り上げた。
笠松は足の痛みを我慢しながら、攻撃を回避するため意外な行動をとった。テーブルを持ち上げたのだ。
川瀬も左手を離してはなるまいと、反射的にテーブルが水平になるようにほぼ同時に持ち上げた。
窓際にはソファがなく、成宮は中腰の姿勢だった。その上、右手を振り上げていたため、急にテーブルが持ち上がったことで彼はバランスを崩した。
笠松が川瀬に視線を送る。
川瀬はすぐに笠松の意図を察した。やるなら今だ。そして、勢い良く窓に向かってテーブルを移動させた。
すると成宮はよろめき、樫木の死体に足を引っ掛けて頭から窓ガラスに飛び込んだ。甲高く美しい破砕の音が鳴る。
彼は、左手をテーブルから離していた。
川瀬達はテーブルを元の位置に置き、様子を見守った。
窓ガラスが大きくヒビ割れている。そのヒビの隙間に成宮の体は胸の辺りまで突き刺さっていた。もう死んでいるに違いない。
そう思った時、彼は起き上った。ガラスの破片があちこちに刺さり、額や首から大量に出血している。
成宮は腹話術の人形のように口を開閉させた。
「我が生涯に一片の……」
そこまで言うと彼は、自分の脳みそを内側から覗こうとするかのように目玉をグリンと上に向け、そのまま後方に倒れて窓ガラスの向こう側に姿を消した。
しばらくすると外から、水を含んだ物体の潰れる音がした。グチャリ。人間が人生の最期に発する音にしては、あまりにも惨めなものだった。
成宮が窓から落ちる間際、彼は灰皿を床に落とした。
落ちた灰皿は緩やかに転がり、偶然にも、笠松の足元に辿り着いていた。





