本番開始 (3)
川瀬が聞く。
「助かる? どうやって?」
笠松が答える。
「やって見せた方が良いですかね。皆さんも気になりますか? 樫木さん、樫木さんはどうですか? 興味があるのであれば、まずは落ち着いて下さい」
樫木は何も言わず、灰皿を握ったまま笠松をねめつけた。
「……さて、先生は手先が器用でしたね。少し手伝って頂いてもよろしいですか?」
「はい。簡単なことなら……」
「このネクタイの端に結び目を作って欲しいのです」
笠松にネクタイを差し出され、川瀬は戸惑いながらも言われた通りネクタイの細い側に片手で結び目を作った。
「念の為、その上からもう一つ結び目をお願いします」
「はい……」
結び目に結び目を重ねる。参加者達はその様子を注意深く見守っていた。
やがて、ネクタイの先端に団子状の結び目が出来上がった。
「ありがとうございます」
「これをどうするんですか?」
「見ていて下さい」
そう言うと笠松は結び目を握り、剣先側を振り回した。
「……このように、結び目のない状態でネクタイを回すと、重さがないので風に舞ってしまいます」
確かにネクタイは空気抵抗を受けて棚引いている。参加者達は頷いた。
それを確認すると笠松は、今度はネクタイの結び目のない方を握った。
「次に、結び目側を回します」
ネクタイは風を切る音を鳴らしながら回転した。
「……このように勢い良く回転します」
「それで?」
成宮が興味深げに話を促すよう相槌を打つ。
「ここからが本番です」
そう言うと笠松は勢い良く右腕を振った。ネクタイが鞭のように弧を描き、それは樫木の首に当たって、結び目が彼の首を一周した。
「クエッ」
樫木が声を漏らす。
川瀬は笠松と樫木が場を和ませるためのコントでもしているのだと思い、乾いた笑い声をあげた。
「ハハハ……こんな時につまらない冗談はやめて下さいよ」
ところが笠松は何の反応も示さず、妙に男前な声を発した。
「成宮さん、そっちをお願いします」
彼は顎で樫木の右肩に下がっている結び目を示した。
「ああ」
成宮は当たり前のことのように結び目を手に取った。まるで取りこぼしたボールを拾って貰うかのような気安いやり取りだ。
そして、向かい合って座る笠松と成宮は腕に力を込めた。ネクタイがピンと張り、樫木の首に食い込む。
樫木は苦しそうにもがき、灰皿を落とした。カーペットの上にタバコの灰が散る。彼はネクタイを引き剥がそうと、空になった右手の指をネクタイと首の隙間に捻じ込もうとした。しかし、きつく絞まっていて入らない。
樫木は自身の首を何度も引っ掻いた。
川瀬は、しばらくその光景を呆然と眺めていたが、樫木がギブアップの合図を送るつもりなのかテーブルを強くタップした時、我に返って成宮の肩を揺さぶった。
「ちょちょちょ、ちょっと、二人とも何をしているんですか……」
二人は返事をしない。成宮の歯軋りの音だけが聞こえる。
「……やめて下さい。落ち着いて下さいって」
成宮の体を強く引くがネクタイを離す気配はない。更に揺さぶると、連動して樫木の頭が揺れた。
樫木の顔色がみるみる変わっていく。薄闇の中でも赤黒く変色しているのが分かる。彼は成宮の手を叩いたが、既に力が入らないらしく、ペチペチと軽い音だけが鳴った。
樫木の顔全体にマスクメロンの皮のように網の目状に血管が浮かび上がる。
メロンパンマンっていたっけ? 川瀬はどうでも良いことを考えた。川瀬の精神は既に積極的に現実逃避をしようとしていた。継続して成宮の肩を揺さぶってはいるが、言葉は無く、力は全くこもっていない。もはやそれは惰性の行為であった。
山本も先程から何も言わない。彼女は口と目を大きく開いたまま固まっていた。
白い泡のような涎が樫木の口の周りを湿らせる。
彼は耐えることが出来ず、左手を離して両手でネクタイを掴んだ。
瞬間、彼の体は力を失い、両側から引っ張られているネクタイにぶら下がった。まるで電線に引っ掛かったヤッコ凧のようだ。
それを見た成宮と笠松は、手を離した。
樫木の体が床に転がる。横になった樫木は口から舌をだらしなく垂れ下げていた。その弛緩しきった舌は、人の体を乗っ取ったエイリアンが顔を出しているようにも見えた。
彼は、誰の目から見ても、明らかに死んでいた。
笠松が念の為に樫木の胸に触れ、心肺が停止していることを確認する。そして彼は、フーッと息を吐き出しながら右手首を回した。
成宮は、めいっぱい力を込めて手が痺れたのだろうか、右手の開閉を繰り返していた。
「か、か、笠松さん?」
川瀬は声を震わせて尋ねた。
「なんでしょうか」
笠松が柔和な笑顔で答える。
川瀬は寒気を覚えた。自分は彼に対して恐怖を抱いている。その考えを打ち消すように川瀬は声を強めた。
「なんでしょうかじゃないですよ。助かる方法を披露するんじゃなかったんですか? 助かるどころか、更に人が死んでいるじゃないですか!」
「自衛のための手段です。そして、宣言通り私は助かりました」
「自衛って……どう見ても過剰防衛ですよ! 首を絞めなくても他に方法はあったんじゃないですか? 何より、争いをやめようと提案したのは、笠松さん、あなたじゃないですか!」
「先生は私に死ねとでも言うのですか? 先程の樫木さんは誰も手をつけられない状態だったではないですか。それに……」
「それに?」
「これは、こういうゲームですよね?」
「言っている意味が分からないですよ……」
「ハハ。相手を油断させて陥れる必要があると先生は仰っていたではないですか。お忘れになったのですか?」
川瀬は次の言葉が浮かばず、ただ歯を食いしばった。
会話が途切れたタイミングで成宮が笑い出した。
「ハッハッハ……つまり、十二時まで何もせずにいようと言ったのは、ブラフだったんだね?」
「そうですね。本来ならば私は中立を保ち、樫木さんがある程度人数を減らしてくれるはずだったのですが、思惑通りになりませんでした。樫木さんはたまに勘の良い時がありますので何かを察していたのでしょう」
「笠松さんは恐ろしいねえ」
「正しくゲームを行なっているだけですよ」
川瀬は笠松を睨みながら呟いた。
「正しくゲーム? 暴力は禁止って言ったじゃないですか……」
「いいえ。今一度手帳をお見せしましょうか? 殴る蹴る行為は禁止としましたが、首を絞めるのは禁止にしていません。その上、それはシミュレーション時の倫理的な禁止事項です。既にゲームの本番は始まっていますので、仮に殴ったとしてもルール違反にはなりませんよ。違いますか?」
「だとしても、たかがゲームですよね?」
「私は最初から、そして今でも、たかがゲームと思っています。と言っても、命懸けのゲームですが」
「……ゲームで人を殺すなんて、どうかしていますよ」
「正確には殺したのではないです。首を絞めただけです。樫木さんが死んだのはテーブルから手を離したからだと思っています」
調子良いことを言いやがる。川瀬は怒鳴った。
「違いますよ! 明らかに二人が首を絞めたからじゃないですか!」
「それを言うならば、先生は武田さんを殺したではないですか」
川瀬の気勢はすぐに削がれた。
「あれは……事故です……」
「先生の行為は事故で、私達の行為は正当防衛が認められずに殺人ですか? それは都合が良過ぎるというものです」
「でも……」
「先生。繰り返しになりますが、とっくにサバイバルホラーゲームの本番は始まっているのです。皆さんも、そう思うでしょう?」
笠松は参加者達の顔を順に見つめていった。
山本は視線を逸らし、躊躇いながらも首を縦に動かした。
成宮は笑みを浮かべながら深く頷いた。
それらを見て川瀬は顔を引きつらせながら笑った。
「ハハハ……じゃあ、左下に生存者数でも記載されているかも知れないですねえ」
「どういう意味ですか?」
怪訝な顔で尋ねる笠松に対し、成宮がしたり顔で答えた。
「サバイバルホラー小説の定番だよ。各章の最後、左下に死亡者数や生存者数が記載されていることが多いんだ」
「なるほど。しかし、物語の登場人物である我々から見れば、左下ではなく右下ではないですか? ハハ」
「そんな冗談を言うなんて随分余裕ですね。ハハハ……」
川瀬はそう言いながらも、恐る恐る右下に視線を落とした。
当然、そこに生存者数など記されている訳はなかった。





