ACT-2
「分かんない、分かんない、無理だよ10×10なんて!」
貴子が老人に向って抗議するが、老人は、しれっと髭を弄りながら明後日の方向を見詰めた。
「そうかのう、儂は200×200位は楽に行けるんじゃが」
「そりゃ、何十年も何百年もやってりゃ暗記するのも簡単でしょうが、私の頭は5×5以上は拒否反応起こしてんのよ」
貴子に背中を向けていた老人は、ゆっくりと振り向くと、相変わらず髭を弄りながら、何事かを考える。
「そう言う先入観や心の壁を取っ払うのも修行の一部なんじゃがのう」
老人の言葉を聞き、貴子の仏頂面は更に深刻な物になる。
「だ、か、ら、やる気無いんだってば!」
「やる気が無いのを乗り越えるのも修行じゃよ。今は苦しくとも、使いこなせる様になった時の達成感は無限の喜びを感じさせてくれ、人としても一皮抜けて、誰にでも優しく出来る物じゃ」
「そんな向上心は無い!」
老人は深い溜息と共に貴子に視線を合わせる。
「まぁ、宜しい、今日はここまでにしようかのう。明日中に10×10を儂に見せておくれ」
老人はとても残念そうにその場から気配を消した。しかし再び老人の声だけが部屋に響いた。
「そうじゃ、貴子。明日の朝は気をつけるんじゃよ」
貴子は椅子から立ち上がると、あちこちをきょろきょろと部屋の中を見渡す。
「なによ、何に気を付ければいいのよ」
貴子は苛立ちながら老人にそう答えたが、老人はその後、何も語る事無く完全に気配を消した。
老人の言った、気をつけろの言葉に一抹の不安を感じながらその場に立ち尽くす貴子の背後でに老人の物では無い別の人の声がした。貴子はぎくりとしてその声の方向に視線をを向ける。
「何やってんの姉貴?」
妙に拍子抜けな声で弟がドアから顔だけ出して貴子をじっと見詰めていた。
貴子は髪を掻き上げながら、一度小さく溜息をつく。
「こら、部屋に入る時には、ちゃんとノックしなさい」
「したよ、何度もノックしたけど全然気付いてくれなかったじゃん」
貴子は小首を傾げながら小さく肩を竦めて見せる。
「誰か居たの?」
「ん?あたしだけに決まってるじゃない」
「でも、明日の朝気をつけろとか何とか聞こえたんだけど」
貴子は視線を明後日の方向に向けながら只管胡麻化そうとするが、今日の弟は、結構しぶとい。
「ネットの動画再生したら、いきなりでかい声で再生されたのが聞こえたんじゃない?」
心臓の毛をフル稼働させながら、適当にあしらおうと、必死な貴子。
「でも……」
諦めずに突っ込んで来る弟に痺れを切らせて、彼の耳を掴んで廊下に放り出す。弟の扱いは慣れた物で、気の小さい彼に対抗する術なら幾らでも有る。
そんな事より肝心なのは明日の朝だ。何が起こるのか覚悟を決めて臨む必要が有りそうだった。
今夜も雲に紛れて月は姿を隠している。重い雲の下、生温い風が部屋の中に流れ込む。重い風が鬱陶しくて、貴子は窓を閉じ、除湿機のスイッチを入れてベッドに潜り込むと、間も無く甘い眠りの中に落ちて行った。