その後
時は流れ、昼になり午後二時。
加護市は曇りであった。どんよりとした雲が昼の空を覆っている。
和太郎は自宅のリビングにいた。開け放たれた庭への戸から足だけを出し、ぼんやりと上空を見上げている。
和太郎はあの後 未散と病院で再会した。地下四十四階の診察室は消滅しており、未散・母・ドクター初浄は病院の待合室の椅子で眠っていた。猿の影響下から彼女らは脱していたようで、もう大丈夫だとテブクの保証を聞かされた和太郎はホッと胸を撫で下ろしていた。
和太郎は家族二人を自宅まで運ぶと、公園へ戻り、みちびを一時間ほど励ました。日の出の時刻にはみちびの気持ちは回復したのだが、回復したみちびに和太郎は記憶抹消という名目で襲われた。頭ばかりを鞭で狙われたり、時には全身を燃やされかけたりしたが、公園を抜け出すと、みちびは追ってこず、そのまま別れる形となった。
結局、父の職場へ戻ったのは午前六時を少し過ぎた頃だった。父の原稿を棚に戻して、布団で眠ろうとしていると、父が倉庫へ現れたため、一睡もできなかった。父と一緒に我が家に帰宅し、そのまま自室へ直行、着替えることなくベッドに倒れこんで眠ってしまう。
目が覚めたのは正午過ぎで、昼食を終えてから現在に至っているわけである。
和太郎は立ち上がり、リビングに目を向けた。リビングのソファには未散が座っていて、テレビのバラエティ番組を見ていた。未散は不機嫌そうに口を真一文字に結び、ぶすっとしている。
「未散、どうしたんだ。テレビがつまんねえのか」
和太郎が問うと、未散はうなずいた。
「つまんない。でも、テレビが原因じゃなくて、ただ単に機嫌が悪いだけ。今日は夢見が悪くてそれを思い出しちゃったから」
「夢? どんな夢だ」
「うーん、言いにくいなあ」
「俺と未散の仲だろ。気にすんなって」
「……兄貴とHなことしようとする夢」
未散はぽつりと言うと、テレビをリモコンで消す。
和太郎は頭をかき、なにも語らなかった。
「だからね、私すっごいムカムカしてんの。今 猛烈に兄貴を殴りたい気分」
「え? 俺を殴りてえの? 未散に必要とされるのは嬉しいが、兄ちゃんはサンドバッグじゃねえぞ」
「わかってるよ。そんな都合のいい兄貴なんていないよね。どこかにいないかな~、サンドバッグになってくれる兄貴」
未散は和太郎をチラチラと見やった。
和太郎は苦笑いを浮かべる。
「サンドバッグになってくれる兄貴……。対象が超限定されてるんだが」
「だよね、超限定的だよね。いないかな~、サンドバッグになってくれる実の兄貴」
「……………………」
「ごめん、冗談だよ。期待してわざとここでテレビを見てたなんてことは全くないし、残念じゃないよ。安心して」
「殴っても機嫌が良くなるとは限んねえんだよな」
「うん。良くならないかもね」
和太郎はため息を一つついた。
「仕方ねえ。兄貴の器量が試されるときが来たようだな」
和太郎は頬をパシパシと両手で叩く。それから、ソファに座る未散へと歩いていき、腰を両手で握って仁王立ちになった。
「来い。兄ちゃんの寛大さを教えてやる」
和太郎が手招くと未散はソファから立ち上がる。
ゴスッ!
前置きなしに強烈な腹パンがヒットした。未散の拳は和太郎の腹部中央にめり込むとすぐに離れる。和太郎は腹を押さえてその場にうずくまった。
「殴る前に……せめて一言欲しかった!」
下痢を我慢している人間のように腹に手を当てている和太郎。彼の肌には脂汗がにじみ出した。
「あ、結構 スッキリしたかも」
和太郎を見下ろしている未散の表情が和らいだ。
「すごい……。今までで一番気分がいい。もう一回殴ってもいい?」
未散はうずくまっている和太郎の肩に手をのせ、尋ねる。
和太郎は一度立ち上がろうとしてがくっと途中で失敗したが、二度目は成功して立ち上がった。身構えようとしたところを
ゴスッ!
「うごう!」
和太郎はまたうずくまった。今度はたまりかねたのか、体が床に転がり、ごろごろと身もだえだす。テーブルの脚にぶつかった。
「わあ、すごい! すっごい! 超すっきりした! ありがと兄貴!」
未散の顔が歓喜に染まる。一方、床で縮こまっている和太郎の顔は赤く、苦渋の色が充ち満ちている。
「や、役に立てて……なによりだ」
ごほごほと咳き込むと和太郎はしゃべらなくなった。
未散はテーブルの上に載っている青い袋をつかむ。
「役に立ってくれたついでにさ、可愛い妹のパシリになってくれたりしないかな。今日、レンタルの返却日なんだ」
細やかに震えている和太郎の腕が上がり、親指だけが立った。
「行ってくれるの? わあ、ありがとう兄貴。すごいすごい! ついでにさ、帰りにイチゴ味のアイス買ってきてよ! いつも私が食べるやつ」
親指は立ったまま。
「兄貴 尊敬しちゃう! それっておごりだったりしないかな?」
親指は下りない。
「無理しなくていいんだよ。嫌なら断ってね」
手が開いて横に振られた。
和太郎は上体を起こした。呼吸を整え、未散を見る。
未散はソファに腰かけていた。膝に肘を乗せてほおづえを作っている。和太郎と目が合うと、未散はニカッと笑みを浮かべた。
「未散は今日も可愛いな。いい顔だ。やっぱ笑顔が一番だ」
和太郎の顔にも笑みが生まれる。
「え?」
未散の目が大きく開かれた。そして未散は目線をそらすと唇を尖らせ、赤らんだ頬を人差し指でぽりぽりとかき始める。
「兄貴……」
「うん?」
「今のは、そのさ、ノリで言っちゃったけど、本当に断っていいんだよ。なんか……」
「お前は兄貴が嫌々やってると思うか?」
未散の動きが止まった。口を半開きにしてぽかんと和太郎を見つめている。
「ううん」
未散は目を閉じると首を横に振った。前のめりだった体勢を起こし、腰を握り込んで胸を張る。
「可愛い妹のためにパシられてこい兄貴!」
未散が屈託のない笑みで和太郎に言った。
和太郎は手を前へ突き出し、親指を立てて「おう」とそれに答えた。
和太郎はレンタルビデオ店で返却物を返すと、自動ドアを抜けて大通りへ出た。出ると自宅の方角へ歩いていく。時折、人を追い越したり人に追い抜かれたりしながら歩道を進んでいった。
やがて、父の職場である雑居ビルの前を通りかかる。
和太郎はビルを見上げた。四階の窓はブラインドカーテンが下りていて曇りだというのに遮蔽されている。
和太郎はすたすたとビルの入口を通り過ぎた。そのまま大通りを歩き、小道にそれた。
「親父さんの仕事場の前は通らないんじゃなかたのカ」
テブクが小声で尋ねた。
「気が変わった」
「どうしてヨ」
「避けるとなんか父さんに負けてる気がしてきた」
「ふーん。負ける気がする……ねェ」
和太郎の眉根が寄る。
「なんだよ。なにか言いたそうだな」
「前を通った理由は本当にそれだけかと思てネ」
「なにが言いたい」
「猿の一件で和太郎の親父さんへの反発心が和らいだんじゃないかと思たのヨ。猿はロビンの一部みたいなものだたよネ。そんな猿が土下座したり、歓喜の涙を流しながら親父さんの原稿を読んでたから、ちょと思うところがあたんじゃと考えたわけアル」
「……違えよ。父さんに負けたくねえからだよ。勝手に想像すんな。見当違いもいいとこだ」
和太郎は唇を尖らせた。
「俺個人は父さんの仕事を認めねえ。これからはあの道は避けないって決めたんだ」
「俺個人は……カ」
テブクはくつくつと笑う。
「お前、ムカつくな」
「わかりきてること言うもんじゃないヨ」
「まあ、そうだけどよ。それでもやっぱムカつく」
和太郎は一軒の古びた駄菓子屋に足を運び入れた。そこで未散に頼まれたイチゴ味のアイスを買い、ポリ袋を提げながら外へ出る。そのまま自宅へ直行し、未散にアイスを手渡した。
自室へ戻り、ベッドに寝転ぶと、和太郎は漫画を読み始める。その漫画の表紙にはペンギンを模したキャラクターが描かれていた。和太郎は漫画を見上げながら呟く。
「やっぱ、漫画はエロじゃないのに限る。ペン太は和めるなあ」
「和太郎」
テブクの声がした。
「なんだよ」
「混乱獣が現れたネ」
和太郎は瞬きを繰り返した。漫画をベッドに下ろし、小刻みに震え始める。
「またかよ! 出過ぎだろ!」
「あいつらはこちらの都合なんかお構いなしヨ。さあ、修業アル。失敗しかけたけど、弟子になる件は約束は約束。ちゃんと付き合てもらうネ」
「くそ! 面倒くせえ!」
和太郎の上体がベッドから起きた。ベッドより立ち上がったときに和太郎の目が学習机の一点に留まる。そこには写真立てが一つ飾られていた。
和太郎は歩み寄ると、立てかけられている写真立てを手に取る。しばらくその写真立てを和太郎は黙って眺めていた。
中の写真には和太郎と未散が二人で写っている。清心中学校と表記がある門の前で二人は横並びに立っていた。和太郎は未散の肩を握り 笑顔で自らの元へと引き寄せている。しかし、未散は近すぎる和太郎の顔を手で引き離そうとしている、そんな一枚だった。
「ま、助けてもらえたしな」
ぽつりと呟く。
「和太郎!」
「急かすな! わかったっての!」
写真立てが机上に置かれた。和太郎はぶつぶつと不平をこぼしながら身支度を進め、着替え終わると扉に歩いていく。取っ手を握り 扉を開いた。扉が閉まり、足音が遠退いていく。
部屋には誰もいなくなった。ベッド・机・棚・サッカーボール・全ては静止して動かない。そんななか写真立ても机上に立てかけられたまま微動だにせず、写真に写っている兄妹もずっと笑顔を崩さなかった。
終わり
未散と和太郎の関係は変わらないということを伝える話。父の職場を避けないで通るようになるという、父と向き合う精神的な前進も表わしたつもりです。
テブクの説か和太郎の説かはどちらでも受け取れるようにしておきました。
おそらくどちらもだと思うので、こういう形にしてます。
初めて長編を書き上げられて感激です。長編を書けなくて書けなくて苦しかった。
長編を一作完成させるのに四年もの歳月がかかった。この話自体は四ヶ月ほどで書き上げたけど、他の物語で途中で挫折しまくって一作を作り上げる難しさに絶望してました。
完成度は低いかもしれないけど、苦しかったから可愛いと思える物語です。
完成したのはオーバーラップ文庫の締切り二十分前だったんだよな。あらすじを書くのが大変で間に合わねえかもと焦りまくってたのが昨日のことのように思い浮かびます。
小説家になる夢はしばらく置いておいて、今後は趣味でちょこちょこ話を作っていく予定です。
プロは出版社の意見をかなりの割合で受け入れて物語を書かなきゃならないから好きには書けないらしいですね。その点、趣味で書けば自分の好きなように物語を書けるので好きなものを詰め込んだ話をたくさん書き上げていきたいな。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
この世界観は結構気に入っているので、同じ土台でまた書けたら書いてみようと思ってます。
そのときはよろしくお願いします。




