単衣病院にて
「ここ本当に単衣病院だよな」
和太郎は総合案内板を何度も見返していた。
自動ドアを抜けて、院内へ足を運び入れたのだが、屋内には人が一人もいなかったのである。受付はもちろん 売店にも人影はない。
「和太郎、病院全体に嫌な気が充満してるヨ。気をつけなきゃダメネ」
テブクの声が静寂な冷たさに包まれた院内に響いた。
やがて、廊下から一人の看護師が歩いてきた。白い制服を着た若い女性だ。
和太郎は彼女を見て、目を細める。看護師の目は燃えるような紅だった。
「滝和太郎様ですね。ドクター初浄がお待ちです。こちらへ」
案内されるがまま背中を追う形で和太郎は看護師に続いた。廊下を進み、エレベーターに乗り込んだ。看護師は無表情を崩さない。
エレベーターの扉が閉まっていく。階数選択のボタンは無点灯、選ばれていない。
「階数を押さないのか」
和太郎が鋭い目つきのまま言った。看護師は答えなかった。
階数ボタンは押されることなくエレベーターが動きだした。階数表示は地下を示しながらどんどん数を増やしていく。
「地下四十階を超えたぞ。有り得ねえ」
四十四の数で停止した。扉が横に開き、銀色の壁が続く一本道の廊下が現れた。
「こちらへ」
看護師は振り向くことなくまた歩み始めた。
エレベーターを降りた先にある銀色の通路は、脇にそれる通路は一つもなく、また別の部屋に入るドアもない。照明すらないが光度は保たれている。
緩やかに曲がり続ける廊下を進むと、突き当たりに桃色のドアが見えてきた。ドアには『診察室』と書かれたルームプレートが貼りついている。
コンコン。看護師がドアをノックした。
「入りたまえ」
男の声がした。
「失礼します」
看護師は取っ手を横に引く。ドアは横に流れた。
「よく来たね。滝和太郎くん」
白衣姿の中年男性がローラーつきの椅子に腰かけていた。髪は薄く、小太りである。
診察室には机・パソコン・ディスプレイ・ベッドがあった。
「和太くん」
その小太り男性の正面で母が椅子に座っていた。顔の肌に涙の湿りが残っている。二人とも紅い目がさんさんと輝いていた。
「かけたまえ」
小太り男性が掌を床へ向けると、どこからともなく椅子が現れた。
和太郎は看護師から体を遠ざけつつ入室する。入室後、扉が独りでに閉まった。
「妹さんの病状を説明しよう」
「未散は病気なのか」
「そうだ」
和太郎が座るのを待たずに、小太りの男性は語り始めた。
「妹さんは奇病に冒されている。兄結癒病という」
「あにけつゆびょう?」
和太郎はドアの前から動かず、立ち尽くしながら言った。
「そうだ。呼吸器系疾患で、発作により呼吸困難に陥ってしまう危険な病気だ。妹さんが世界で初めて発症した。私も兄結癒病は初めて見たよ」
和太郎は頬をかいた。
「前例がなくて、よくその病気だとわかるな」
和太郎が言うと、母は神に祈るようなポーズでがっしりと手を組み合わせた。
「和太くん、ドクター初浄は名医なのよ。なんでもわかってしまうの」
和太郎の目元がひくついた。ドクター初浄が頷く。頭が光った。
「兄結癒病の治療法は確立されている。そこは安心したまえ」
「前例がなくて治療法は確立……」
「和太くん、ドクター初浄は名医なのよ。なんでもわかってしまうの」
和太郎は目を閉じた。体がぷるぷると震えだす。
「特効薬が今し方完成した。もっと安心したまえ」
「前例がなくて特効薬が開発済み……」
「和太くん、ドクター初浄は――」
「薬の開発は名医かどうかは関係ないからな!」
和太郎は青筋を立てて叫んだ。
「細けえことはどうでもいい! 猿を出せ! ぶっつぶす!」
和太郎は拳を握りしめて吠えた。
「和太くん、あのお方になんてことを言うの。今 未散ちゃんを着替えさせてくれてるのよ!」
「着替え……だと……」
和太郎の体が硬直した。顔色が青ざめていく。
「まさか、リリィさんと同じ状況に……。未散!」
和太郎はドクター初浄に歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。
「未散はどこだ! どこにいる!」
「名医の私はなんでも知っている。ここだ」
ドクター初浄が指を差す。指された場所はパソコンのディスプレイだった。
「妹さんは治療しやすいように専用のパジャマに着替え中だ。いや、着終えているようだな」
ディスプレイには未散が映しだされていた。彼女は黒いパジャマを着用していた。赤いハート模様がパジャマを飾っている。胸元のボタンは開いており、襟首の肌がむきだしになっていた。ズボンははいておらず、上着の黒との対比により太ももの肌色が際立っている。
彼女は息を荒げながら円形のツインベッドに横たわっていた。
未散がいるその場所は桃色のレースカーテンが至るところから吊り下がっていて部屋はピンクに染め上がっている。猿は未散の傍で、握った羽毛を未散の肌に走らせている。
「未散! くそ! まるでラブホじゃねえか! ここ病院だろ! それにパソコン画面に映しだされてるだけで、場所を教えてねえ! いい加減な返答すんな、藪医者が」
胸ぐらへの締めつけが強まった。
「このディスプレイの中に彼女はいるのだ」
「嘘つくな! 入れるかっつーの!」
「入室は可能だ。君はその資格を得ていないだけだ。これを飲みたまえ」
ドクター初浄は掌を天井へかざした。桃色のカプセルが出現し、ドクター初浄の掌へ下りてくる。
「このカプセルを飲めば画面内に入れる。このカプセルは鍵でもあるのだ」
「鍵でもある? 他に役目があるのか」
「ある。妹さんの病気は残念ながら完治することはない。だが、発作を起こさせない予防的治療・発作が起こった際に改善させる対処的治療がある。その治療にこのカプセルは必要になる」
ドクター初浄はカプセルを見つめた。
「君の精子を特効薬に変える作用がこの薬にはある。そして、治療として君はこの薬を飲んで妹さんとセックスしなければならない。君が妹さんの子宮に特効薬を注げば発作は起こらず、起こっても収まる。兄妹でのセックス、これが治療法なのだ」
「な、な、な……」
和太郎は胸ぐらのつかみ上げを解き、一歩二歩と後ずさる。
「ふざけんな! 近親相姦じゃねえか! 子供が出来たらどうすんだ!」
「確実に出来るだろうが心配は要らない。この薬を飲んで生まれる子供は奇形児や虚弱体質にはならない」
「どうして言い切れる」
「名医だからだ!」
「!」
和太郎は言葉を失っていた。口をぱくつかせている。ベッドへ腰を落とす。
ドクター初浄はディスプレイに目を移した。
「妹さんはこのままだと三日で死亡するだろう」
「あのパソコン画面をぶっ壊せば……」
「そんなことをすればこのディスプレイが妹さんの棺桶になるが、君はそれでいいのかね?」
「和太くん、仕方がないことなのよ。さあ、薬を飲んで。ママは二人が愛しあう姿を見たいわ。閉じられた空間で兄妹二人で愛を確かめあうの。誰にも後ろ指を指されることなく、正当な理由を持ってつながりあえるのよ」
「猿がせめてパソコン外に出てれば……!」
和太郎は唇を噛みしめた。
ディスプレイ内の未散は黒いパジャマ姿で身を縮めていた。肌には汗がにじみ、喉に手を被せている。
「和太郎、どうするネ。あのカプセルは嫌な気の塊アル。おそらく飲んだ人間の精神に干渉するタイプヨ。操られる可能性が濃厚アル。飲めば、ワタシも和太郎を守り切れるかわからなイ」
和太郎はベッドの上で頭を垂れ、頭を抱えた。
「飲むしかねえだろ。猿が中にいる以上 選択肢はねえ。出てくるのを待ち続けるのは時間制限があるから危険すぎるし、猿を出すための策だってねえよ」
「和太くん、ためらってはダメ。未散を愛してるんでしょ? これは素晴らしいことなのよ」
母が和太郎へ歩み寄り、身をかがめ、和太郎の両手を握った。
和太郎の顔が上がる。
「母さん、本気で言ってんのか」
「そうよ。二人の子どもが結ばれる。これ以上の幸せはないわ」
「やめてくれ!」
和太郎は母の手を振りほどいた。
「やめてくれやめてくれやめてくれ! 聞きたくねえ! 母さんにこんなことを言わせやがって、聞きたくねえ聞きたくねえ! クソ猿、ぜってえ許せねえ。だけど薬を飲む以外に未散を救う方法がわかんねえ」
和太郎は髪をかき乱す。だが、止まった。全身から動きが消えた。
「いや、待てよ。俺が飲んで操られても、テブクがいるじゃねえか。テブクが俺から体の主導権を奪って中で救えば問題ねえ」
「そうだ、そうだ、簡単な話じゃねえか」と声を出し、和太郎は笑みを浮かべた。和太郎はテブクに同意を求める。
「そう簡単にいくかネ」
「どういうことだ」
和太郎は眉根を寄せた。
「リリィとの戦いでワタシと和太郎の精神がそれぞれ独立していることは猿にバレてル。すんなりその方法が通用するだろうカ」
「あのカプセルには対策が施されてるかもしれねえ……ってことか」
「そう考えるのが妥当ネ」
テブクが言い終わると、和太郎は顎に手を当てた。
「くそ、聖種を待つか。いや、待っても猿が画面の中にいたら戦えるかどうか」
和太郎はぶつぶつと呟き始めた。
「聖種はあてにしたらダメヨ。未散を救いたいならネ」
和太郎の目が丸まる。
「どうしてだよ」
「あの女はディスプレイを壊そうとするかもヨ」
「え? そんな冷酷な感じには見えなかったが」
「あの女は神ヤッタヌキの犬みたいなもノ。拒否はするだろうけど、不服な命令にも最終的には逆らえなイ。ヤッタヌキは下手するとディスプレイを壊せと命ずル。それが現状で猿を倒せそうな方法の一つだからネ。だから、聖種がここへ踏みこんできても和太郎にとては敵が増えるだけになる危険があル。あのハゲ医者が三日とか期限を言てたけど、期限はもと短くて、聖種が現れるまでとワタシは考えてるネ」
「まさか、そんな……」
「可能性の話ヨ。信じるかどうかは和太郎次第ネ」
和太郎は再び頭をつかみ俯きになる。
「テブク、俺の意識を奪ってお前が飲んだらどうなる? そうすりゃ俺よりも気に対する耐性が上がったりしてどうにかなるんじゃないか」
和太郎は床を見下ろしながら囁くように言った。テブクはなにも答えなかった。
「どうしたんだよ。いい方法だろ!」
「和太郎」
「なんだ」
「その方法は確かに精神操作を逃れる可能性が高まるアル。でも」
「でもなんだよ」
「確実ではなイ。万一のこともあるヨ。そのときワタシは未散を襲うことになル。そんな危険を理解しての提案かネ」
「なっ」
和太郎は声を詰まらせた。
「まさか自信がねえ……のか」
和太郎の声は小さかった。
テブクはしゃべらず、ため息のような音が聞こえた。
「必要だから、気について少しだけ説明するアル」
テブクは言った。
「気には発動タイミングにおいて三つの種類があるネ。その中の一つに条件が適したときに発動する条件発動型があル。あのカプセルは条件発動型の気がこもてるとみて間違いなイ」
「条件発動型? なんだよそれ」
「条件がそろえば発動する装置みたいなものヨ。例えば、木につるしたロープで足が吊り上げられる罠があるとすル。地面に仕かけたロープの輪に足が収まれば輪が足を捕らえて木に逆さ吊り、こういう罠ネ。この場合、発動条件は足がロープの輪に収まること、効果は体を木に逆さ吊りにするこト。この例は気が関係ないけど、仕組は同ジ。発動条件が揃たときに起動して効果が生じる種類を条件発動型というヨ」
テブクは説明を続けた。
「おそらく今回は、自ら飲むという行為が条件になて発動するタイプネ。発動する気の効果は、飲んだ者がディスプレイに入れるようになる・発作を鎮める能力を服用者に与える・飲んだ者の精神を猿は操れる・といたところかしラ。最後のは予想だけどネ。条件発動型は発動するのに手間がかかる分だけ強力、その上 今回は体内にカプセルを取りこむアル。危険きわまりなイ。残念ながら成功の約束はできないヨ」
テブクの声は沈んでいた。
和太郎は目を閉じる。それから顔を上げ、息を吐いた。
「テブク、俺はどうすりゃいい。わからねえ。お前の最善策を教えてくれ」
「和太郎を無視するならば、ディスプレイ破壊策。和太郎に配慮するなら、ワタシが飲む、といたところかしラ。あの薬はワタシの意識を遮断する恐れもあル。それならばその場合に備えて始めからワタシが表にいた方が対処しやすイ。そう考えての結論ヨ」
「俺に配慮するなら……、か」
和太郎はその言葉を口ずさむと、フッと笑った。それから、一息吐き、ベッドに手をついて体を後ろへ傾かせた。照明がない天井を見上げる。
「俺は自分のことしか考えてねえな。よく考えてみりゃ、お前だって危険なんだよな。修業は生還するから意味がある。負けて再起がなけりゃ意味はねえ。俺はお前に毒薬を飲めって言ってたのか。最低だな」
和太郎は首を横に振った。
「気にすることはないヨ。もと悪質なやつはいくらでもいル」
「気休めになってねえな」
「慰めてほしかたのカ」
「いや、お前はそんなガラじゃねえ。短い間だけどよくわかったわ」
「ワタシも和太郎が妹に甘々だてことだけは短い間でよーくわかたネ」
「フッ、フフ……」
「ククク」
二人は笑った。その笑いは徐々に大きくなっていった。部屋に大笑いが広がり、やがて終息していく。
「なんか、吹っ切れた。俺のために毒を飲んでくれテブク。俺は勝手な男だ。頼む」
「見返りとして弟子になるカ?」
「おう! 未散を救ってくれるなら弟子にでもなんでもなってやる!」
「任されタ!」
和太郎はディスプレイを見やった。表情が引き締まる。
「未散、本当は俺が自分の手で助けたい。でも、俺じゃおそらく無理だ。テブクがいなきゃ兄ちゃんは無力な男でしかないんだ。ごめんな」
和太郎は頭を垂れた。
「テブク、あとは頼む」
「全力を尽くすヨ」
和太郎の体が横に傾き、くたりとベッドに倒れた。目が閉じていたが開眼し、すぐに起き上がる。
「さて、冗談抜きでワタシも危ない橋を渡るアル。舐めたらまずイ」
テブクはベッドから立ち、首をならした。
「準備はできたかね」
ドクター初浄が椅子から腰を上げ、カプセルを差し出す。
「まあ、待つヨ。気を高めるアル。闘気装!」
テブクは闘気装を身にまとい、背伸びや屈伸を始める。それから直立し、胸の前で合掌した。まぶたを閉じる。息を大きく吸い込み、緩やかに吐き出した。
「時を経て、過去の痛みが基となル」
言葉が終わると、体が金色の光を放ち出す。光は十秒ほど膜のように体表を覆い、やがて静かに消えていった。
テブクは目を開ける。
ドクター初浄が歩み寄ってきた。
「水がなければ飲みにくかろう。用意しよう」
水が入っているコップが空から下りてくる。
「なに入てるかわかたものじゃない。要らないネ」
テブクは宙に浮かぶコップに触れることなく、差し出されている桃色のカプセルを指でつまんだ。
カプセルを掌で転がし、それから口に含んだ。ゴクリと飲み下す。
「これハ……」
飲んですぐに額から汗がにじみ始めた。歯を食いしばり、その場にしゃがみこんだ。額を床にこすりつけ、腹部を両手で押さえてうめき声を上げ始める。
ドクター初浄と母はそんなテブクを上から見下ろしていた。
やがて、テブクの動きが止まった。おなかに手を当て、額を床に押しつけたままの状態で静止している。
「終わったわね」
母はドクター初浄から手渡された桃色のカプセルを飲み、テブクに歩み寄った。屈むとテブクの背中に手を添える。
テブクの顔が上がり、母は目を覗きこんだ。
「和太くんでも、どちらでもないわね。だけど、あなたは和太くんよ。では、行きましょうか」
母は和太郎の手を引いてディスプレイの前へと連れ歩いた。
「未散ちゃんが待ってるわ」
母がディスプレイに手を伸ばす。ディスプレイに手が触れると画面が揺らいだ。水面に雫が落ちたときのような波紋が円状に広がっている。
ディスプレイの光を浴びながら、母の手はその画面に沈み込んでいった。腕が中程まで埋まったとき、母と和太郎の二人は部屋から消えた。
部屋にはドクター初浄だけが残り、彼は光を放つディスプレイを黙って見つめている。
そのような中、部屋にはかすかな振動と空間のひずみが生まれつつあった。
未散が被害に遭っていると読者に知らせる話。
名医だからだ! この言葉に和太郎が言葉を失うところは気に入ってます。




