第2話 主人公爆ぜる
「中世イタリアの数学者、ピサのレオナルドが書いた算盤の書の影響は計り知れないものがある。興味があれば後で図書室で調べておけ。今はそれをガッツリネットリ説明する時間がないからな。そんなことより、授業の本筋はこれだ」
黒板に向かい、適切な大きさの声を部屋に響かせる教師の男がいる。つい三日前、うまいBoyの輸送トラックを運転していたドライバーと同一人物だ。
彼の本職は蒼前学園の数学教師だ。この前の輸送は株式会社ヤマカンズの菓子を守るために、場慣れした彼がドライバーを買って出たに過ぎない。
「七人の婦人が七匹のラバを連れ、ラバの背中には七つの袋があり、袋には各七つのパンが入り、それを切るためのナイフはパン一つにつき七つ用意され、そのナイフには予備を含めて七つの鞘がある。さて、ここに数え上げた数の総和はいくつか、という問題が算盤の書の中にあることで有名だ。言うまでもないが、これは今までお前たちが学んできた数列に当てはめることができる」
教師が黒板に書いたのは数列だ。七のn乗の一般項を書き終え、最後のカギカッコを描き切ったままの姿勢でふと教師は止まった。
彼の額には青筋が浮き上がっており、チョークは過剰に黒板に押し付けられたために圧で砕け散ってしまった。
「……お前ら。早弁をするのはいい。食事しないと頭は働かないからな。百歩譲ってそれはよしとしよう。だがな」
生徒に背を向けている彼は、割れて用済みになったチョークを床に叩き付ける。苛立ち混じりの行動を終えた後、教師は後ろを振り向いて生徒を、いや教室の中心点あたりを指さしながら怒鳴った。
「何でよりにもよって全員揃ってうまいBoy食ってんだよーーー!!」
軽いスナック菓子を噛む音が延々と流れ続けている教室は、怒鳴られた後もその音を止ませることはない。教室中には目が痛くなるほどの油の匂いが充満しており、教師の神経を主に逆撫でしているのはそれだ。
つと彼の怒号に反応したのはクラス委員の眼鏡の女子だ。シャープなフォルムの眼鏡をくいと上げながら冷静に言う。
「先生。誤解です。全員揃ってではなく、うまいBoyを買えずに泣きを見た生徒がクラスメート総勢三十三人中七人います」
「どうでもいいわ!!」
「かく言う私もその七人の敗者が一人。三千世界のクラスメートを殺し、うまいBoyを今すぐ強奪したい」
「恐ろしいわ!! ……え? 今の何かの冗談だよな。絶対にやめろよ。お前のゲニウスだとシャレにならんから」
教師に宥められる少女の眼鏡の奥には、涙のせいで濁った瞳がある。今にも自分よりも幸せな人間を皆殺しにしかねないような、とても危うい瞳だった。
「琴石先輩がお菓子泥棒から守ってくれたこのうまいBoyはっ! 私の何を犠牲にしようとも絶対に食べたかったんですっ! このお菓子は、この国に秩序が戻ってきた証だから!!」
「……そんな重く考えるなよ」
「三年前に死んだお父さん、お母さん、妹の墓前に供えたかったのに!」
「そんな重く考えるなよ! わかった! なるたけヤマカンズに掛け合ってみるから!」
「わーい」
唐突に軽い調子で喜ぶクラス委員、その周囲のクラスメートはひそひそ話をし始めた。
「……あれ。蒼井ちゃんの両親が死んだことは知ってたけど、妹っていたっけ?」
「いるよ。死んでないけど」
「勝手に死んだことにしてたんだ……」
「授業中に私語は厳禁ですよ」
一体どの口が言う、と陰口を叩いていた二人の少女は反論できない。彼女の暴政じみたクラスの纏め方をよく知っている少女たちは、教科書に目を落として誤魔化した。
「……ん」
教師は教室を見まわした。彼が目にしているのは、クラス委員と同じくうまいBoyを手にすることができずに不貞腐れている六人のクラスメートでも、未だに食事を中止する気配のない不良たちでもない。
「北村はどこに行った?」
「え」
クラス委員、蒼井有喜は後ろを見る。
先ほども蒼井が言った通り、このクラスは三十三人で構成されている。だが人数が一人欠けている。その一人は、この教室唯一のクラス委員長、北村栄利だ。
「おかしいな。アイツ、授業前にはいたはずだぞ」
心当たりがまったくない、という顔で教師は頭を掻いた。蒼井も同様に怪訝な顔をしている。
「授業サボるとかそういうキャラでもねーしなー。蒼井。何か知らんか?」
「心当たりがありませんねぇ」
「あの」
と、手を挙げたのは北村の隣の席に座っていた男子だった。
「北村くんは教室にうまいBoyを手に入れることができていない人がいることに気付いた途端、そっと窓から飛び降りました。多分コンビニに買いにいったんだと思います」
「優しいなー。だが優先順位を破滅的に間違えてんぞボケ」
また教師の頭に青筋が浮かぶ。この教室の鞭である蒼井が厳しい分、飴を担当する北村はクラスメートに対してとことん甘い。上手くバランスは取れているが、授業にその姿勢を今一つ活かせないのが悩みの種だ。
「アイツの相棒がいれば、まあそこまで遅くはならんだろうがな……お前らいい加減にしねーと、俺は何もしなくなるぞ」
クラスメート総勢の頭に疑問符が浮かぶ。教師は、その意図をもっと簡潔に伝えた。
「……俺が何もしなくなったら、暴走した蒼井を誰が止めるんだろうな」
蒼前学園高等部、一年C組はこの日、どのクラスよりも本腰を入れて数学の授業に臨んだ。
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元国立蒼前学園。杉並区に存在する中高一貫の学校で、ゲニウス出現の影響により完全崩壊した政府の後を民間が継いだ形で存続させられている。
学園の生徒、および教師はほぼ全員がゲニウスリンカーで、周囲の街の修繕、食糧の輸送、ゲニウス犯罪の取り締まり等を一手に引き受けている。
そこは最早、組織というよりは一種の社会と化しており、ゲニウスさえ持っていれば就職も入学も基本自由という見境も節操もない学園だ。最低限、まともな学校としての役割も果たすために授業のカリキュラムはしっかり組まれており、現状あくまでもゲニウスリンカーの社会としての側面はオマケとして扱われている。
こういう民間のゲニウスリンカーによる組織は区や市ごとに最低一つはあり、北村栄利も蒼前学園に所属するリンカーの一人だ。彼は今、高井戸駅の周りを単独で歩いている。
「……はぁ」
うまいBoyを買えなかったクラスメートのため、外に出たはいいが、どのコンビニに行こうと悉く売り切れていた。授業をボイコットしてまで外に出た甲斐が一抹もないのだから溜息の一つも吐きたくなる。
「魚肉ソーセージを安く買えたことだけが救いかなぁ」
彼は動物型、それも肉食の猛獣をモチーフにしたゲニウスを持っているので、安く肉が買えたことを嬉しく思っていた。この事実だけで、もう少し辺りの売店を調べてみようと思える程に。
――次は東に行ってみよう。
足を東へと向け、歩き出そうとしたそのときだった。
「――ぎゃんっ!?」
正面からやってきたバイクに体を掠め、その勢いで北村の体が何回転もスピンした。北村は車道を歩いていたわけではなく、歩道を歩いていたのにだ。
「痛ったァ……。何だよいきなり――」
バイクの走り去って行った方向に目を向けた瞬間だった。ついさっきまで元気に走っていたはずのバイクは――
「――!?」
彼の眼前五メートルで、派手に爆発して吹っ飛んでいた。爆ぜたバイクは乗り手をも燃やしながら慣性に従いしばらく走っていたが、乗り手がバランスを取れなくなったためか乱暴な音を立てて派手に倒れる。おそらくあの分だと乗り手は死んでいるか、運がよくても大怪我を負っているだろう。
(おいおい!?)
人も疎らにいた高井戸駅周辺は騒然となる。日本人の半分以上がリンカーと言えど、そのほとんどは戦闘向けとはとても言えないようなものばかりだ。護身すらできるかどうか怪しい。
「蒼前学園の戦闘班です! 皆さんはここを俺に任せてどこかに隠れていてください! あと余裕があったら蒼前学園に連絡を!!」
北村は火達磨になっているバイクと乗り手の元へと急ぐ。その途中、いくつかのオレンジ色の光のラインが高熱を放ちながら、北村より速くバイクへ向かい、放たれた矢のように鋭くバイクに激突した。
(火鼠花火か! あのライダー、巣を引っ掻き回しやがったな!?)
AN-533。通称火鼠花火は野生化した動物型のゲニウスの一種だ。生態系は毛の色が赤なこと以外に変わりは一切ない。普通のネズミと交配して増殖したりもする。だが、唯一普通ではない点を挙げるとするなら、昼の内にうっかり踏んづけて仲間を殺してしまうと集団で報復をしてくるというところだ。
火鼠花火は発火すると、あのように充分に加速したバイクをも凌ぐスピードで飛行する。人体どころか鉄でも切断できるような鋭さを伴った炎の矢で滅多打ちにされて、生きていられる者はまずいない。
野生の火鼠花火は人とリンクした個体より危険性は少ないのだが、野生の唯一の強みは増殖できることだ。数で圧倒されれば戦闘向きのゲニウスリンカーにとっても厄介な相手となる。
(これ助けても生きてないだろうなぁ……手遅れ臭がプンプンするもの)
放っておけば報復を終えた彼らは勝手に巣に戻っていく。そう思いつつも、ゲニウス関連の事件の解決は蒼前学園の義務だ。生きている確率と助かる確率がどちらも一パーセント以上残っている以上は看過できない。
「忌華! おいで!」
チラリ、と一瞬だけ北村の腕時計が光る。その光が『何もないところ』に獣の影を作り、その影に遅れてくるように実体が現れた。全長二mもあろうかという程の巨大な白い体躯を持つ、蒼い瞳の獣だ。全体的に狼のようなフォルムだが、野生さよりも落ち着いた、理性のようなものを感じさせる。
「能力はなしで行こう! うっかり殺したらこっちまで報復受けちゃうし!」
「わんっ」
「じゃあ行こう!」
燃え上がるバイクと鼠の群れとの距離、わずか一m。その位置で一人と一匹は立ち止まり、敵を鋭い目で見据える。火鼠花火はホバリングし、一斉に北村たちの方を睥睨した。
「野生の火鼠花火の弱点は知ってる。お前ら……これが欲しいんだろ!?」
「ヂュッ!?」
北村が突き出したのは、ついさっきコンビニで買った大量の魚肉ソーセージが入ったレジ袋だ。思い通り、鼠たちの視線は一気に熱っぽく柔らかいものへと変化する。
北村は口角を釣り上げながら語った。
「お前らの活動限界は知ってる。発火してない状態だと二十四時間何も食わずに生きていけるが、発火状態だとその何百倍もの速度でエネルギーを消費するんだったよなぁ!! しかもお前らは焼いた肉は熱すぎて食えない猫舌体質! 今すぐにでも食えるこの魚肉ソーセージは垂涎モンの品のはずだ!」
「……ゴクリ!」
「ああ。くれてやるよ。ただし!!」
レジ袋をポイと隣にいる忌華へと放り、彼女はそれを口でくわえた。
「俺の相棒に追い付けたらな。じゃ、後は誘導よろしく」
「わふっ」
「ヂューーーーーー!!」
忌華はレジ袋の持ち手が引き千切れるのではと心配になるほどの初速を叩き出し、火鼠花火を伴って安全な場所へとおびき寄せて行く。
心配はしていない。火鼠花火は本来、人に牙を剥いたりしない性格だ。同じように自分より遥かに大きい狼の忌華に襲い掛かるはずもない。
あの魚肉ソーセージを鼠たちが食べ終わるころには、もう復讐相手の顔すらうろ覚えだろう。
「……よし。調伏完了っと。魚肉ソーセージのお蔭で速く終わったな」
あれ経費として落ちるかなー、と忌華が走って行った方向をゆっくり見ていた北村は、小さい呻き声を聞いた気がしてふと下に目をやった。
「あ。生きてた?」
運がいいと感心しながら、思わずつぶやいてしまう。
火鼠花火の怒りを買った者は、ほぼ例外なく熱の矢で焼かれ、突かれ、あっという間に死んでしまうのが普通なのだ。
しかしすぐに、北村はこれが偶然や運勢によるものではなく、必然であったことを悟った。
「……ああ。なるほど。アンタ、ゲニウスだったのか」
「……」
被害者の女性の服は、炎でズタズタになってしまっていた。だが不思議と彼女の肌は焦げていない。黒ずんでいるのは服の焦げが肌に付いているだけで、肌自体が傷ついているわけではないようだ。
はだけた右の鎖骨の部分に、HN-005と非常に薄い白いフォントで書かれているのが見える。それをしげしげと見る北村の視線を恥ずかしがり、彼女は顔を赤くして目を伏せていた。
「人間型、005番ね……えーと、ここら辺では見ないな。どこから来たの?」
流石にこのままだと可哀想だったので、北村は蒼前学園の指定ブレザーを体にかけてやりながら訊く。
彼女はしばらく座り込んだ姿勢で黙っていたが、ぽつりと絞り出すような声で呟いた。
「……ありがとう」
「いいよ。こんな時代だから、困ったときはお互い様さ。ここじゃ何だっていうんなら、蒼前学園に連れていってあげようか?」
「……」
ニコニコ笑いながら手を差し伸べる北村の顔を、不思議そうに見つめる彼女は、おずおずと手を取った。
「とんだ目に合ったからこんなこと言うのも変だけどさ。ようこそ、杉並区へ」
ゲニウスナンバー:HN-005
能力名:地平線へ連れてって(ホライズンラバー)
フォルム:黒髪の女性。能力発動時は翼のない天使
内容:乗り物の部品には何かしら『円』を描くものがあります。タイヤ、ギア、スクリュー、etc……。彼女は天使ですが、自分自身の光輪を持ちません。それら『円を描く機械の部品』を光輪の代用として使います。その間、部品を持ってきた機械の守護天使となった彼女は『どんな無茶苦茶な運転』でもこなせるようになるでしょう。
乗り物ではない機械の操作も一応こなせますが――