ぷちぷち、接触。
「私」側の話。
どれが正解なんてわからなかった。
衝撃的な出来事があったせいでその後の一日は授業に身が入らなかった。
自意識過剰だ、気のせいだというにはあまりに長く目が合いすぎていた。
どうしよう。変な子だと思われていたらどうしよう。
いやもう手遅れのようなそんな気も…と延々と考えて深みに落ちていく。
「あめこ、危ない!」
私はもともと身体能力はいいほうではない。
六限目、体育のバレーでは注意力散漫パワーををこれ以上ないくらい発揮し、パスでまわってきたボールを避けきれずに顔面に受けてしまった。
不幸中の幸いか、あまり空気の入っていない柔らかめのボールだったので鼻血はでていない。
「ねえ」
保健室に行くほどでもないしと、心配してくるカナちゃんと体育の先生に断って体育館の壁に寄りかかって座っていた。
「はい?」
いつの間にか横に来ていたのは知らない女の子。
カナちゃんとは違うベクトルでの美人さん。
彼女からはなにか甘い香りがする。コロンかな。
この学校は比較的に校則がゆるい。本当はダメなんだけれど、髪を染めるのもお化粧も常軌を逸していなければ先生は注意してこない。
なんだろうな、この子は。きれいにきれいに作った外国のお城みたい。
贅沢にお金を使って飾りたてたような子だった。カラーひよこじゃないけど、本当の色彩を無理やりに変えたみたいな子。
どのクラスの子だろうか。生徒数が多いので把握しきれない。
「大丈夫ー? もしかして阿波さんにやられたの?」
「ちがうけど…」
どうしてカナちゃんの名前が出るんだろう。
その子の顔は笑って聞いてくる。
ひざを引き寄せて、あまり好きじゃない空気を遮断しようとした。
「えーだって阿波さん乱暴者じゃない。そういえば知らないの? こんな噂がね…」
聞いてもいないに、その子はずっと話し続けた。授業が終わるベルが鳴るまで。
「…らしいのよ。じゃあ気をつけてね!」
言いたいだけ言ってその子はどこかに行ってしまった。
被服科の子だったみたい。複数の友達の群れにまざっていく後ろ姿に私は大きな息を吐いた。
大半は壊れた洗濯機の音を聞くように聞き流してしまったが、気持ちがいいものではない。
仲良くしている子の悪口を聞くなんて。
いやなら本人に言えばいいのに。
嫌いだって、間接的に私に言わなければいいのに。
でもなによりダメなのは、そんな彼女に一言も言い返さなかった私。
いやなら本人に言えばいいのに。
嫌いだって、抱え込むくらいなら言えばいいのに。
だから、私は。
そんな気鬱なまま乗り込んだ電車で、私は今朝読みきれなかった漫画本を開いた。
借り物なのであまり長い間持っているわけにはいかない。
早く読んでしまわなければ。明日はこの巻の続きを読むことになるだろう。
そうはいっても、気分はどこか上の空。あと少しで読み終わるかな、というところで偶然上げた顔。
「……え?」
電車は緩やかに止まっていた。
視界に映る見慣れた閑散とした狭いホーム。人影は、ひとつ。
五分間、開いたままのドアの先には反対方向へ行く電車は停まっていない。
今日は体育の片付けに手間取った。遅くなるとわかっていたから、そこは私の考え通り。
そう何度も電車が同じ時間に停まるわけではない。
だから油断していたのだ。
今日はもう、彼に会うわけがないだろうと。
会えるわけがないと。
「こんにちは!」
喧騒のなかでもよく響きそうな声。
同じく元気そうな髪が風で揺れていた。
私は固まったまま微動もできずに見つめるしかできない。
降りるはずのないホームに立って、彼は私に話しかけてきた。
「はじめまして、俺は堺夏輝っていいます。土の世界と書いて堺で、夏に輝くで夏輝」
夏輝。ぴったりな名前だと思う。
脳裏に浮かんだ光景。大きな花弁の黄色い花。
まるで向日葵のようだと、漠然と思った。
青い空の下、真っ直ぐに伸びたおおぶりの向日葵。
曲がることを、曲がりかたを知らずに育った花だ。
薔薇のような華やかさはないのに、なぜか人の目を惹き付ける、被写体としてとても魅力的なひと。
私が彼を見つけたのはむしろ当然だったのかもしれない。
しかし、しかしだ。
人知れずに私は冷や汗に身を震わせていた。
私にどうしろというのだろう。謝罪か。謝罪なのか。ぷちぷち犯罪か。ぷちぷち犯罪者になってしまったのか、私は。
座っていられずに立ち上がる。
「あ、あ、あのごめんなさい!」
「えっどうして!?」
謝罪要求ではなかった。
ではなんだ。なにを要求しているのだ彼は。
ぷちぷちを止めた以外にこれといって接触はなかったはずである。
もしかして、もっと前からなにかで関わりがあったのだろうか。
しかし私はこの県とは縁があまりないのだけれど。
「ずっと気になってたんだ、その」
彼は私の手にあった漫画本を指差した。
「ブックカバーが」
ブックカバー。
ブックカバー?
「これですか……」
ブックカバー。
本を保護する機能が求められたもの。
ちなみに、二通りのブックカバーがある。
ひとつは売ってある状態、本とセットのブックカバー。
本のタイトル、著者、出版社、価格、バーコードなど、本を売る上で必要な情報が書かれているもの。
ちなみに、中身が汚れていないなら返本されたものでもカバーを交換することによって再び新品に近いものとなり、新たに流通に乗ることもあるそうだ。
価格がカバーにしか書かれていないのは本の価格が改定された時や消費税率改定の際にもカバーの差し替えだけで対応できるように、らしい。よく考えてあると思う。
説明しておくと、私は電車で本を読むときにはさらにブックカバーをしている。
汚れるのはいやだし、借り物だし。指紋がつくのも残るのも不潔な気がして。
それがふたつめのブックカバー。購入後に、個人が好きなようにつけるもの。
汚れるの防ぐため、または読んでいる本が何かを周囲に漏れないようにするためにかけるもの。
日本では本屋さんで購入した際に店員さんがかけてくれたりする。親切仕様だ。
単純に本といっても、様々なサイズがある。文庫判、B6判、B5判、新書判。
少年漫画、少女漫画のコミックスはたいてい新書判だ。
しかし社によっては微妙にサイズがちがう。この微妙な違い。
本屋で有料で売られているもの、あるいは無料で配布されているブックカバーはその点を補うためか大きめに作られている。
この小さなズレ。
この小さな違い。
この小さな空間を私は許しがたいと思うのだ。
この空間があると、読むたびに本とカバーがずれていく。カバーが少しだけ上に伸び上がってくるのである。
そしてそれを戻すのを忘れて本棚から取りだそうとした時に、へにゃっと。
へにゃっと。カバー上部が曲がるおそれがあるのだ。
悲劇だ。あれだけ汚れないように、傷つかないにと細心の注意を払ったのにそれだけでその努力がふいになるのである。
よって、私はブックカバーは手作り派だ。
その本に合うように、ひとつひとつ作っている。
「あ、手作りです」
「それは、見てわかるよ! そうじゃなくって、そのブックカバー。あの、ええと」
「チラシです」
「ああうん、そうだよね、チラシ…チラシ!?」
「もちろん裏が白いチラシだけです」
「こだわり!?」
こだわっている。
こだわっていますとも。
表も裏もガラガラ広告なチラシは使わない。
私がブックカバーに使うのは裏が白いチラシだけである。
それも大きめの、ペラペラではなくほどよく固いチラシである。白い部分を表にして使う。
「そうだろうなと思ったけど、本当にチラシ!? 他になにかなかったの!?」
「あえて、チラシなのです」
さまざまな本に対応するブックカバーに一番適しているのがチラシなのだ。大きく、折りやすく、切りやすく。それでいて安価で手にいれやすい。
これ以上の素材はない。
「チラシはブックカバーになるために生まれたようなものです」
「チラシの存在意義が変わった!?」
そこまではいかないと思う。
チラシの可能性が無限大なだけである。
…いや。
…いや、そうではなくて。
はじめて話すひとに、私はなんてことを語っているのだろうか。
主義の押しつけはよくない。昨日のぷちぷちの時もそう思ったのではなかったか。
言わなきゃ、よかった。
「あ、あのごめんなさい!」
「えっどうして!?」
あれ、おかしいな。さっきと同じようになっている。
頭を下げた私に、彼は慌てたように言った。
「実はさ、そのブックカバーがずっと気になって君のこと観察してたんだ」
私が、彼を観察していたように。
彼もまた私を見ていたということだろうか。
変わったひとだ。
「私を見ても楽しくないと思いますけど…」
「じゅーぶん楽しいよ! 話してみて、もっとそう思った。だから」
だから。
彼は私に手を伸ばしてこう言った。
どこまでも真っ直ぐな声で。
「友達になろう!」
ともだちになろう。
…友達、になろう?
友達に、彼と、誰が?
「あ」
私が口を開く前に、ピーッと、音が鳴りドアが閉まる。
「あああっ」
五分間というのはあっという間だった。
ホームに立っている彼を置き去りにして電車は動きだす。
このままだと私が拒絶したようではないか。そうではない。
いやなわけではない。むしろ彼のことは私も見ていたのだ。
彼が話してくれたのなら私も告白すべきだった。
しかし現実として宙ぶらりんの状態である。
意図せずに。
意図せずに。
「ふおおおお!」
人がいないことをいいことに。
私は思いっきり声を上げて顔を伏せた。
降りるときに気づいたのだが、あの時「確かに他にお客さんは乗っていなかったが運転手さんはいた」のである。
「うわああああ!」
叫びたい。叫びます。申し訳ありませんでした。これ二度目だ。二日連続だ。
自室のベッドに寝転がり、枕に顔を押しつける。
ビーズクッションのうさぎを抱きしめて、振り回して足をどたばた。
ひとしきり、暴れてみても昨日のように熱が冷めることはない。
「ううう…」
それでも時計を見れば、明日が差し迫ってきていたので勉強机に向かった。
パソコンを立ち上げ、ディスプレイにあるアイコンをクリックする。
今日は、いろんなことがあった。朝の驚きと昼間の無気力な授業風景といやな出来事。そして夕方に会った向日葵のようなひと。
急いで今日一日の出来事を思いつくままに打っていく。ざっと最初から最後まで目を通して、終了。
最後にエンターを押すと、浮かび上がる文字列。
『公開しますか?』
私は迷わず『いいえ』にカーソルを向けた。
次に浮かんだろう『完了しました』の画面を確認せずにパソコンを閉じる。
これで、私の一日は終えた。日課もこなした。
あとはもう寝るだけ。
心のうちは、全部文字にして吐き出した。
(ああ、でも文字だけじゃ)
いつもならこれですっきりするはずなのに、なぜか寝つけないでいた。