95日目 剣とトシちゃんと僕の影
本当に止まらないバトル路線。
「じゃあ、どんどん行こうかのう」
「はっ?」
ジイちゃんの友人宅にある剣道場にて。
僕は竹刀で打たれた背中を擦っていた。
ジイちゃんによって突然試合を組まれた僕は、その相手からしたたかに打ち付けられたのだ。
剣道をまともにやって無い僕に試合など無理である。
だからして、僕の負傷は当たり前の結果とも言えた。
背中の痛みで自然と視線が険しくなる僕に対し、ジイちゃんは飄々とした態度で言った。
「なんとな、トシちゃんの孫は二人おるんじゃ……!」
「それは知ってるよ!? 問題は、なんでジイちゃんが今それを持ち出すかって事だよ!」
「アッハッハッハ。二回も試合が組めてラッキーじゃのう」
「ラッキー!? 意味が分からない!!」
どうやらジイちゃんは、さらに試合を組もうとしているらしい。
戦うべき意味も、価値も見出せない……!
僕は助け舟を求めるように、次なる試合相手となる菊ちゃんに向かって叫んだ。
「ぐうっ……! 背中が痛い! ああ、背中が痛いよう!」
先ほど打たれた背中を庇いながら、大袈裟に痛がる僕。
菊ちゃんの良心に訴えかけ、試合を辞退してもらうために演技を続ける。
そんな僕をジイちゃんは白けた目で見ていた。
「坊よ、その手はもう通用せんじゃろ」
「さすが貴様の孫と言った所か」
「騙しじゃ無いですよ!? クソッ、やはり僕の弱点はジイちゃんか……!」
ジイちゃんと、その友人であるトシちゃんから次々とダメ出しを食らい、僕は涙目になった。
どうも過去にジイちゃんが対戦相手を騙しまくっていたせいで、僕の迫真の演技も簡単に見抜かれてしまうようだ。
身内は敵にあり。
ジイちゃんの言った言葉が骨身に沁みるようだった。
しかしどこにでも女神は転がっているものである。
中学三年生の女神、菊ちゃんは実に慈愛に溢れた言葉をのたまった。
「お爺さま。流石に私も、良く知らない人に竹刀を向けるわけには……」
戸惑うような表情を浮かべる菊ちゃん。
これが普通の剣道の試合ならまだしも、トシちゃんちに伝わる謎の実戦形式バトルである。
彼女の躊躇も当たり前の話だった。
そう考えると、あっさりと試合を受け入れた菊ちゃんの姉、花ちゃんは何なのかという話になってくるが、そこは深く考え無い方が良いだろう。
余所見をしている僕の背中を容赦無く打ちつけくる女である。
まさに堕天使。堕ちた天使と女神を比べるのが間違いなのだ。
心の中で菊ちゃんに喝采を上げる僕。
菊ちゃんの言葉を聞いたトシちゃん氏は、何事かを考え込んでいるようだった。
試合を断る菊ちゃんを引き止めるように言葉を発した。
「しかしな、こんな機会はまたと無いのだ」
「試合の機会でしたら、別にそれほど珍しいものでも……」
「いや。適当に怪我させても大丈夫な相手というのは、中々いないだろう?」
ぴーひょろろー……。
トシちゃんの言葉により静まり返る道場内。
晴れ渡る空を飛ぶトンビが上げる鳴き声が、僕らの耳に高く高く響いた。
ああそう言えば、剣で相手を傷つけた時の罪悪感を教えたい、とか何とか言ってたな。
僕はトシちゃん氏の語った言葉を思い出していた。
……つまりあれか!?
僕は適当に痛めつけても良い相手として見られていたのか!?
類は友を呼ぶ。ジイちゃんの友人という時点で疑うべきだったのだ。
この人おかしい! 頭がおかしいよ!
僕は愕然としながらトシちゃんを見つめた。
女神である菊ちゃんもまた、驚きの表情で自分の祖父の姿を凝視している。
そんな中、トシちゃん氏は居心地悪そうにポリポリと頭を掻いた。
急に襟を正したかと思うと、威厳に溢れる声で叫んだ。
「……なんてな! よし少年、私が直々に相手をしてやろう!」
「ええっ!?」
何かを誤魔化すように言葉を並び立てるトシちゃん。
そんな訳で、僕の第二試合が勝手に組まれたのだった。
「見せてもらおうか。形無しを継ぐ者の実力を」
「ジイちゃん! 銃を早く! 早く僕に!」
道場の中央で僕とトシちゃんは対峙していた。
トシちゃんは既に壮年であるというのに、全身から異様なオーラを放っている。
静かに佇んでなお僕を圧倒する気迫。
審判役を買って出たジイちゃんに、僕は涙目で叫んだ。
銃は剣より強し。
そんな格言を語るジイちゃんは、同時に僕を千尋の谷に突き落とすロクデナシでもあった。
助けを求める僕に対し、満面の笑みを浮かべながら言った。
「ほっほ。坊よ、実戦こそが唯一剣客を育てるのじゃ……!」
「僕は修練派なんだ! ぶっつけ本番はノー!」
必死に叫ぶが、ジイちゃんは聞く耳持たずの姿勢だ。
さすが身内が敵と言い切ったジイちゃんである。
今のジイちゃんは、ばっちり僕の敵だった。
改めて目の前のトシちゃんに目を向ける。
竹刀を構えるトシちゃん。
その切っ先は、真っ直ぐに僕の喉を狙っている。
数々の無駄な戦闘経験が僕に告げた。
マズい。超マズいと。
かつて先輩と対峙した時に感じた物と似た戦慄が、背筋を這い登った。
「試合を開始する前に言っておこうかのう」
ジリジリと高まる緊張の中、のほほんとしたジイちゃんの声だけが道場に響いた。
「坊、人が前進するには足を踏み出す必要がある。つまり、足を踏み出せねば人は前進できんのじゃ」
ついにボケたのだろうか?
訝む僕の前で、ジイちゃんは僕の目を見つめながら語った。
「相手の嫌がる事を目指すのじゃ。相手の思考を読み、相手の機先を制し、相手を動かすな。己のペースに相手を巻き込み、その上で弱点を突く。それがワシの剣じゃった」
真剣な声で語るジイちゃん。
そんなジイちゃんに向かって、トシちゃんが厳かな声で言った。
「孫との今生の別れは済ませたか?」
「今生!? 死ぬの僕!?」
「! おっと、すまんすまん。つい昔の口癖が出てしまってな」
たはは、と苦笑を浮かべるトシちゃんだったが、僕の腕の震えは止まらなかった。
今生の別れって、死ぬって意味じゃねーか!
あんた僕を殺す気なのか!? マジなのか!?
普段の僕なら、冗談だと思って笑い飛ばすような言葉だった。
しかしジイちゃんの友人という一点において……僕はトシちゃんを信頼していた。
もちろん、悪い意味で。
この人はジイちゃんと同じで、何かを超越してしまっている人である。
イカサマ野郎、ロクデナシ。
そんなジイちゃんの二つ名と並び立つ称号を、恐らくは持っているであろう。
何故ならジイちゃんの友達だから。
恐怖。畏怖。その他、訳の分からない感覚。
渦巻く心を抱いた僕の額を、一筋の汗が流れた。
「試合、始めじゃ!」
ジイちゃんの声が道場に響き渡る。
さあとうとう始まってしまいました、僕の死合。
あは……あははー!
生き残るには勝つしか無い……!
僕は泣きそうな目で眼前のトシちゃんの姿を凝視した。
涙は、流さない。
流したら視界が塞がれ、そのままトシちゃんから突きを食らうからだ。
そうなればジ・エンド。
僕が生涯最後に聞いた言葉は、ジイちゃんの試合開始の声になるだろう。
「坊よ、突きに気をつけるんじゃぞ。突きは最も隙が無く、かつ致命的な一撃じゃ」
声をかけてくるジイちゃんに惑わされないように、僕は相手をしっかりと見つめた。
――トシちゃん。
ジイちゃんの友人にして、恐らく性格破綻者。
自宅に道場を持つちょっとヤバ目な老人にして、多分剣の達人。
果たして彼が手加減してくれるかどうか?
甘い期待はしない方が良さそうだった。
後ずさりしようとする足を、意思の力で縫い止める。
トシちゃんは余裕の笑みを浮かべながら、剣先を腕先だけで上下させた。
喉を突こうかな♪ それとも別の所を突こうかな♪ あは、死ね♪
そんな楽しげな歌が、トシちゃんの口から聞こえてきそうだった。
突きに気をつけろ、そんなジイちゃんの忠告が頭をよぎった。
「いかん!」
ジイちゃんの絶叫。
その次の瞬間の事はよく覚えていない。
一瞬で間合いを詰めて来たトシちゃん。
振り下ろされる剣。
考えるよりも先に体が動き、僕はその一撃を止めていた。
瞬く間に横薙ぎの二撃目が放たれた。
コマ落としのようなその速さに、僕は着いて行く事が出来ない。
防御は間に合わない。
そう思った時――あるいはその前から、僕は既に全力で「前進」していた。
ぶち当たる僕とトシちゃんの体。
辛くもトシちゃんの剣から逃れた僕だったが、その代わりにトシちゃんの腕が思いっきり体にめり込んでいた。
剣を横薙ぎに振るうトシちゃんに向かって突進したのだ。
それは当たり前の結果だったが、僕はゲロを吐く寸前だった。
「ぐおおおお……!?」
痛みにのたうつ僕に、ジイちゃんが容赦なく言った。
「愚か者が! 突きに捉われ過ぎて、注意が散漫しておったわ!」
「それに、あの防ぎ方はいかんな。胴ががら空きじゃないか」
僕をゲロ寸前に追い込んだ張本人、トシちゃんが暢気に忠告してくる。
ダメだ、こいつらの頭はおかしい……!
注意が散漫とか胴ががら空きとか、剣道素人の僕に向かって何を言ってるんだ……!?
朦朧とする意識の中、僕は先ほどの激突で落とした竹刀を拾うと、握り締めた。
殺意が沸々と湧き上がってくる。
それは静かに胸から溢れると、ゆっくりと触手を伸ばすように道場に広がっていく。
無言で竹刀を構える僕。
その切っ先は、トシちゃんへと向けられていた。
「ほう? まだやるのかね」
面白そうに僕を眺めるトシちゃん。
彼もまた、ゆっくりと竹刀を構えた。
静寂が僕らを包む。
沈黙の中、僕は以前戦った風の王の動き方を思い返していた。
柳の動きとかいうその体術は、面白いくらい僕の攻撃を躱した。
それを真似るように、風の王の足の動かし方を思い浮かべる。
トシちゃんが動いた。
無駄の無い動作からの、喉を狙った突き。
このジジイ、本気で僕を殺す気なんじゃないだろうか?
そんな事を思いながら――僕はその突きを躱していた。
本来なら反撃のチャンスなんだろうけど、生憎と僕にそこまでの余裕は無い。
トシちゃんは素早く僕から距離を取った。
「反射神経は良さそうだ」
余裕の笑みを浮かべながら言うトシちゃん。
剣を構えた僕らは、広げた距離を再びジリジリと縮めていった。
切っ先が触れ合う程の距離。
トシちゃんの浮かべる笑みは、微動だにしない。
そんなトシちゃんの笑顔を見つめながら――。
時間が、止まって行く。
それまで無為に従って来た巨大な時の流れを。
飲み込み、支配し、掌握していく。
濃密な渦のように流れる時間。
その中にはトシちゃんも居る。
僕は自分でも気付かぬ内に、間合いを一歩縮めていた。
剣を触れ合わせる。
まるで時間の渦に絡み取られるように、トシちゃんの剣はあっけなく僕の剣に制される。
僕の剣に機先を制されたそれは、防御も攻撃も奪われてそこに在った。
トシちゃんの笑顔は、動かない。
止まった時の中で僕だけが動いている。
――突きは最も隙が無く、かつ致命的な一撃じゃ
分かっている。
その一撃を放つ為に、僕は膝に力を蓄えた。
濃密な渦の中で、僕の全神経はゆるやかにトシちゃんの喉を狙った。
超至近距離からの突き。
それを放つため、僕は最小の動きで床を踏みしめた。
今まさに踏み出そうというその時に。
どこかで聞いたような声が、ふいに僕の耳に聞こえた。
「そうだ、その動きだ。思い出してきたか?」
それは恐らく幻聴だったのだろう。
僕以外に動く者のいない時間の中で。
どこか親しげな響きを持ちながら、その声は聞こえて来た。
ドン、という巨大な石が落ちたような音が響いた。
それは僕が床を蹴った音。
そして僕が突き出した竹刀は――わずかに、トシちゃんの喉をそれていた。
シン、とした静寂が道場に満ちていた。
誰も一言も発せられない。
そんな静謐を崩したのは、倒れるようにして床に座り込んだ僕だった。
何故だか分からないけど、全身からは汗が噴き出していた。
荒い息をつく僕の目に、驚きに目を見開くトシちゃんの顔が映った。
その顔はやがて面白がるような表情へと変わった。
酷薄なまでに唇を歪めながら。彼は、笑っていた。
「どうじゃ、ワシの孫は?」
試合の事など見ていなかったように、飄々とした口調で問いかけるジイちゃん。
そんなジイちゃんに対し、トシちゃんはいっそ穏やかとも思える口調で答えた。
「お前の若い頃によく似ている、な」
「じゃろー? 遺伝って、本当に怖いわー」
トシちゃんの言葉に、嬉しそうに答えるジイちゃんの声を聞きながら。
試合の途中に聞こえた幻聴に、何故か僕は身震いを覚えていた。