89日目 ビター・ハート ビター・スイート
テーブルに置かれたグラスが、差し込む光に青い影を作る。
巨大なガラスによって形成された壁からは、痛いくらいの青空が見えた。
水面が、揺れる。
グラスの中の冷水。それが作る影が、テーブルに淡く不思議な模様を作っていた。
「少年は何を頼むの?」
「僕はとりあえずモーニングセットで」
先輩に訊かれ、僕はテーブルに据え置かれたお勧め通りの注文に決めた。
店員の手書きで作られているだろう小さなお品書き。
何でも、この店のモーニングセットは自慢の温野菜で作られているらしい。
特に健康に気を使うつもりは無いが、せっかくだから僕はそれを選んだ。
「じゃあ私はパンケーキセットにしようかなぁ。あ、店員さーん!」
先輩は、小さな店内を練り歩く店員さんを呼び止めた。
喫茶店であるのだから、ウエイトレスさんと呼ぶべきかもしれない。
しかし普段着にエプロンだけを身に付けたその姿は、むしろ店員と言う呼び方がしっくりきた。
長い髪を後ろで束ねた妙齢の店員さんが、僕らの注文を受け付けている。
世の中にはウエイトレスの制服に固執する人もいるらしい。
しかし僕にはそういった趣味は無かったので、別段気にするような点も無かった。
お店の名前の入ったエプロンを颯爽と翻しながら。
店員さんは、するするとカウンター席の方へ戻っていく。
僕らの居る喫茶店は、三階建ての小さな雑貨ビルの三階にあった。
つまり一番上にあるわけで、どうしてわざわざ喫茶店を最上階に作る必要があったのか、僕は注文を待つ間に考えていた。
壁一面の巨大なガラス窓が音を遮り、そこからは静寂に沈んだ青空が見える。
音も無く流れる雲を見つめながら。僕はまるで海の中にいるような錯覚を覚えていた。
不思議な事に。先輩と一緒にいると、何故か深い水の底にいるような気持ちになる事がある。
それは単に空が青すぎるせいかもしれないし、無機質なガラスが音を閉じ込めてしまうからかもしれなかった。
窓辺に置かれた緑の観葉植物を眺めながら。
外界と隔絶された店内には、静かにピアノの旋律が流れていた。
「どう? 少年。この店、結構良いでしょ」
先輩に尋ねられた僕は、ふらふらと店内を見渡した。
巨大なガラスの窓の傍にはアマゾンっぽい観葉植物が置かれている。
店内は明るいベージュ色で統一され、唯一木目調であるテーブルとイスが、室内デザインのアクセントになっていた。
部屋の中が少し薄暗く見えるのは、ある種のムーディーさを狙った物かもしれないし、単に窓の外に広がる世界が明るすぎたせいかもしれなかった。
深い深い、青い世界がガラス窓の外に広がる。
「そうですね。ただ解せないのは、何でこんなに温野菜にこだわっているかって事です」
肯きながら、僕は言った。
先輩お勧めの喫茶店。メニューは何故か温野菜攻めだった。
モーニングセットに始まり、温野菜カレー、温野菜和風メシ、温野菜ジュースだ。
例外は、先輩の頼んだパンケーキセットくらいではなかろうかと思われた。
穴場の喫茶店がある。
そう言って先輩は、僕をここへと誘ったのだ。
公園と謎スポーツを愛する先輩。彼女が喫茶店に行く事は非常に珍しい。
さらに僕を誘うとなると、もはやそれは椿事と言っても差し支えなかった。
温野菜をやたら自慢する喫茶店にあって。
僕が何よりも解せないのは、そんな先輩の突然な態度だった。
「食べてみると分かるよ? 結構美味しいんだ、ここの温野菜」
「さいですか」
特に野菜の味の違いに興味の無い僕は、無感動に返事を返す。
喫茶店の片隅には、水槽が置かれていた。
その水槽の中を、日本原産では無さそうな小さな青い魚が泳いでいる。
ユラユラと揺れる小魚を見つめた後、僕は先輩に言った。
「先輩がこういう所に来るのって、珍しいですね」
「んん? そうでも無いよ?」
僕の向かいに座りながら。
先輩はグラスの水を一口飲みながら言った。
「わりと好きなんだ、こういう店。」
「喫茶店がですか?」
「うんにゃ。こういう、水中っぽい店。」
竜宮城みたいじゃん? と先輩は言った。
そんな先輩に、僕は生真面目な口調で返す。
「いや、竜宮城がどんな感じか分からないですけど」
「たとえだよ、たとえ。少年、もっとイマジネーションを高めるのだ!」
そう言って、先輩は座った姿勢のまま僕に人差し指を突きつけた。
果たしてどれほどイマジネーションを高めれば、架空の世界の感覚を掴めるのだろうか?
些細な疑問はそのままに。
グラスの中で揺れる冷水が、テーブルに淡い影を落としていた。
「竜宮城は置いとくとしても、いい雰囲気の店だと思いますよ」
そう答えつつ、僕は先輩の私服を眺めた。
先輩はブルーとベージュを基調としたチェック柄のワンピースを着ている。
七分丈のデニムは、活動的な先輩によく似合っていた。
普段は制服姿か、もしくはジャージ姿しか見た事が無かったので、さすがに新鮮だった。
僕の方はと言うと、ラフなシャツとハーフな感じのカーゴパンツを着ている。
自分の姿に取り立てて新鮮さを感じる事は無かったが、あるいは先輩と私服の時間を過ごす事は鮮烈な出来事であるのかもしれない。
何やら感慨深く思う僕に、先輩はポツリと言った。
「パンケーキ、まだかなぁ?」
そう言えば結構時間経ちましたね、と僕は返した。
外界から切り離された喫茶店の店内には、静かな時間が流れる。
そんな時間を先輩と共有しながら。
注文したメニューが運ばれてくるのを待った。
思えば――僕は、どれだけの時間を先輩と過ごして来たのだろうか?
静かに青い空を透かす窓を眺めて、僕はそんな事を思った。
あの部屋で。公園で。あるいは、廊下で出会うふとした瞬間で。
僕は先輩と共に語り、遊び、歩んできた。
あの日、あの時、あの場所で。
僕らは風を追いかけ、ウニを投げつけ、銅像を破壊した。
思わず苦笑を漏らしながら、懐かしい記憶を思う。
あるいはこれから作る思い出を考えながら。僕は先輩に話しかけた。
「でも先輩、先輩がこういう所に僕を誘うのって珍しいですよ」
「ん~? そうだっけ?」
「いつもは公園とかじゃないですか」
「まあ私も、体動かす方が好きだからね」
「そうですよ。やっぱり先輩がこういう店に来るのって、珍しいと思いますよ?」
「むむむ……! 少年は私から、オシャレを奪うつもりだね……!」
「いや、そう言った意図はありませんけど」
眉間に皺を寄せる先輩に、僕は苦笑しながら言った。
オシャレな店に来るのが珍しいと言われるのが我慢ならないようだ。
まあパンケーキセットが届いたら、彼女の怒りも霧散するだろう。
そんな事を思いながら、僕は先輩との会話を続けた。
「他にはどんな所を知っているんですか?」
「え? う~んとね、口では伝え辛いなぁ」
「やっぱりそこも穴場なんですか?」
「穴場って言うよりは……路上?」
「……道、っすか」
一体先輩にとってのオシャレとは何なんだろうか?
果たしてオシャレ泥棒の僕は、先輩からそのオシャレを奪えるのだろうか?
よく分からない疑問を抱いたり抱かなかったりしながら、僕は先輩に言った。
「道なのに雰囲気が良いんですか、そこ?」
そんな僕の疑問に、先輩は得意顔で答える。
「ふふ、少年は物を知らないね! 私は既に、十箇所もの『心地良い風の吹く場所』を知っているというのに!」
「一体先輩はどこを流離っているんですか?」
「ふふふ、秘密」
自慢気にウインクしてくる先輩。
そんな先輩に、僕は嘆息を吐きながら言った。
「まあいずれ、一緒に行く事になるでしょ? 僕と先輩は、暇な時は大概一緒にいますし」
やれやれと肩を竦める僕に対し、先輩は何故だか少し寂しそうな顔になった。
訳が分からず見返す僕に、先輩は苦笑するようにして言った。
「きっと、全部の場所は行けないよ」
「なんでですか?」
訊き返した僕に、先輩は「だってね、時間が足りないよ」と呟く。
そして続けるようにして言った。
「私の方が、一年早く卒業するんだから」
「それも、そうですね」
考えてみれば当たり前の話だった。
なのに何故か。
その事実を、上手く考える事が出来ない自分が居て。
訳の分からない喪失感が、いつまでも残っていた。