85日目 サメの交わり
かつて世界は森林に満ちていた。
なんて言うと、減り行く熱帯雨林への警鐘と思われてしまうかもしれない。
僕らがまだ嫌気性生物で、地球をウネウネと蠢いていた頃。
葉緑体を手に入れた植物は、光合成を始めた。
その圧倒的な生化学反応は、瞬く間に地球を酸素の惑星へと変え。
他の生物は絶滅寸前に追い込まれたという。
自然は調和なんか取っていない。
取るか取られるか。そんな殺伐とした緊張の中で。
時に手を組みながら、世界を生き抜いていくのだ。
「ここは苦手なんだよな。全体的に」
ジャリジャリと音を鳴らす、細かな庭石を靴底で踏みながら。
僕は本家の家に来ていた。
つまりは僕の家は分家であり、時にはこうして本家に来てイベントをこなさなければいけないのだ。
一族の風習というか、多分そんなものなのだろう。
憎いほど青い空が広がる。
切れ目無くグラデーションになっている空から、徐々に視線を下ろして行くと本家の建物の屋根が見えた。
やたらデカイ、という事を除けば普通の瓦屋根に見えた。
もっとも、年季の入り方はそんじょそこらの建物とは比較にならないだろう。
本家の母屋は、昭和どころか明治辺りまで遡れそうな建物だった。
純和風の趣のある建物は、建築当時は洋風の家なんて無かったんじゃないかと思わせた。
手入れの行き届いた庭と同じように、家屋の要所要所も隙無く手直しされている。
明らかに増築されたと分かる場所が無い分、建物の見た目を保つように心がけている様が伝わってきた。
「お兄様、お久しゅうございます」
呼びかけられ、僕は本家宅の粗探しを止めて振り返る。
そこに立っていたのは、僕のイトコの女の子だった。
雛人形に似ていると言われて以来、ヒナちゃんと呼ばれている。
そんなヒナちゃんは、違和感無く着物を着た姿で佇んでいた。
「昔日の邂逅より幾星霜……。わらわは涙を飲む思いでございました」
昔日って……意味分かって使ってるのかな?
小難しい単語を使いたい年頃のヒナちゃんに、僕は心の中で嘆息を吐いた。
面倒なんだよ。この娘、面倒なんだよ!
僕が本家を嫌う理由の七位辺りの理由は、実にこの娘に会うことだったりした。
「涙って塩味だよね、ヒナちゃん」
「もう! お兄様! 詩的表現を真に受けないで!」
唇を尖らせて怒るイトコを、僕は緩く微笑んで見つめていた。
とりあえず笑っておけば、対人関係はそれなりに上手く行くのである。
僕は経験論からその答えに至り、現在も活用している真っ最中だった。
「ごめんごめん。僕はさ、カップラーメンのSIO味が結構好きでさ」
微笑みを浮かべながら謝る僕に、ヒナちゃんはポカンとした表情を浮かべた。
大きな目をまん丸に開けながらポツリと言う。
「カップラーメンって何ですか? お兄様」
顔にハテナマークを浮かべるヒナちゃん。
これだよ。こういう所があるから、僕は本家に馴染めないんだよ。
多分本気でカップラーメンを食べた事が無いんだろう。
僕が本家を嫌う理由の三位くらいは、こんな風に階級格差を感じる事だった。
まず、普段着が着物という時点で何かが違う。
隔たりがある。どういう風に寝起きしてるんだ?
ご飯は? 風呂は? そもそも着物ってどこで売ってるんだ?
育ちの違いは、年齢以上に僕らに距離を作っていた。
「カップラーメンはね……そうだな、森から生まれるんだ」
「森?」
「そうさ。全ての生物は森から生まれて来たんだ」
「そうなのですか……深いですね!」
力強く肯くヒナちゃんだったが、彼女は一体何を理解したと言うのだろうか?
こういう風に、適当な事を言っても納得してくれるのは彼女の美点と言えた。
欠点とも言えるが、まあ人の長所や短所など、見る人によって変わる物である。
瞳を輝かすヒナちゃんを前にしながら、僕は微笑を絶やさなかった。
「命と命が手を取り合い……嗚呼、わらわ達は一つなのですね!」
両手を胸の前で組み、まるで祈るかのような姿勢で語るヒナちゃん。
その目はどこか遠く――アマゾンの奥地辺りを見つめているようだった。
僕は何となく空想した。
密林に聳える巨木。その巨木の表面を這うようにして、ツタが生える。
巨大な合一。二つの植物が寄り添うようにして、共に遥かなる大地に根付く。
しかし――自然の摂理が、二つの命を分かっていく。
そう、そのツタは絞め殺し植物なのだ。
大樹に絡まり、その栄養を奪い、最後には枯らす。それが絞め殺し植物だ。
奪い尽くすその時まで、二つの植物は共に同じ時を過ごしていく事になる。
果たしてそれは幸せなのか、それとも不幸なのか。まあ見る人によって変わるだろう。
彼女と同じように、遠くアマゾンに思いを馳せながら。
僕はこの地球を覆い尽くす青い空を見上げた。
「お兄様」
呼びかけられ、僕はハッとした思いで空想を中断する。
僕を呼びかけたヒナちゃんは、何だかもじもじしながら言った。
「わらわ達も、手を取り合って生きて行きたいです……」
「そうだね」
僕は無感動に呟く。
分家と本家だしね。そりゃ親戚だから、手は取り合って行くだろう。
……ジイちゃんが本家から絶縁されない限り。
ふっ……と乾いた笑みを浮かべながら、僕は父から聞いた話を思い出していた。
ジイちゃんの行いのせいで、何度か本家から切り離されかけた、と。
かなり危うい所まで行ったが、ギリギリのラインで踏み留まっているとの事だ。
ここまで来ればもう大丈夫だ……!
苦渋を滲ませながらそう言った父の顔を、僕は一生忘れる事が出来ないだろう。
その後の父の態度からすると、今からどうこうなる事は無いとは思う。
ジイちゃんが、最後に大きな花火を上げない限りは。
父の壮絶な覚悟を知りながら。
心のどこかで花火を期待する僕は、やはりジイちゃんに似ているのだろうか?
風は何も答えてくれなかった。
遠い目をする僕に、ヒナちゃんの元気な声が聞こえてきた。
「わらわ達は、そう……比翼の鳥。片方だけでは生きられないのです!」
ヒナちゃんは左手を胸にあて、まるでオペラの女優がそうする様に、右手を高く宙へと伸ばしている。
観客はスタンディングオベーションなのだろう。
感極まった様子のヒナちゃんの姿からは、盛大な拍手の幻聴が聞こえてきそうだった。
そんな感動をぶち壊すように。僕は無感動に呟いた。
「片方だけじゃ生きられないってさ、辛くない?」
「ええ~!? なんで、なんで~!?」
信じられないと言った表情を浮かべ、ヒナちゃんが僕に詰め寄ってくる。
そんなヒナちゃんに僕はすまし顔で答えた。
「だってさ、言いたい事も言えないよ? きっと。相手がキレて羽ばたかなくなったら落ちちゃうもん」
「ぶ~! そんな事ないもん!」
年齢より幼く見える顔を、盛大に顰めながら怒るイトコに対し。
僕は笑顔を崩さぬまま、冷淡な声で告げた。
「コンビを探す時とかさ、自分の羽根と逆方向の羽根を持ってる人じゃないといけないしさ」
「うにゃー!? そ、それは!」
「それならいっそ、飛ぶ事を止めてニワトリのような生き方を選んでも……」
「やだやだー! そんなの美しく無いもん!」
そもそも片翼の時点で、見た目的にはどうかと思うけど……。
いまいち彼女の美的基準が分からない。
これが分家生まれと本家生まれの違いなのだろうか?
プンプンと怒るヒナちゃんを眺めながら、僕は分かり合えない関係を噛み締めていた。
「じゃあじゃあ、お兄様の理想の関係ってどんなのです!?」
「僕の理想の関係?」
突然そんな事を訊かれ、僕はふむと首を捻った。
さて僕の理想とは何だろうか?
少なくとも、二人三脚のように空を飛ぶことでは無い。
さりとて、大木と絞め殺し植物の関係でも無い。
さてさて、どう言ったものか。とりあえず適当に言った後に考えるか。
怒った子猫のように睨みつけて来るヒナちゃんに、僕はさらりと言った。
「そうだね、僕の憧れる関係は……コバンザメ、かな」
「げぇぇー!? なんで、なんで!?」
僕の答えが余程気に入らないのか、ヒナちゃんは盛大なブーイングを上げた。
なんでと訊かれても、思いついた関係がサメとコバンザメの関係だったに過ぎない。
さてここからどうやって丸め込もうか? 僕は久々に頭をフル回転させた。
「コバンザメ……ってさ、ジンベエザメがいて初めて成り立つんだよ」
「そうです! コバンザメは、大きなサメにくっ付いてる卑怯者だもん!」
「いや、そういう事じゃ無いんだ。つまり……」
喚きたてるヒナちゃんを手で押さえながら、僕は言った。
「コバンザメは、自分を相手に合わせているんだ」
おっ? 何か良い話になってきたぞ。
流れを掴んだ僕は、一気に話を組み立てる。
感動と尊敬と、友情を込めて。
理想の関係を夢見るヒナちゃんに対し、付け焼刃の言葉を並び立てた。
「だからジンベエザメはコバンザメを嫌わない。お互いに支え合うわけでも無いけど、なんていうのかな? さらっとした水のような関係っていうのかな」
僕の言葉を聞いたヒナちゃんは、何やら驚嘆していた。
「むむむ……! 君子の交わりは淡きこと水の如し、ですね! さすがお兄様……!」
ヒナちゃんが何やら言ったが、その意味は僕にはさっぱり分からなかった。
君子の交わり? コバンザメの交わりじゃないの?
彼女の言葉に否定も肯定も返さないまま。
僕はとりあえず、その通りだよ、と言わんばかりに笑顔を浮かべておいた。