83日目 放課後の風
「憐れね」
「…………」
「憐れね」
「二回も言わないでよ!? 本当にヘコんで来るんだけど!」
誰も居ない放課後の教室で。
僕は自分の席に着きながら、隣に立つ冷蔵子さんに訴えた。
彼女はいつもと変わらぬ涼しげな、いや冷酷な視線を僕に向けながら強調するように言葉を投げかけてきた。
憐れ。それは例えば、修学旅行の前日に熱を出してぶっ倒れた人に向けて贈られる言葉である。
残念ながら僕らの修学旅行はまだ先であり、よしんば就学旅行なるものがあったとしても、時期的に既に過ぎている類のものだった。
この学園の修学旅行は統計的に言えば東京行きが決まっており、学園長が突然ダーツで行き先を決めるような思いつきさえしなければ、僕らも一、二年後には無事東京へと到着する予定だ。
東京。東の京である。西の京も修学旅行のメッカであるが、さてメッカとは本来は何を指して使う言葉だったのだろうか? などと学術的な疑問が湧かないでも無い。
さて、修学旅行が始まるにはほど遠い今を生きる僕は、何ゆえ憐れまれているのか?
その答えは実に、今現在の僕が教室に残っている理由と合致するものである。
どうして僕は、誰もいない放課後の教室に残っているのか?
反省文を書く為である。さらに言えば、反省文を書き上げて職員室のミセスな先生に届けるためである。
「どうして僕はあんな事を言ってしまったのかな?」
今さらになって、しみじみと僕は思った。
「考え無しだからじゃないかしら?」
誰もいない教室に何故か残る冷蔵子さん。
何故彼女はここに残っているのだろうか。
恐らく、僕を憐れむためだろう。
その考えは、ひどく心に馴染むものだった。
「まあ良いさ。覆水盆に返らずだよ。過ぎてしまった事は、どうしようも無いのさ」
ニヒルを気取った僕のセリフに、人を憐れむのが好きな彼女は即座に返答した。
「そうね。あなたが為すべき事は、反省文を書くことだもの」
「それが一番の苦痛なんだ。奴の身体的特徴を、なるべく褒め言葉に変えるにはどうしたら良いと思う?」
「あなたねえ……」
溜息を吐きながら彼女は言った。
「何で反省文で先生の容姿を褒めるのよ? これからは授業を真面目に受けますとか、そういう事でしょう?」
「それだけじゃ用紙が埋まらないんだ。四百字詰めの原稿用紙を考えた奴の悪意を感じるね」
「何をバカな事を言ってるのよ」
冷蔵子さんは本気で呆れたようだった。
誰も居ない教室は静かだった。
差し込む夕日の赤々とした光も静かだったし、乱雑にどけられ、横を向いた形で佇む誰かのイスも静かだった。
開けられた窓からは、西日と共にゆるやかな風が舞い込む。
帰る時に窓閉めなきゃな、と僕は教室を流れる大気を感じながら思った。
カリカリ、と僕がペンを動かす音だけが響いた。
ええと、先生は三十歳を越えているとは思えないほど美しく、その美しさは三全世界に轟かんばかりです……。クソッ、全然紙面が埋まらない。
あらん限りの美辞麗句を思い浮かべる。しかし悲しいかな、嘘が苦手な僕には言葉が思い付かなかった。
この際、美しいって言葉だけで埋めてみようか? 数は正義って言うし、視覚に訴える物もあるはずだ。
思い立ったら即行動。とにかく試してみるのが僕のモットーである。
『美しい美しい美しい美しい美しい美しい……』
そこまで書いた所で、隣に立つ麗しい女性から指摘を受けた。
「ちょっと、何で壊れたレコーダーみたいに同じ言葉を繰り返しているのよ?」
「いや、この方が何かが伝わるかと思って」
「ストーカーみたいよ? 見てて気持ち悪いわ」
「そっかぁ……。そういうのが伝わっちゃうかぁ……」
僕は書き上げた言葉を消しゴムで消して行く。
消えていく『美しい』という単語と共に、原稿用紙も黒鉛の残りカスで黒ずみ、さらに皺が寄り、かつての白々とした美しさを失っていた。
汚れていく用紙に悲しむ暇は無い。たとえかつての美しさを失ったとしても、僕はそこに言葉を連ねて行かねばならないのだ。
決意を新たにする僕に、冷蔵子さんの指摘が続いた。
「それに、その三十歳って所はマズイと思うわ」
「え? なにゆえに?」
「先生だって年齢を気にするものよ?」
「だから、三十歳に見えないって書いてるじゃん?」
「三十歳って書く時点でアウトなのよ」
むうう……?
そういう物なんだろうか?
言われてみればそんな気もしたので、僕はさらに消しゴムを動かす事になった。
「ぐうう……!? いよいよ書く事が無いでゴザルよ!」
「なんでゴザル口調になるのよ?」
「なんとなくでゴザルよ。武士の一分でゴザル!」
「誰が武士なのよ、誰が」
イスに座る僕を睥睨しながら。
冷蔵子さんは、呆れを体現する方法を模索するかのように黙り込んだ。
しかしこうしていると、武士の気分になってくるのも本音だった。
几帳面に描かれた正方形のマス目に、一文字ずつ文字を書き入れていく作業。
何ともクソ真面目な行為である。誠意を形にするためだけに、僕は四百字もの文字を書き続けるのだ。
きっと真面目さが取り得の武士達も、こんな風に文章を書いていたに違いない。僕は心のどこかでそう思っていた。
「あの時さ、」
「何よ?」
「……いや、何でも無い」
僕は頭を横に振った。
今さら何を思うと言うのか。
あの時。先生をマジギレさせたあの瞬間に、帰れるはずも無いと言うのに。
時は戻らない。僕のセリフも変えられない。
流れる時の中で。
僕に出来るのは、この反省文を書くことである。
ケ・セラ・セラ。
なるようになるさ。
例えこの四百字の誠意が、丸めてゴミ箱に投げ捨てられる為だけにあるとしても。
「むうう……! 無念でゴザル……!」
「いいからさっさと書きなさいよ」
夕日に埋まる教室の中。
無情・無慈悲・無感動な冷蔵子さんの言葉に促されながら。
僕は四百字分の誠意を、何とか書こうと足掻いた。
しかし足掻けば足掻くほどに、僕は言葉を失っていく。
窓の外が徐々に暗くなっていた。
夜の無常が迫る。果たして先生はまだ居るのだろうか?
あの職員室に。僕の反省文を待つためだけに。
待つと言えば、どうして彼女は僕を待っているのだろうか?
チラリと隣に立つ冷蔵子さんに視線を向ける。
僕を憐れむ彼女。そして、彼女に憐れまれる僕。
それがどんな関係かと言われれば、そんな関係、と言わざるを得ない。
なるように、なるさ。
僕はペンを握り締めた。
目の前に眼前と聳える反省文用の原稿用紙を眺めて、不敵に笑う。
書いてやるさ。とびっきりの反省文を。
決意と共に。
文章を書き出そうとした僕の手を、教室のドアが開く音が止めた。
思わずドアの方を見ると、そこには件の先生が立っていた。
年齢的にはもう厳しいタイトなスカートを、最後の砦のように誇る彼女は。
眼鏡の奥の鋭い瞳を僕らに向けて言った。
「おお、まだ残ってたのか。それで反省文は書けたか?」
「今から続きを書くところです。武士の名にかけて、とびっきりの美文を書いてみせますよ……!」
「お、おお?」
僕の熱意に怯んだかのような先生は、冷蔵子さんにチラリと視線を向ける。
そして僕と冷蔵子さんを交互に眺めた。
「ほう……そういう事か」
どういう事かは理解できなかったが、何故か先生はニヤニヤと笑い出した。
「青春、か。いいね、若さってやつは」
「先生にはもう無い物ですもんね」
思わず放った僕の一言が、止まるはずの無い時を止めた。
全てが静かだった。僕も、先生も、冷蔵子さんも。静かなままだった。
カラン、と悲しい音が響いた。僕の手から滑り落ちたペンが、冷たい床に転がり落ちる音だった。
「そうか。貴様はそんなに私を怒らせたいのか……!」
怒り狂う先生の前で。
たとえやり直せないにしても、もっと冴えたやり方を考えておく必要はあるなと。
僕は痛烈に感じていた。