79日目 あなたがお爺さんになっても
先生、崩御。
などという冗談はさすがに不謹慎であるが、急病を患った日本史の先生の代役は、平安時代の天皇家の後継問題の如く難航したようだった。
つまりは代役が決まらず、先生が立つべき教壇は空席のままだった。
これがお家問題に発展しなかったのは、ひとえに日本史の時間を自習にすればいいだけだったからである。
降って湧いた突然のフリーダムを持て余し、僕は冷蔵子さんと無駄話を交わしていた。
「そう言えば、あなたのお爺さんは変わり者だって話だったわね。あなたに似て」
「うん、まあそうだけど、最後のセリフは訂正してもらえないかな?」
「あら。ごめんなさい」
素直に肯く冷蔵子さん。
こういった時間や昼の一時だけでなく、短い休憩の合間にも彼女との会話は増えていた。
教室の中の誰でも無く、僕と話を続ける理由は何なのか?
彼女なりの理由があるのだろう。そんな事をとり止めも無く考えていると、彼女は僕に詫びる様にして言葉を訂正した。
「お爺さんがあなたに似ているんじゃなくて、あなたがお爺さんに似ているのよね」
「いやそうじゃない! 僕が変わり者だっていう所を訂正して欲しいんだ!」
「え? なんでかしら?」
何の疑問も、悪気も無い目で僕を見返す冷蔵子さん。
その無垢な視線に僕は打ちのめされていた。
「何て真っ直ぐな瞳で僕を見るのさ!? 正直、僕はショックが隠しきれないよ……!」
クソッ、認識を変えさせなければ……!
僕は決して変わり者なんかじゃない! 至って普通の高校生さ!
しかし彼女の意思は強固そうだった。
まるで地球が自転しているのが当たり前みたいな感覚で、僕の事を変わり者だと信じているらしい。
果たして僕は彼女の認識を改める事が出来るのだろうか?
海よりも深く山よりも高い難題を前に、僕は頭を抱えた。
「ねえ。あなたがお爺さんになった時、どんな風になりたいの?」
唐突にそんな話題を振られた僕は、とりあえず認識問題は棚上げした。
冷蔵子さんは自分の席に着き、頬杖を着いている。見慣れたポーズだ。
そんな彼女の前の席を間借りした僕は、イスに横に座りながら彼女と相対していた。
目の前に流れる金色の髪。それを何となく目で追いながら答える。
「大人をすっ飛ばしていきなり老後の話? まあ良いけどさ」
老後、ねえ。
果たしてどんなジイさんになりたいのかと訊かれて、即答できる人は少ないだろう。
そのご多分に漏れず、僕もまた頭を悩ませた。
しばし考える。ジジイ、ジジイ。
憧れのジジイと言うキーワードに該当する人物を探す。
しかし特にジジイにこだわりは無い。
僕の脳内ストック画像は直ぐに底を尽きた。
仕方無い、考え方を変えてみよう。
憧れのジジイでは無く、憧れの生き方に該当する人はいないか?
再び考え込む。すると、ふと思いついた顔があった。
「そうだねー。実は憧れている人が居るんだ」
ようやく思いついた人物を頭に思い浮かべながら、僕は言った。
そんな僕の言葉に、冷蔵子さんは興味深そうに訊いてきた。
「ふうん。それって誰かしら?」
「いや、個人って訳じゃ無いんだけどね」
「何よそれ? 何かの団体かしら?」
疑問符を顔に浮かべる彼女に、僕は首を横に振った。
個人でも無い。かと言って何かの団体でも無い。
説明の仕方に苦労する僕に、彼女はジト目になりながら言った。
「もう。クイズじゃ無いんだから、はっきり言いなさいよ」
さてはて、どう言ったものやら。
ここで軽やかに説明できれば良いのだろうが、生憎と僕の脳はそこまで効率よく回転してはくれないらしい。
結局下手くそな説明になるなあ、と内心で苦笑しながら、僕は言った。
「実は僕って、洋楽聴いたりもするんだ」
「ほえ? いきなり話が飛んだわね」
……ほえ?
なんか冷蔵子さんの口から「ほえ」とか聞こえた気がするけど、気のせいだよね?
彼女がそんな可愛い口調で喋るはずが無いのだ。
物理的にありえない現象を思考の中から追い出しながら、僕は話を続けた。
「音楽の宣伝用映像ってあるでしょ? それが短い映画みたいになっててね」
「ふうん。そういうのもあるのね」
「そこにとんでも無い爺さん達が出て来てさあ。街で悪戯を繰り広げるんだよ」
ようやく本題に入れた僕。
冷蔵子さんもようやく納得がいったらしく、僕に話の続きを促して来た。
「へえ? 例えばどんな悪戯をするの?」
「落書きしたりさ、ゴミ箱を蹴っ飛ばしたり。とにかく小学生みたいな悪戯を繰り広げるんだ。そんな爺さんに憧れるなぁ」
「あなたって、幾つになっても傍迷惑なのね」
くすくす、と笑う彼女を、僕は半眼で見返した。
いいじゃないか、人がどんな生き方に憧れたって!
クソッ、あの宣伝用映像の素晴らしさを知れば、きっと彼女も認識を変えるだろうに。
それがこの場では実現不可能な事に臍を噛みながら、僕は彼女に向かって言った。
「それで、君はどうなのさ?」
「私?」
「そう。どんなお婆さんになりたいの?」
「そうねえ……」
短くそう呟くと、ジッと僕の顔を見る。
何だ? 何が言いたいんだ?
無言で見つめられていると居心地が悪くなる。
そんな立場に耐えかねて、僕は晴れた冬の空のような目を向けてくる冷蔵子さんに尋ねる。
「……何さ?」
問いかける僕に、彼女は薄く微笑んだ。
それはどこか含みを持った笑みだったが、僕にはその裏側に潜んだ感情を読み取る事は出来なかった。
頬杖を着いていた手を崩し、胸の前で組んだ彼女。
どこか挑むような目を僕に向けながら言った。
「貴方がずっと悪さを続けるなら、ずっと隣に居て怒る人も必要でしょう?」
「ガミガミおばさんか」
「ガミガミ!?」
驚愕の悲鳴を上げる冷蔵子さんに、僕は詳しい説明を続けた。
「子供の頃にそんな人が居てね。得意技は唐辛子を投げつける事なんだ。別名は辛党の魔女」
「何で私がガミガミおばさんなのよ! 認識チェンジを要求するわ!」
「むう!? 斬新な意見だね!?」
「全く、もう」
そう呟くと、彼女は怒ったようにプイっと横を向く。
美しい彼女の横顔は、まるで映画の一シーンのように映えた。
あれだね、肌のキメが細かいと、妙に目を惹く。
まるでそこだけ彩度が違うかのように。
冷蔵子さんのその美貌は、周囲の空気すら変えているように見えた。
空間も支配しているのだろうか?
彼女の周りの時間が、スロー・モーションのように美しく流れている。
さらりと揺れる金色の髪が、光の残滓のような軌跡を描いた。
「私はね、思うのよ」
やおら改まった口調になると、彼女は横を向いたまま言葉を続けた。
「お爺さんやお婆さんになった時に、後悔しない生き方。それが大事だって」
「へえ、僕は違うな」
真っ向から彼女の言葉を否定する僕。
そんな僕に、ゆっくりと彼女が視線を向けて来る。
まだ少し怒っているのだろうか?
むっつりとした顔で僕を見る冷蔵子さんに、僕は不遜な笑みを浮かべて言った。
「僕はね。例え後悔していても、自分を笑って許せるような。そんなジジイになりたいんだ」
ニヤリと笑いながら、僕は冷蔵子さんを見つめた。
きっとこんな時に浮かべる表情は、子供の頃から変わっていないに違いない。
そんな僕に対し、彼女は吹き出すようにして笑った。
悔しいが笑ってしまった。そんな感じの笑みだった。
後悔しない生き方なんて無いのだ。
誰だって、何かの後悔を背負いながら生きて行く。
それでも。僕は思う。背負った物を投げ捨てるでも無く、笑って見たいと。
こんな荷物くらい、人生の味の一つだと。そう言って笑える爺さんになりたいと願った。
そんな気持ちが、そんな僕の願いが。
彼女に伝わった事が分かって。
僕は笑った。悪戯が成功した子供のように、得意気な調子で。
そんな僕を困ったように見つめながら。彼女もまた、堪えきれ無い様子で微笑み返すのだった。
「ちなみに家のジイちゃんは、山で遭難しても笑ってたよ」
「……あなたのお父さんの苦労が、目に見えるようだわ」