77日目 トリック・オア・トリート
朝起きたら、体が虫になっていた。
とある有名小説の出だしの一文ではあるが、作者であるフランツ・カフカが何を思ってそのようなストーリーを描いたのかは謎だ。
少なくとも、変身ヒーローを目指したのでは無かろうと推察される。
不穏な日常。鬱積した思いを物語に託したのだろうと思う。
突然体が虫になったらどうなるだろうか?
とりあえず驚くだろう。家族は言葉を無くし、友人も己の目を疑うだろう。
どこぞの学会だけは喜ぶかもしれない。いや、それは蛇足か。
色々前置きが長くなってしまったが、さて何が言いたいのかと言えば、僕は驚いているのである。
言葉を無くし、己の目を疑っている。
視線の先には絶対零度の瞳を持つ雪女、冷蔵子さんの可憐な姿がある。
いつもの部屋に、見慣れた存在。
だからこそ、拭い難い違和感がまるで街頭演説カーの如く、存在感を誇っている。
あのクールな冷蔵子さんが。
いつも怜悧で、僕を小バカにする冷蔵子さんが。
猫ミミを生やしていた。
ゴクリと唾を飲み込みながら観察する。
どうやら猫ミミ付きのカチューシャであろうそれは、恐らくはパーティーグッズの一つだと思われた。
猫ミミを装着しながら、黙々と持参した本を読む彼女。
……ジョークのつもりなんだろうか? いや、もしかしたら何かの宗教儀式かもしれない。
下手に猫ミミの事を指摘したら薮蛇かも知れないな――。
僕は硬直した体を再起動させると、一言も喋らずにそこらの席に腰を下ろす。
カチッ、カチッ……。聞こえるはずの無い時計の秒針の音が、頭の中に響いている。
一体ここはどこなんだろう? 僕らの地球はどうなってしまったのか?
現実感が、海岸に立てられた砂像のように崩れ、喪失していく。
よくよく考えれば、冷蔵子さんが猫ミミを付けるなんてありえないのだ。
ではこれはどういう事象だ? 僕は何を疑い、何を信じればいいのか?
分からない。何も分からない。僕には何も分からないんだ。
恐る恐る、冷蔵子さんの方を振り返った。
彼女の頭頂部にはやはり、猫ミミがあった。
いよいよ僕が恐慌に陥ろうとした時。
視界に映る猫ミミが、その装着者ごと動いた。
「早くツッコミなさいよ!」
「ええっ!? ツッコんで良かったの!?」
怒りに顔を紅潮させながら訴えてくる冷蔵子さん。
僕からのツッコミ待ちだったのか、気付かなかったぜ……!
彼女はせっかくのボケを潰された事に憤っていたが、すぐに気を取り直したようだ。
自分の頭に装着した猫ミミカチューシャを指差しながら言う。
「たまたまツテから手に入ったのよ」
どんなツテだよ。
思わずツッコミそうになったが、強張る体が言葉を押し止めた。
ああ、そうなんだ。と無難に返事をすると、彼女は嬉しそうに笑った。
それはあたかも、悪戯が成功した猫のような表情だった。
「どう? 意外な感じだったでしょう?」
「意外というか、異界に迷い込んだのかと思ったよ」
ようやく冷静さを取り戻してきた頭で、ここに居ないもう一人の事を考えた。
いつも無造作に佇んでいる先輩の姿を探しながら、僕は冷蔵子さんに訊いた。
「そう言えば先輩は?」
「あそこよ」
彼女の指差す先には、巨大なクマのぬいぐるみがあった。
うおっ、こんなのあったのかよ!?
どうやら冷蔵子さんの猫ミミ姿を見た時点で、僕の空間認識能力はリミットをオーバーしていたらしい。
改めてそのぬいぐるみを見ていると、不意にその手が動いた。
「……先輩?」
僕の言葉に反応するように、クマがゆったりと手を振る
どうやら中に先輩が入っているようだ。
そのまま無言でクマの着ぐるみを着込んだ先輩の姿を見つめる。
「……もしかして、それを着るのが気に入ってるんですか?」
こくこくと首を振るクマ。
そして一言も言葉を発さない。
ジェスチャーのみで相対してくる先輩に戸惑いながら、僕は冷蔵子さんに訊いた。
「あんなのどっから持って来たの?」
「あれも知り合いからよ。古いし造形がリアル過ぎて受けが悪いって事でもらったんだけど、私も扱いに困っちゃって」
「そりゃ困るだろうね……」
現時点で言えば、僕も先輩の扱いに困っている。
先輩とどう接すれば良いんだろうか?
着ぐるみの中の先輩は、声を外に出すのが大変なんだろう。ジェスチャーのみで会話してくる。
出来れば言語によるコミュニケーションに復帰してもらいたいところだ。
対人コミュニケーションにおける言葉の大切さを痛感する僕。
そんな僕に、冷蔵子さんがどこか自慢気に言ってきた。
「どう? たまには仮装パーティーもいいでしょう。退屈な日常に刺激をね、って」
愉しそうに笑う彼女だが、強すぎる刺激は日常を破壊してしまうのである。
例えば、バアちゃんがストリートファッションに身を包んでスケボーをしたらどうなるか?
確実に妖怪伝説が生まれるだろう。もはや刺激的な日常では無く、刺激的な怪談である。
猫ミミを付けた冷蔵子さんは、それに勝るとも劣らない刺激を発していた。
「仮装というより仮想だよ。まるで異次元みたいだもん。ヴァーチャルリアリティに近いよこれ」
「ふふん、現実である限りヴァーチャルという言葉は不適切よ?」
「さいですか」
「こういう時はね、こう言うのよ? トリック・オア・トリート!」
やけに上機嫌な冷蔵子さんは、ハロウィンの子供のように僕に微笑を向けた。
いや、うん、可愛いんだよ?
猫ミミを装着しながら微笑む彼女は、贔屓目に見ても普段の三倍くらい可愛かった。
密かに展開する彼女のファンクラブが、泣いて喜ぶほどには貴重な姿と言えるだろう。
でもね、僕の魂が拒絶するんだ。
ここは僕の居た世界じゃないってね。
……早く元の時空に還りたい。
「あら? 何だか元気が無いわね」
「いやそんな事無いよ。ヒーヤッホー!」
僕は無理矢理テンションを上げた。
恐怖から逃れるには二つの道があるという。
一つは、恐怖と対峙する事。
そしてもう一つは、恐怖と一体となる事だ。
異次元空間と一体になりながら、僕は叫んだ。
恐怖を、迷いを。ありとあらゆる苦悩を忘れるために、声を嗄らして叫ぶのだ。
「さあハイキングに行くぞ! 山には何がいるかなぁ!!」
「ちょ、ちょっと?」
「ヒーホー!? 熊と猫がいるぜヒャッハー!!」
「ねえ!? さっきからテンションおかしいわよ!?」
冷蔵子さんが叫ぶ。
確かにおかしい。いや、おかしいのはこの世界だ!
改変された世界を正すため、僕はドン・キホーテのように駆けた。
「父の仇ー!!」
謎の宣言と共に、熊に立ち向かう。
猛然と挑みかかる僕を、容赦ないベア・ナックルが襲った。
チッチッチ、と器用に指を動かす熊の前で、僕は転がり倒れた。
「ねえ!? あなた一体何がしたいの!?」
倒れ伏す僕の傍らに、寄り添うようにしてしゃがみ込む冷蔵子さん。
そんな彼女に、僕はニヒルな笑みを返した。
「世界が何だかおかしいんだ……」
「おかしいのは確実にあなたの方よ!?」
視界に映る世界は、零れるほどに美しかった。
冴えた月のように綺麗な冷蔵子さんの顔が、目の前いっぱいに広がる。
震える睫。大きな瞳が揺れている。
「ふふ……そうかもしれないね。キミはいつものように微笑んでいるのに……なんだか、僕は世界に取り残されているんだ」
床に倒れながら、僕はそっと彼女の顔に手を伸ばした。
拒まれるかと思ったが、指先はそのまま彼女の頬に触れた。
現実を確かめるように、そっと頬を撫でる。柔らかな感触が指先に残った。
夢見るようなまどろみの中。僕はそっと呟いた。
「母に伝えて欲しい。あなたの息子は、最後まで立派だったと……!」
「伝えないし、そもそも何の話なのよ?」
「決まり手はベア・ナックル。千秋楽に初黒星だったと」
「何で相撲なの!?」
何故だろう? その答えを僕は知らない。
着ぐるみ姿の先輩。猫ミミ装着の冷蔵子さん。力士となった僕。
カオスな状況を何一つ変える事無く、世界は今日も周っていた。