74日目 グッバイ・アーチ
「天下を取るってのはね、天下を取ろうとしちゃダメなのよ」
「なにそれ? とんち?」
「そうじゃないわ」
いつもの部屋の中で、僕と冷蔵子さんは天下について語っていた。
先輩は、そんな僕らを興味深げに眺めている。
それにしても、どうして僕らは天下論を唱えているのだろうか?
その答えは簡単だ。
そう、僕らはいつでも天下を狙っている。そういう事だ。
「例えば木曾義仲って知っているかしら?」
冷蔵子さんの言葉に、僕はしばし考え込んだ。
木曽。木曽と言えば紙作りで有名な地だ。
恐らくそれ関係の、人間国宝か何かの人名だろう。
「紙作りで有名な人だっけ?」
自信満々に答えると、彼女は大袈裟に肩を落としてみせた。
深い溜息を吐きながら回答を呟く。
「違うわよ。源氏の武士の一人で、源義仲とも言うわ」
「巴御前との話が有名だよね」
嬉しそうに言葉を挟む先輩。
そんな先輩に冷蔵子さんが返事を返した。
「そうね。女武将としての巴御前……っと、それはまたの話ね」
「ええー?」
不満げな先輩から視線を逸らしながら。
冷蔵子さんは息を整えるようにして、再び僕に話を振ってくる。
「こほん。源氏と平氏の戦いくらいは、あなたも知っているでしょう?」
「そりゃあね。驕る平家は久しからずだっけ?」
「そう、平氏は源氏に破れるのよ。まず最初に平家を都から追い出したのが、誰あろう木曾義仲なのよ」
「へぇ。そんな人が居たんだ」
源平合戦は当然知っているが、細かい武将の名前までは覚えていない。
平清盛、源頼朝の他は、義経と弁慶くらいかな?
僕は覚えている限りの武将の名前を思い浮かべた。
義仲ねぇ。全く知らないや。
聞き覚えの無い武将の名前を反芻する僕に、冷蔵子さんは人差し指をピッと立てながら言った。
「でも彼は、その後すぐに死ぬことになるわ」
「平氏の逆襲でも受けたの?」
「違うわ。同じ源氏から討たれたのよ」
「骨肉の争いだね」
源氏同士で争っていたのかよ。
なんだよ、てっきり平氏とだけ戦ってるのかと思ってたよ。
身内ですら纏まれない人の業。
そんな物に悲哀を寄せていると、冷蔵子さんが説明の続きを始めた。
「一口に源氏と言っても、色々あるのよ。それで、私が言いたいのはね、天下を取ったのは義仲では無く頼朝と言う事よ」
「……頼朝の方が強かったの?」
単純に考えればそういう話になる。
しかし冷蔵子さんは首を振った。
「そうとも言い切れないわ。一時期は、義仲が都を手にしていたのだから。けれど、義仲は天下を手中にする事は出来なかったのよ。それが何故だか分かるかしら?」
「はい! 全く分かりません!」
元気良く手を挙げて言う先輩。
何だか無理矢理感があるが、そんなに話に加わりたいのだろうか?
僕なんて、知らない武将の名前が出た時点でやる気ゼロだと言うのに。
綺麗な姿勢で手を挙げる先輩に、苦笑を隠しながら言った。
「先輩は力押しするタイプですからね」
「全く……。パワーオンリーと考え無しね」
「ええ!? 私ってパワーオンリーって見られてたの!?」
驚愕の表情を浮かべる先輩。
そんな先輩に向かって、僕は嗜めるように言った。
「もうちょっと考えて行動しましょうよ」
「……考え無しは、あなたの方よ?」
「ええっ!? 智将とも呼ばれたいこの僕が!?」
なんだと!? 考え無しって僕の事だったのか!?
冷蔵子さんからの冷たい指摘に愕然とする。
「呼ばれたいって、それじゃただの願望じゃないの」
呆れ顔で僕にそう告げながら、彼女は解説を始める。
くそう、僕らの受けたショックなど、どうでも良いという事か!?
その氷細工のような美貌を眺めながら、僕は密かに拳を握り締めた。
「私が思うにね、源頼朝や織田信長は、天下を取る事が目的では無かったのよ」
「ええー? 何それ。逆説の日本史?」
「別に逆説を言っているわけじゃ無いわ」
先輩の指摘を軽く受け流す冷蔵子さん。
いよいよ興が乗って来たのか、その瞳を白銀のように輝かせている。
聴衆に向けて演説をする独裁者のように。
不思議と目を引く気迫を醸しながら、自論を展開した。
「つまりね、彼らはもっと別の哲学を持って行動し、それを成す為に天下を取る必要があったと私は想像しているの」
「なるほど、分からん」
「あなたね……」
冷蔵子さんは顔に手を当て、頭痛に耐えるように呻いた。
そんな彼女に対し、再び先輩が元気良く手を挙げた。
「あ、はーいはーい! あれかな? 将を射んと欲すれば、まず馬を射よってやつ?」
先輩の言葉に、冷蔵子さんは肯いた。
顔に当てていた手をどけると、ようやく調子を取り戻したように自論の続きを話した。
「そうね。天下を取ると言うのは過程であって、きっとそれが目的では無いのよ」
そしてチラリと僕を見る。
うわあ。なんて冷たい目なんでしょう。
以前にもこんな目で見られた事があるなぁ。
あれはそう、かつて彼女と一緒に掃除をしていた時だった。
その時僕は、彼女から雑巾を見る様な目で見られたのだ。
共に雑巾のように扱われた賢者くんは、今頃何をやっているんだろうか?
……一矢報いねば。
僕は拳を握りこんだ。そうだ、これは僕一人の問題じゃない!
冷蔵子さんから冷たい視線を向けられたありとあらゆる存在の為に、立ち上がらなければならいのだ!
そのためにも、正鵠を射た言葉を放たなければならない。
決意を胸に。僕は一打逆転の場面のバッターよりも、真剣な表情をして言った。
「……相撲に勝って勝負に負けるってやつ?」
「微妙に違うわね」
「ぐぬぬっ!」
あっさりと否定され、僕の決意も霧散する。
拳を握り締めて悔しがる僕に、先輩が囃し立てるように言って来た。
「やーい! 負け犬ー!」
「負け犬!? 今のやり取りだけで、早くもそんな評価ですか!?」
「全く、駄犬には困った物ね」
「駄犬!? 未だかつてそんな悪口言われた事無かった!!」
低落していく評価を前にして。
駄犬という二つ名を手にした僕は、拳を硬く握り締めるのだった。