71日目 リチャード
「今日さあ、英語の先生が訳分かんない事を言い出したんだよ」
「どんな事ですか?」
「英語名を付けてみようって」
「英語名?」
何の気無しに一風変わった授業の事を話し出す先輩。
ふむふむと耳を傾ける僕と、あっさり無視しながら本を読んでいる冷蔵子さん。
先輩はイスの背もたれを抱えるようにして座りながら、話を続けた。
「もしもアメリカに生まれていたら~って設定で、英語風の名前を付けて会話してみましょうって」
「何ですかそれ?」
意味がよく分からない。英語風の名前?
英語風の名前を付ける授業に、英語力向上の秘訣があるのだろうか?
僕は自問自答した。……そんな利点、無いんじゃないの?
それになんで、もしも設定で授業を受けないといけないんだ?
「日本の英語教師はピントがズレているのよ。夢見がちで、的外れな方向へ努力しているわ」
仮定から始まるカリキュラムに首を捻る僕の耳に、冷蔵子さんの冷酷な指摘が聞こえてきた。
だよね、そうだよね。英語風の名前なんか付けたって英語が上手くなるとは思えない。
そう考えると見当外れの授業だ。
僕は冷蔵子さんに視線を向ける。
金髪、碧眼の見目麗しい彼女は、実は英語が下手だったりする。
日本の伝統文化をこよなく愛する彼女は、外来文化に消極的だったりする。
将来的に英語を使う場面もあるかもしれないよ? と言った僕。
そんな僕に対し、「シャラップだけ覚えていれば良いわ」と言い切った彼女。
その大胆さに少し惚れそうだった。
「辛辣だね。まあ君は英語苦手だからなぁ」
「教え方が悪いのよ。何が英語は怖くない、よ。私は英語が怖いんじゃなくて、キライなのよ」
ブツクサ文句を言う冷蔵子さんから視線を離しつつ、僕は先輩に話しかけた。
「それで、先輩はどんな名前になったんですか?」
「うん、私はテレサだったよ」
「マザーな感じの名前ですね」
「テレサって英語名だったかしら?」
何やら指摘する冷蔵子さん。
う~ん、改めて考えると、英語の人名なんて知らないもんなぁ。
そう考えると、もしかしたらテレサって英語じゃないのかも。
まあ横文字なら英語でいいじゃん? なんて思いながら僕は言った。
「それでテレサ先輩。英語名で授業を受けて、何か効果はあったんですか?」
「うんとね、外国人気分が味わえたよ」
「お気楽なものね」
興味無さそうに呟く冷蔵子さん。
しかし僕はと言えば、彼女とは対照的に興味が湧いていた。
外国人気分。ちょっと味わってみたい。
今この瞬間を生きるため、僕は思った事をそのまま口にした。
「ちょっと面白そうですね。僕らもやってみましょうか」
「やるって何を?」
「英語名ですよ。普段とは違った気分になって楽しいかもしれませんよ?」
「また馬鹿な事を……」
半眼になりながら、呆れ顔で僕を見る冷蔵子さん。
そんな彼女に対し、僕は思いついた英語名を上げてみた。
「そうだな。君はアリスって名前でどう?」
「……好きに呼べばいいじゃない」
あれ? 割と気に入ったみたいだ。
否定せず、アリスという名前を受けれた彼女に僕は驚きを感じていた。
案外、少女趣味な所があるんだな。
僕がまじまじと冷蔵子さんことアリスの顔を眺めていると、先輩が急に挙手しながら宣言した。
「はい! はい! じゃあさ、少年には私が付けてあげるよ!」
どうやら僕の名前を考えてくれるらしい。
元気良く手を上げたテレサ先輩は、得意満面な顔で僕を見ている。
部下に名前を与える戦国武将のようなつもりなのかもしれない。
「リチャード! 君はリチャードだ!」
リチャードか。僕は小さく口の中で呟いた。
リチャード。悪く無い名前だ。
背が低かったり、キレやすかったり、顔がやたらイケメンな英国人を思い浮かべる。
そう言えばリチャードが出ている車番組は、今は何シーズン目だったかな? などと考えながら、僕はテレサ先輩に尋ねた。
「それでテレサ先輩、これから何をしますか?」
「ええ!? 何にも考えて無いよ!?」
「そもそも、あなたが言い出した事でしょう?」
おいおい、この反応は何さ?
オーバー・アクションを取りながら嘆く僕。
そりゃ僕が言い出した事だけどさ、皆ももっと参加してくれてもいいじゃない?
どんどん意見を言って欲しいしさ。
だが、どんなに待っても二人は黙したままだった。
まるで今の僕は、どしどし意見を応募してみたものの、全く意見をもらえないラジオDJのようだ。
そんな悲しみを込めながら。冷たい視線を向けてくる冷蔵子さんことアリスへ、饒舌な口調で話しかけた。
「ヘイ、冷たいじゃないかアリス。僕と君との間じゃないか」
「ど、どんな仲だって言うのよ!」
何故か慌てるアリス。
僕は構わずに近付くと、両手を「パンッ」と合わせてから手のひらをアリスへと向けた。
「恥ずかしがらずにほら、ハイタッチしようぜ! ヒーホー!」
「あなた悪ノリし過ぎよ!?」
ノリが悪いなあ。
そんな事を思う僕に対し、テレサ先輩はアリスと同意見のようだった。
胸の前で腕を組むと、僕を嗜めるような視線を向けてくる。
「そうだね、リチャードは少……ぶふっ!」
「先輩?」
突然吹き出した先輩に、僕は素に戻りながら訊いた。
先輩は笑いを我慢するように肩を震わせている。
今のやり取りの何が笑いのツボに入ったんだろう?
訝しむ僕に対し、先輩は顔を紅潮させながら言った。
「いやだって、その顔でリチャードって……ぷっ……くすくす!」
「先輩が付けた名前ですよ!?」
あんまりと言えばあんまりだ。
抗議する僕に対し、アリスは無慈悲に告げてくる。
「リチャード、あなたの生まれを嘆きなさい」
なんで仮初の名前の事で、出生まで遡って苦悩しなければならないのか。
僕はヨヨヨ、と泣き真似をしながらアリスに言った。
「酷い! 何か最近、アリスが僕に冷たい!」
「リチャードが馬鹿だからよ」
傲然と言い放つアリス。
アリス、いやあえて冷蔵子さんと呼ぼう。
彼女には容赦という言葉が無いんだろうか?
無いんだろう。自己完結しながら、僕はそっと彼女の手を両手で握った。
驚く彼女に対し真摯な視線を返しながら、甘く囁くように呟いた。
「ヘイ、アリス。僕達には話し合いが必要だと思うんだ」
「何で手を握ってくるのよ!? まだそんな関係じゃないでしょ!?」
「ハハハ、アリスはシャイガールだナ!」
「……その口調やめてくれないかしら? すっごく疲れるんだけど」
ぐったりとした表情をするアリス。
さあてこれからどんな風にからかってやろうか?
そう考えている僕の耳に、先輩の立てる含み笑いの音が聞こえてきた。
遂には破顔し、爆笑した先輩は、ケラケラと笑いながら僕を指差した。
「リ、リチャード……ぶはっ! その顔で色男のつもりだ!」
「ヘイ、テレサ! その顔でって言うのは止めておくれ! マジでヘコムから!」
「ぶふふ……リチャード、リチャード!!」
「僕の存在そのものを笑ってますよね!? 先輩!?」
腹を抱え、机をバンバン叩きながら笑い声を上げる先輩と。
ぐったりと疲れた表情を浮かべる冷蔵子さんの間で。
僕はリチャードの尊厳を守るため、立ち上がるのだった。