67日目 虹の向こうへ
「あれ?」
ガラリと音を立てて入った部屋は、いつもより寂しい印象だった。
雨上がりの日差しが差し込む部屋の中には、一人黙々と本を読む冷蔵子さんの姿のみ。
もう一人の住人である先輩の姿がどこにも見えなかった。
キョロキョロと部屋の中を見渡しながら僕はイスに着いた。
う~ん、どうにも物足りない。
何ていうんだろう? マスタードだと思ったらクリームだった感じ?
ピリッと来ないというか、刺激が足り無い。
劇物のように刺激的な先輩の姿を探しながら、僕は冷蔵子さんに訊いてみた。
「先輩は来てないの?」
「来たわよ」
本から視線を移さずに。
あっさりそう告げると、彼女はようやく視線を僕に向けた。
そして再び視線を外すと、窓の方を向いた。
窓の外を指で示しながら彼女は言う。
「あの虹が見えるかしら?」
どらどら?
僕は窓に近付いて外の景色を眺めた。
ああ、確かに虹が見える。
灰色のコンクリートの間から山の方へと向かってリングの上端が見えた。
雨が上がった空に差し込む日光。それが作り出すアートだ。
珍しいと言えば珍しい。美しいかと聞かれれば美しいと答えよう。
七色に見えるかと聞かれれば「そうなんじゃない?」と答え、根元に宝があるかと問われれば「知らない」と告げよう。そんな思いを抱きながら。
「おお虹だ、わーい」
僕は冷蔵子さんの指差す虹を見つめながら、無感動に呟いた。
「……なんで棒読みなの?」
「いや、この年になって虹で喜ぶのもあれでしょ? でも折角、君が小学生みたいに虹で喜んでるんだからさ、僕も一応喜ぼうかなって」
「別に喜んでるわけじゃないわよ!」
「じゃあ何で虹の話なんか始めるのさ?」
「だから、あの先輩の事よ!」
「先輩の?」
不機嫌そのものと言った表情を浮かべる冷蔵子さんに、僕は問い返す。
虹と先輩がどう繋がるんだ?
いや、並べられた単語を鑑みるに、普通に繋がりそうなのが怖い。
数々の珍事と共に、マジカルドリーマーな先輩の顔を思い浮かべる僕。
そんな僕の隣に立つ冷蔵子さんが説明を始めた。
「あの人、虹の向こうを追いかけて来るって言ってたわよ。多分、あの辺りを走っているんじゃないかしら?」
そう言って彼女はどこか遠くを指差した。
地平の果てに浮かぶ雲は雄大で、そのさらに上空には虹が架かっている。
どこか御伽話のようなノスタルジーを感じながら、僕もまた遠くを見つめた。
この風景のどこかに先輩が居る。虹の果てを探して、駆け巡る先輩が。
「先輩、オズの国にでも行く気なんだろうかね?」
「知らないわよ」
ツンとした声でそう告げると、彼女は再びイスに着いた。
読みかけの本に目を戻す冷蔵子さん。
僕はそんな彼女の姿をぼうっと眺めがら、ぼんやりと訊いた。
「本を読むのってそんなに面白いの?」
「暇潰しよ。でも、あなたは少し本を読んだ方がいいんじゃないかしら」
「えっ? 何で?」
「偶に意味不明の単語を使いだすでしょう? 変よそれ」
変だと!?
いやそんな馬鹿な。仮に僕が変な言葉を使ったとしても、それはギャグであり、退屈な日常生活にちょっとしたユーモアを与える為の行為である。
決して変な行いでは無いはずだ!
湧き上がる憤りと共に、僕は冷蔵子さんに猛然と反論をする。
「いや僕は出来る子だよ! 日本語がペラペラなのが自慢なんだもの! やろうと思えば古語すら使いこなせそうな気がする!」
「気がする、って言ってる時点で自信が無いんじゃないのかしら?」
「ぐぬう!? そこまで言うなら実践してみせようじゃないか!」
「ふうん、どうやって?」
いつしか冷蔵子さんは腕を組んでいた。
片目を閉じ、余裕綽々の態度で僕を見下している。
王者か。この娘は王の一族の生まれなのか。
王族のような傲岸不遜さを全身で表す彼女。
それに対し、僕は革命を目指す青年文学者のように叫んだ。
「君の容姿を作文用紙一枚分くらいの言葉を使って表現してやるよ!」
「……。やってみなさいよ」
冷蔵子さんの容姿を長ったらしく語るために、僕は彼女の姿をまじまじと観察した。
まず金髪と碧眼が目に付く。
思わずハウアーユー? なんて話しかけてしまいそうになる感じだ。
最初の頃は彼女を見るたびに自分の英語力に不安を覚えたものだが、日本語が通じるので要らぬ心配をする必要は無かった。
しかし、彼女が日本語を話したら話したで「日本語がお上手ですね」なんて感じてしまうのは何故なのか。不思議で仕方が無い。
僕だって日本語は堪能だが、一度も褒められた事は無いし褒められたいとも思わない。
……いや、脱線するな僕。母国語の話は容姿には関係無い。もっとルックアットミー。彼女の容姿に注目するべきだ。
改めて彼女の容姿を観察する。青い瞳の上には、意思の強そうな眉。
二重瞼の目は吊り上がり気味で、彼女の冷たい印象を加速させている。
まさに冷酷、冷徹、怜悧と言った単語が相応しい。
白雪のような彼女の肌が、そんなイメージを押し進めていた。
極寒、低温、零度という二文字も似合うもので、皆から冷さん、なんて呼ばれるのも納得だ。
シャム猫のようにツンと澄ました目つき。
それだけなら親しみは湧かないだろうが、なだらかな頬が幾分か印象を和らげていた。
そんな微妙なバランスが彼女の人気を支えているのかもしれない。
すらっと通った鼻梁。その下には、どこか拗ねたような唇が見える。
この桜色の唇から、数々の辛辣な言葉を浴びせかけられた事を僕は忘れない。
黙ってれば可愛いんだけどなぁ。
でも黙っていると、不満そうに唇を歪めるんだよなぁ。
世の中ってままならないもんだな。
僕は何かを諦めながら、肩口へと伸びる彼女の髪へ視線を移す。
長い金髪は左右で二つに結ばれていた。
結んでいる位置がかなり低いので、ツインテールとは呼ばないんだよな確か? 何て呼ぶんだろうこれ?
おさげ? おさげの亜流? まあ何でもいいや。
胸は……いや、女性の胸をあれこれ言うのは失礼だろう。
男にだって引き際はある。手足が長いんだし、それでイーブンだよきっと。
イーブンと言って思い出したけど、何故だろう、僕が日本語を話せる事と、彼女が日本語を話せる事は決して互角に思えないのは。
これが目の錯覚か? いや目は関係無いか。
日本生まれの日本育ちの彼女。であるからして、日本語がペラペラなのは当たり前なのである。
しかしどうしてだろう、僕にはそう思えない。心のわだかまりが残る。
これが思い込みってやつの力なのか? いかんな、僕の心の目はくすんでるようだ。
いつから、物事を真っ直ぐ見れなくなったのだろう?
下らない憶測。偏見。そんな風に、世界を歪めて見ているのだ。
かつて見上げた虹と、今見上げる虹が違って見えるのはきっとそういう事だ。
世俗にまみれ、擦り切れて。素直な心を無くしてはいないだろうか?
「そろそろ良いかしら?」
彼女の声がかかる。どうやら僕の観察チャンスはタイム・アップのようだ。
いつもは面白がるような笑みを浮かべている冷蔵子さんだったが、今はその笑みを表情から消していた。
どこかしら真剣な表情で、僕を見つめている。
「じゃあ、聞かせてもらおうかしら?」
ひたりとした視線を僕に向ける冷蔵庫さん。
そんな彼女に、僕はキリリとした表情で言った。
「僕は思うんだ。外見に捉われているようじゃダメだって」
「あなたねえ……。」
彼女は目を閉じて苦痛に耐えるように眉間に皺を寄せた。
頭が痛い、と言わんばかりに手で顔を押さえると、半眼になりながら言った。
「作文用紙一枚分の感想はどこに行ったのよ?」
「白い・青い・金色に要約されました」
「色だけ!? 私の容姿を三色に込めないでよ!?」
「じゃあ唇のピンクも入れるよ。これで四色だよ?」
「色から離れなさいよー!」
冷蔵子さんのどこか悲痛な叫びを聞き流しながら。
僕は虹の向こう側を思い描くのだった。