66日目 幾千の夜を越えて
「う~ん……」
雨がシトシトと降っている。
曇り空を見ていると何となく気が滅入るものだが、それに中てられたのだろうか、先輩は何やら思い悩んでいる様子だ。
まあ先輩が悩む事なんて珍しい事でも無い。
そしてその大半が下らない事だ。
「どうしたんですか、先輩」
話しかける僕に、先輩が視線を向けて来た。
「うん、いやね、昆虫の事を考えていたの」
「まだ引っ張るんですか、その話」
昨日、先輩は虫について熱く語ったのだ。
いわく、虫は極寒でも灼熱でも生きる強靭な生物である。
人間も強くなろう! というわけでチャクラを開こうとしてたのだが……。
結局は途中で寝てしまったのだ。
「引っ張る? 何の事?」
先輩はきょとんとしている。
何の事って、昨日から虫の話をしているのは先輩じゃないか。
首を捻りながら僕は言った。
「いやだって昨日もクマムシの話をしましたよね?」
「何言ってるの?」
やはり先輩はきょとんとした顔のまま言った。
「クマムシは、昆虫じゃ無いよ?」
「えっ、そうなんですか?」
じゃあなんでムシって付いてるんだ?
ムシって付いてるのに昆虫じゃないの?
答えの出ない迷宮に迷い込んだ僕は、すかさずもう一人の住人に訊いた。
黙々と本を読んでいる冷蔵子さんに問いかける。
「ねえ本当?」
「私は興味無いわね」
「ああ、そうっすか……」
すげない言葉が返ってきて、僕はすごすごと引き下がる他無かった。
改めて先輩の方に視線を戻す。
相変わらず何を考えているのか掴み辛い人だ。
これまでも傾向と対策を思い返しながら僕は言った。
「虫って言うと例えばどんな事ですか? ダンゴ虫の次は尺取虫でも目指すんですか?」
「少年、君が私をどんな目で見ているのか段々分かってきたよ……!」
怖い笑顔を浮かべる先輩。
一体先輩は僕の何を理解したんだろう?
人間、自分の事は客観的に見れないものだ。他人から観察される自分と言うのは興味深い物だったが、他人から見た自分の姿に納得出来るかどうかは別問題でもある。
果たして自己という物は、己から見た姿が正しいのか、他人から見た姿が正しいのか。
その答えを決めるのも自分自身なのだから、あんまり考え過ぎるのも無意味だろう。
というわけで先輩の分析にあっさりと興味を無くした僕は、虫の話の続きを聞く事にした。
「虫ってさ、どんな風に世界を見ているんだろうね?」
開口一番にそんな事を言われて、僕は少し頭を捻った。
確か、虫と人間では視覚が違ったはずだ。
トンボの眼鏡は何とやら。いやそれは関係無いか。
「複眼だから沢山見えてるんじゃないですか?」
僕の出した完璧な回答に、しかし先輩は渋い表情を見せた。
ええい、何が不満だと言うんだ!?
先輩はやはり眉間に皺を寄せながら、何かを考えている風な表情で言う。
「う~ん、そういう事ともちょっと違うんだけど」
話しながら言葉を探している感じだ。
どこか宙を見ながら、人差し指で自分の頬を叩いている。
やがて適切な単語が見つかったのか。
先輩は真っ直ぐに僕を見つめながら語り出した。
「人間とさ、他の動物では時間の感じ方が違うって知ってる?」
「ああ、何か聞いた事がありますね。ハツカネズミなんかは人間より時間を長く感じるとか」
どこかで聞いた学説を思い返しながら返事を返す僕。
そんな時、今まで興味無さそうに聞いていた冷蔵子さんが話に加わって来た。
「心臓の鼓動のペースによって、体感時間は変わるらしいわね」
「ふーん、そうなんだ」
クマムシの話には興味が無いのに、体感時間の話には興味があるのだろうか。
彼女の興味の対象を漠然と想像しながら僕は相槌を打つ。
そんな中、先輩の話は続いた。
「だからさ、虫の一日ってもしかしたら私達の一年と同じくらいかなぁって思って」
雨が降る。
薄暗い世界の中、蛍光灯の明かりが先輩を照らしている。
「私達はさ、朝と夜が来て、なんて当たり前だけどさ。虫の目には、何日も何日も昼が続いて、世界は明るいのが当然でさ」
そこまで言ってから、先輩は窓の外に視線を移した。
外には灰色の世界が広がっている。
沈んだ色の世界を見つめながら。先輩は続けた。
「でも、いつか夜が来るんだよ。何日も続く夜が。その時、虫は初めて気がつくと思うんだ。この世界に夜がある事を」
百億の昼と千億の夜、なんてSF作品があったな。
先輩の語る虫の世界に対し、そんな事を思い出した。まあ読んだ事は無いけどね。
永遠に続くと思われた昼が終り、夜の世界がやって来る。
その時初めて虫は世界の秘密に気が付くのだ。
そして悠久に続く夜を過ごす。
その時、彼らは何を思うだろうか?
明るい世界が再びやってくることを祈るのだろうか?
それとも、暗い世界が続く事を願うのだろうか?
「そう考えると、虫の人生もロマンチックな気がしますね」
「そう?」
そう呟いた先輩の顔は、何故か儚く見えた。
再び僕へと視線を戻して。
どこか寂しそうに笑いながら言う。
「私は悲しくなるんだ」
「悲しい?」
「だってさ、虫は炎の明かりに吸い寄せられるんだよ? 自分の身が焼けてしまうのに」
僕は先輩の瞳を見つめていた。
先輩の目には不思議な光が灯っていて、それはどこか蝶を誘う炎舞のような妖しさを放っている。
吸い込まれるように、僕はその双眸を見返し続けた。
やがて僕から視線を逸らしながら、先輩は話を続けた。
「ずっとね、馬鹿な事だと思ってた。何で自分の身を燃やしてまで炎に飛び込むのかって。でもきっとそれは、悲しいくらいに光を求めているからなんだよ」
まるで過去の自分を責めるかのように先輩は言う。
その姿が何だか小さく見えて、僕は不意に切なくなった。
「ずっと続いた昼が終わって、夜が来てさ? きっと虫は心細かったんだよ。いつかまた世界が明るくなると信じて……」
先輩の話は、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。
まるで音を立てるのを避けるかのように。
密やかに降る雨が、そっと窓ガラスを濡らしていく。
「そして、永久のように続く夜の中で。やっと望んでいた明かりを見つけた虫は、ようやく世界に光が戻って来たと信じたんだよ。信じて、飛び込んで……」
「そして燃えていく、というわけね。希望を胸に抱きながら」
パタン、と読んでいた本を閉じながら、冷蔵子さんが話を締め括った。
「中々面白い話だったわ。クマムシ最強説よりはね」
興味無いとか言っておきながら、しっかり僕らの会話を聞いているじゃないか。
「イカロスの翼って知っているかしら?」
「イカロス?」
聞き返した僕に、冷蔵子さんは艶然とした笑みを浮かべながら言う。
ほんと、彼女はこういう解説は大好きだな。
「太陽に近付き過ぎてしまった男の悲劇、というギリシャ神話よ。一説によれば、神に近づこうとする人間への警告とも言われているわ」
そこで彼女はハッとした表情を浮かべた。
しばし考え込むと、何かを得心したように呟いた。
「なるほど……そういう事ね」
「ど、どういう事なの?」
「クマムシやらチャクラやら……高みを目指す人間もまた、心細さから光を目指す虫と同じというわけね?」
ふふん、と自信満々に言う冷蔵子さん。
そんな冷蔵子さんを、先輩はポカンとした表情で見返していた。
しばし、空虚な時間が流れる。
「あら?」
たらり、と汗を流しながら呟く冷蔵子さん。
どうやら先輩の話を深読みし過ぎたようだ。
やっぱり、人の話をあんまり考え過ぎるのもいかんなぁ。
悄然と立ち竦む冷蔵子さんを眺めながら、そんな事を考える僕だった。