65日目 ヒトの弱さは強さに変わる / シープ・シープ・スリープス
「人間って弱いよね」
先輩の上げる疑問は何時も唐突であり、刺激的だった。
それを楽しんでいる面も否定出来ない。
何を言い出すか分からない先輩は『面白い』人だった。
しかしながら、僕に心の準備が出来ているかと言えばそうでは無い。
たまに全くの無防備な、何も考えていない時だってある。
今日はたまたまそんな日で、僕は回らない頭を振りながら考えた。
何て言おうか。結局は面白い返事も考えられず、教師に当てられた設問に答えられない時のような焦燥感を抱えながら言った。
「ええっと、どう答えればいいですか?」
返答に窮する僕に、先輩は寛大な笑みを見せる。
やたら偉そうにイスに座ると、足を組んだ。
チラリと見えたフトモモが眩しい。僕は慌てて視線を逸らす。
そんな事にはまるで気付かないのか、先輩は軽快な調子で言う。
「ふふっ、それは私の話を聞いてから考えればいいのだよ」
足に続いて腕を組むと、先輩は面白がるような顔を作った。
これから自分が披露する論説が僕を啓蒙すると確信しているのだろう。
自信に満ちた表情で、瞳を輝かせながら話を続けた。
「例えばほら、人って水の中では生きられないよね?」
「まあそうですね。それって普通じゃないですか?」
「魚は生きられるっ! 人間弱いよ!」
力強く言い切る先輩だが、そういう問題だろうか?
そりゃ人間は水中では生きられない。魚はまぁ、生きられるだろう。
それにしたって淡水魚は海では生きられないし、海の魚は川に適応できない。
釣り上げられた深海魚なんか、その場でバーンだ。
様々な反論を思いつく。
しかしそれらを言う暇も無く、先輩の自論は続いた。
「私はこの前、クマムシっていう存在を知ったの。クマムシは凄いわ。灼熱の地獄にも、極寒の極地でも生きられる。宇宙空間でも少しの間なら耐えられるのよ! まさに究極の力だわ!」
「まあでも、僕らは人間ですし?」
先輩は人類の先の存在、超人かもしれないなぁなんて思いながら。
究極の力を追い求める先輩に、僕は実も蓋も無い言葉で返す。
クマムシとやらに至高の頂を見ているようだが、僕らは人間だ。
どれほど憧れても灼熱やら極寒の中だと生きてけないのさ。
ある種の諦観を秘めた僕の言葉に、先輩は悄然とうなだれる。
悔しそうに肩を震わせながら、苦吟を漏らした。
「くうう……人は生まれ方を選べないのね」
「っていうか、虫に生まれたかったんですか?」
何でそこまでクマムシを尊敬するんだろう?
漠然とした疑問を抱えながら訊いた。
「う~ん……割と。飛べるし硬いしさぁ」
僕の質問にどこか思案しながら答える先輩。
大空を自由に羽ばたきたいと言う願いは理解できるが、硬いって何だ硬いって。
硬度に憧れる理由が分からない。僕はマジマジと先輩を見つめた。
少しだけ伸ばした髪。特に触覚があると言う事は無い。
いつも悪戯っぽい輝きを放つ目は虫の持つ無機質さとは正反対だ。
あえて言うなら握力か。多分、鉄のような手を持ちたいのだろう。
硬ささえあれば、多分先輩は鉄でも抉れるだろう。
虫の人生に思いを馳せる先輩。
どうにも虫の生き様に意義を見出せない僕は、暇そうに本を読んでいる冷蔵庫さんに訊ねてみた。
「君はどう思う?」
「興味無いわ」
「ですよねー」
無感動な返事を受け、僕は力無く相槌を打った。
虫の強さに全く心を動かされていない冷蔵庫さん。
無機質な視線を手元の本に注ぎ続けている。
しかしやおら顔を上げると、ポツリと呟いた。
「そんな下らない話を毎回思い付ける事には、ちょっとだけ興味があるわ」
「…………」
何やら嬉しく無い類の興味を持たれているが、深くは考え無いことにしよう。
処世術に長けつつある僕は、彼女のセリフをサラリと受け流した。
気を取り直しながら先輩に話しかける。
「まあとにかく、人間として強く生きる方法を考えましょうよ」
「う~ん、チャクラとか開けるかなぁ?」
腕を組みながらそんな事を言う先輩。
チャクラ。それは人体にあると言われる気の通り道であり、その通り道を開く事で武術の達人になれるという。
普通の人間には開けないチャクラを開眼しようと言う先輩だが、そもそもチャクラなんてあるのかいな?
あるか無いか分からない物に頼るなんてのはナンセンスだろう。
「無理じゃないですかね」
淡々と呟く僕に、先輩は瞳を燃やしながら反論してきた。
熱く、熱く。やる気さえあれば星でも動かせると言った感じで声を張り上げる。
「少年! 最初から諦めてたら何事も成せないよ! もっと大きく! 胸を張って生きていこう!」
「高校生にもなってチャクラ開こうとするのは、どうかと思いますけど」
冷静に指摘する僕の言葉を聞き流しながら、先輩は着々とチャクラを開くための準備を始める。
「まず瞑想。基本はコレね。悟りを開けば完璧だわ。きっと頭の中に眩い光か何かが浮かぶはずよ」
迷走を始める先輩は、イスに座りながら目を閉じる。
組んでいた足は大股開きに広げられていた。
慌てて足元から視線を逸らしながら、僕は先輩を観察する。
黙ってさえ居れば美人なんだけどなぁ。まあ黙ってても握力は100kgを超えるんだけど。
「う~ん、無我、無我、何も考え無い……私は空気……」
ブツブツと呟く先輩。
どうやら無我の境地に達しようとしているらしい。
何となく悪戯心が湧いた僕は適当に邪魔をして見る事にした。
「わっしょい、わっしょい」
「わっしょい、わっしょい……ちょっと、集中出来ないじゃない!」
容易く雑念に捉われる先輩に、僕は不遜な笑顔を向けた。
さながら坐禅している人を板で叩く人のように。
先輩の未熟さをなじるように、僕は言った。
「これしきの事で集中を乱すんですか?」
「むむっ、私を試す気!?」
「ふふふ……別にそんな気は無いですよ。でも、悟りを開こうって人が、たかが余人の言葉くらいで心を乱しますかね?」
「むむむっ……!」
眉間に皺を寄せながら、先輩は憤っている。
僕はそんな先輩にスマイルを向け続ける。
先輩はズバっと僕を指差すと、まるで覚悟を決めるかのように力強く宣言した。
「いいよ! どんどん試しなさいよ! 私は無になってみせるわ!」
机に肘を着き、顔の前で両手を握り締めながら目を瞑る先輩。
それは神に祈りを捧げるシスターの姿に似ていた。
再び適当に話しかけてみたけど、先輩は全く反応しなかった。
意固地になってるなぁ。あんまり邪魔しても悪いので、僕は先輩をからかうのを止めて冷蔵子さんに話しかけた。
「そう言えばさ、羊が一匹、羊が二匹……ってのがあるよね」
「眠れない時に羊の数を数えるっていう風習ね」
「あれってさ、何で羊なんだろう?」
「色々と説はあるけど……羊ってシープって言うじゃない? 寝るって意味のスリープと音が似ているからって話があるわね。スリープって繰り返し考える事で自己暗示をかけるのね。それを音が似ているシープにしたのは、ちょっとした遊び心かしらね」
そんな由来だったのか。
じゃあ、日本語の羊で数えても意味無いんじゃね?
そんな事実に気付く僕。
英語だから意味がある事を、単純に日本語に訳しただけではダメなのだ。
先輩の話にあてはめると、虫の凄さを人間に当てはめても意味が無いって事だ。
僕が抱いた違和感はそこにあったのだろう。
ようやく胸のもやもやが晴れた僕は、どこか清々しい気持ちになりながら言った。
「へえ。あれって外国由来の事だったんだ。シープとスリープね……。道理で効果無いと思った」
「まあ、普通は羊を数えても眠くはならないわよね」
くすりと笑う冷蔵子さん。
窓から差す日差しは温かい。今日は良い天気になりそうだ。
人間が、人間以外の存在に憧れる気持ちはある。
空を飛ぶ事に憧れたり、強い動物に憧れたり。
でもそんな事には、きっと意味は無いのだ。人は、人間らしく生きれば良い。
晴れ晴れとした表情で僕はその言葉を先輩に伝えようとした。
先輩を見ると寝ていた。おいこら、悟りを開くんじゃ無かったのか。
無駄の境地には達していそうな先輩の寝顔を眺めながら、僕は眩い日差しに目を細めるのだった。