62日目 変革の火
変革はいつも1人の人間から始まる。
武士の運命を変えた源頼朝、戦国を終わらせた織田信長。
他者とは一線を画す哲学を持ち、力強く動き、自らの望む世界を築いた者たち。
彼ら無くして日本の歴史は紡がれなかっただろう。
だが、変革は常に1人の力では行えない。
だから変革者は扇動者であるのだ。
頼朝が御家人を結集したように、信長が数々の武将を揃えたように。変革者は人を操る。
それは歴史の奔流であり、意思の淘汰であり、力への流れである――。
「というわけでさ、何故だか皆の間でお姫様抱っこレースってのが流行ってるんだけど……」
ポリポリと頭を掻きながら、僕は教室の席に座る冷蔵子さんに言う。
先日、僕はやむにやまれぬ事情により彼女をお姫様抱っこしたのだ。
それは学友の目の前の出来事であり、それ以来何故だか女生徒を抱えて走るドラッグレースが校庭で行われるようになった。困った物である。
途方に暮れる僕の前で、冷蔵子さんは半眼になりながら桜色の唇を開く。
「あなたのせいでしょ。私は知らないわよ」
プイッと顔を背ける冷蔵子さん。少し頬が赤い。やはり彼女もブームの発起人の立場は辛いようだ。
特に、内容が内容だ。このブームが終わらない限り、僕と冷蔵子さんはお姫様抱っこレースの旗印であり続ける。
どうにかこの馬鹿げた行いを止められないか。僕は疲れた頭で思案していた。
「とにかく、廊下で遠くから指差されてキャーキャー言われるのはもう嫌なんだ」
「知らないわよ、そんな事」
僕の懸命な訴え。それに対し冷蔵子さんはすげなく答えた。
しかしここで諦めると、僕を待っているのは嘲笑と謎の歓声の日々だ。
もはや退く事は出来ない。前に進むしか道が無い僕は、人差し指を立てながら提案した。
「別のブームを起こすしか無いと思うんだ」
「別のブーム?」
話に食いついて来た冷蔵子さんに、僕はしめたものだとほくそ笑む。
内心でガッツポーズを取りながら、以前から温めていた企画を提示した。
「例えばそう、鉄ゲタレースとか」
「……一応確認するけど、それってどんなレースかしら?」
頬杖をつき、またも半眼になりながら聞いてくる彼女に、僕は自信満々に答えた。
「鋼鉄のゲタを履いて走るんだよ。健康的だろ?」
「健康の前に校庭が削れないかしら……?」
些細な問題を気にする冷蔵子さん。
ええい、何で鉄ゲタレースの素敵さが分からないんだ!
鉄だよ!? ゲタだよ!? 校庭が削れようが校舎に穴が空こうがいいじゃないか! 浪漫を追おうぜ若人よ!
高まるテンション。冷え行く彼女。僕は熱いガッツを込めて彼女のたおやかな手を両手で握り締めた。
「とにかくチャレンジしてみようよ! 2人で!」
「な、なんで私もやらなきゃいけないのよ」
ガタッと席を揺らして動揺する冷蔵子さん。
僕はそんな彼女の瞳を覗き込むように見つめた。
まるでお代官様に直訴する村長のような気持ちになりながら、熱い想いをぶつける。
「僕が1人でやっても、馬鹿な男子が居るってだけで終わっちゃうじゃん! 君の力が必要なんだ!」
「イヤよ」
やはりきっぱりと断る冷蔵子さん。
ええい、この冷酷ガールめ! 今年は冷夏で村には米が無いんだ! 村人を飢えから守るんだ!
……いや違う、何で僕は一揆を起こそうとしているんだ?
アホな方向によじれた頭を振った。そうじゃない、頼むべきは鉄ゲタレースなのだ。
彼女の手を両手で握りしめたまま、僕は彼女の目を正面から見据えながら言った。
「頼むよ!」
「ベー」
わざわざ口で擬音を出しながら、冷蔵子さんは僕に舌を突き出した。
馬鹿な……! あのクールで冷徹な冷蔵子さんが……!? これは一体、何事だ!?
何だかショックだ。僕の心の中で、彼女に対するイメージが崩れていく。
だってさあ、あざといよね。これって、完全に自分で自分を可愛いと思いながらやってるよね。
僕はとある話を思い出す。猫は、自分が可愛いと自覚しているという話だ。
だから体をこすり付けてきたり、仕事の邪魔をしてきたりするらしい。
あの愛玩動物は己の魅力を理解しているという。多少ヤンチャしても飼い主から許されると頭の中で計算して行動しているのだ。
今の彼女はそれと同じだろう。
僕の胡乱な目に気付いたのか、彼女はやや赤面しながらコホンと息を整える。
キッと鋭い視線を僕に向けると、真剣な目で僕を見ながら言った。
「ベー」
「リテイクした!? 別に1回目が失敗してたわけじゃないよ!」
再び可愛らしく舌を突き出した彼女に、僕はツッコミを入れる。
「可愛ければ何でも許されると思ったら間違いだよ!?」
「か、可愛い!?」
「そこじゃねーよ! 伝えたい言葉はそこじゃないんだっ!」
恥ずかしそうに顔を伏せる冷蔵子さんに、僕の言葉は届かない。
ぐうう!? 何だこのすれ違い! 面倒くせえ!
だが――僕は考え直す。簡単に気持ちが伝わると思う方が間違いじゃないだろうか?
言葉は時に心に届かない。ダメなのだ。言葉だけでは。
「ねえ……僕の目を見て」
「!!」
彼女の手を握る両手に力を込めながら僕は言った。
驚いた様子の冷蔵子さんは、おずおずと伏せていた顔を上げる。
目と目が合う。彼女の碧い瞳に映る僕。恐らく、僕の瞳にも彼女の姿が浮かんでいるのだろう。
僕が彼女に伝えたい気持ちとは何だろうか?
ゆるやかに流れる時間の中で自問自答する。
可愛けりゃなんでも許されると思ったら大間違いだって事だろうか?
いいや、違う。それよりももっと――大事な想いがある。
僕は真っ直ぐに彼女を見つめる。
本当の気持ちを……まごころが届くと信じて。
強く強く想う。僕の願い、それは――。
(鉄ゲタレース、やろうぜ!)
鉄とゲタ。それは男の浪漫である。
だが悲しいかな、僕だけの力では魅力を伝えきれない。
しかしである。冷蔵子さんの無駄なカリスマ力を生かせば話しは変わって来るのだ。
今こそ鉄ゲタの世を興したい。いや、興すべきだ。
僕の願いは瞳から放射状に放たれた。大気を震わせ、冷蔵子さんの意識を貫く。
少なくともそういう気分ではあった。
何だか周りがキャーキャー言っている気がする。気のせいだろうか?
僕の視線に射抜かれている冷蔵子さんは、呼吸を止めたみたいに静止している。
……あれ? これ本当に息を止めて無いか?
怪訝に思う僕の前でみるみる彼女の顔は赤く染まっていった。恐らく酸欠だろう。
気のせいか、教室中が静まり返っている気がする。
時が止まったかのような時間が流れ。
やがて冷蔵子さんは、困ったように言った。
「べ、ベー?」
……否定か!? 鉄ゲタレースに対しての彼女の返答は、舌を出すことだった。
終わった。僕が鉄ゲタに賭けた夢は終わったのだ。
嗚呼……鉄ゲタを履いて走る学生の姿が、幻想の中に消えていく。
時は動き出す。ザワザワと騒ぎ始める教室の中で、僕は悄然とうなだれた。
しかし。
その時、僕の目に先ほどの冷蔵子さんの姿が思い浮かんだ。
可愛く言えば許されるという態度。つまり……わざと否定した!?
なるほど、僕は納得した。彼女も心の底では鉄ゲタレースに興味津々なのだ。しかし天邪鬼な彼女は、素直にその事を言えないのだろう。
ふふっ、いいさ。待とうじゃないか。君が鉄ゲタを履く、その時まで――!
余裕を取り戻した僕は、不敵な笑みを浮かべた。
風は確実に吹いている。鉄ゲタレースの歴史は、今まさに始まっているのだ!
確信を持った僕は、冷蔵子さんに言う。
彼女が鉄ゲタを履く日を心待ちにしているという意味を込めて。
「僕は諦めないよ!」
教室から上がるオオーという声。そんな歓声を浴びながら、僕の胸には全校生徒が鉄ゲタを履く夢が広がっていた。
翌日から女生徒が男子に向かって「ベー」と舌を突き出す事が流行るとは、今の僕たちには気付けなかった。