61日目 月の無い晩の天使
夜中に寮を抜け出して買い出しに行く事はよくあることで、よくある事ならばまとめて行われるのが世の常である。
5人の男子によって行われたパシリ決定ジャンケン大会で見事負けた僕はコンビニに向かい歩く。
星が瞬く空には月が出ていなかった。かつて旅をする俳人は月の明かりを頼りにしたというが、なるほど月の無い夜はこんなに暗いのか。変に納得しながら暗い路地を街灯を頼りに歩いた。
何だか幽霊でも出そうな雰囲気だな。
特にその手の話が苦手という訳でも無いが、得意でも無い。特にこんな不気味な夜は、誰だって心細くもなるだろう。
何故か誰も歩いていない路地には、闇と静寂が満ちていた。
こんな時には誰でもいいから会いたいものだ。
そう願いながら道行く僕の目に、街灯の下に佇む人物が映った。
顔にはお面。手には竹刀。ラフなカッターとスラックスに身を包むその人物は、とりあえず危険人物には間違いなかった。
僕に気が付いただろう、街灯の下の麗人はスッと足を踏み出した。
相対するように僕を見据えると、ゆらりと竹刀を構える。
夜中に竹刀を持ち歩くような女性を僕は1人しか知らなかった。
そしてその人物は、竹刀の切っ先を僕に向けながらノリノリで口舌を開始する。
「新月の晩とて、天は在る。我は月に代わり天を舞う者、飛天。貴様の命……もらい受けに来た」
飛天。そう名乗るのは、竹刀とお面を限りなく愛する変態である。
前回も僕を襲いかけた彼女は、最後に僕を殺すと言って闇の向こうへと消えて行った。
そして今再び、闇の狭間から現れ僕を殺そうとしている。
一言で言うなら、僕は今すごく不幸だと言う事だ。
竹刀を構える彼女。
その切っ先に反応するように、僕は咄嗟に懐から扇を取り出した。
「ほう……鉄扇術か? その技を実戦で使う者がまだ居たとはな」
僕の扇を見つめながら何やら語りだす飛天さま。彼女の長広舌は続いた。
「広く宮中の貴人達に愛用された扇は、戦国の世の中にあって護身の技として用いられるようになる、か。……凶刃を食い止める為に鉄を使い、狂人を倒すために技を練った。様々な柔術、護身術が組み合わされ、数々の剣術、格闘術に対抗すべく産み出されたその流派こそが鉄扇術。貴様の鉄扇術、どれほどの物か試させてもらおう……!」
真剣な表情で語る飛天さま。そんな彼女の眼差しに、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
鉄扇術? そんな技、知るわけないだろ……!
っていうか鉄扇なんて持ってねーよ! 今のこの扇は普通の木製だし!
無いよりはあった方がマシ、みたいな気持ちで握り締めてるだけなんですけど……。
色々な意味で戦慄する僕。
そんな僕を前にして、頭の中身が飛んでる女、飛天さまはなおも絶好調だ。
「貴様が後の先を狙うというのなら、我は一つの太刀を放つのみ。我が集大成の一撃、その双眸に焼き付けよ!」
ジワリ、と高まる飛天さまからの圧力。
己の全てを剣に込めるかのように、彼女は静かに闘気を高めている。
どうしよう。こんな扇じゃ防げそうに無い。
どう見ても扇じゃ竹刀には勝てません。諦観に浸る僕はとりあえず扇を開いてみた。
何となく扇いで見る。あ~……涼しい。
勝ちを諦めた僕の投げやりな態度を見咎めたのだろうか? 飛天さまの眼光が鋭くなった。
そして怒気もあらわに怒鳴りつけてくる。
「馬鹿にしてるのか貴様!?」
「いやそんな事無いっすよ」
胸元を右手で開きながら、左手で扇をあおぐ。
もうやってられない。そんな気分満々で僕は言った。
鉄扇術なんて知らないし、竹刀には勝てそうに無いし、良い事も無さそうだ。
結論。今日は厄日。そんな感じでゲンナリする僕の前で飛天さまはプルプルと震えだした。
「馬鹿にしてるだろ!? 絶対馬鹿にしてるだろ!?」
何を根拠にしてか、飛天さまは怒りの絶叫を始めた。
怒りのあまり竹刀を持つ手にも力が入り、構えが若干崩れる。
その瞬間を見逃さず、僕は――扇を投げた。
「投扇だとっ!?」
宙を舞う扇は一直線に飛天さまへ向かう。
意表を突かれたのだろう。飛天さまは避ける事もできず、まともに顔面を直撃されていた。
投扇とは?
長い歴史を持つ扇。その歴史の中には、扇を投げる馬鹿も存在した。
江戸時代。300年の平和の中で、庶民にまで広がりを見せた扇。
どこかの馬鹿が扇を投げて遊び始めるのも時間の問題だった。
暇人が考え出した『箱の上に乗せた的を狙って扇を投げる』遊びが大流行へ。
ついには博打に使われ始め、幕府から禁止令が出るまでに至った。
そんな悲しい歴史を持つ投扇技が僕の身を助けてくれた。
扇の直撃を受けた飛天さまが、体勢を崩してわたわたしている。
そこに僕は追い討ちをかけた。
「ロケットキーック!!」
全力で靴を飛ばす僕。
まさかこの技が生きる時が来るとは思わなかった。芸は身を助けるとは言うが、何でもやってみるもんだなぁ。
そんな感想を抱く僕の前で、飛ばした靴が再び飛天さまの顔面にクリーンヒットしていた。まあお面を被ってるんでさほどダメージは無いだろう。
胸の内でガッツポーズを取る僕。だが逃げようとした次の瞬間、致命的なミスを犯した事に気が付いた。
「しまった! 裸足じゃ痛くて走れない!」
「馬鹿か貴様は!」
道の砂利の意外な痛さに驚愕する僕に、飛天さまが吼える。
跳躍するような勢いで彼女は僕を目指して突進してきた。
竹刀を振りかぶり、渾身の一撃を放とうとしている。
これは終わったか――?
竹刀が脳天にぶち当たる痛みを想像しながら、覚悟を決める僕。
ぐっと目を瞑りその時を待つ。待つ。待つ……?
いつまで経ってもその一撃はやって来なかった。恐る恐る目を開けた僕の前には、ただひっそりとした路地だけが映る。
「あれ?」
思わず呟く僕だったが、飛天さまの姿はどこにも見えなかった。
なんだったんだろう。マジで意味が分からない。
急に消えるなんて幽霊みたいだな……いやまさかね。
ははは、と力無く笑う僕の肩に、突然誰かの手がポンと置かれた。
「うわあああああああああ!?」
「うわあ!?」
絶叫しながら振り返る僕。
そこに見たものは、驚きの声を上げる賢者くんの姿だった。
「ご、ごめん? 驚かせたかな?」
申し訳なさそうに謝ってくる賢者くんに、僕は頭を横に振った。
「いや何でも無いよ。幽霊かと思ってさ」
「幽霊?」
訝しげな表情を浮かべる賢者くんに向かって、僕は「何でもないよ」と付け加えた。
「君も買い出しだろ? 良かったら一緒に行こうよ」
賢者くんにそう誘われて、僕は一緒になって歩いた。
月の無い夜。街灯の明かりだけが煌々と道を照らす。
どこか無機質な光。街灯の下、浮かび上がる道路の白線が寒々しく見えた。
「ところで、さ」
歯切れ悪い口調で切り出す賢者くんに、僕は気兼ねなく顔を向けた。
無機質な街灯の光に照らされた賢者くんの顔が白く浮かび上がる。
「君、この前さ。冷さんを抱きしめてた……よね?」
「え? ……ああ、あれの事ね」
僕の嘘を真に受けた冷蔵子さんが靴を無くし、仕方なく僕が抱えて寮まで帰ったのだ。
その後散々な目に合い、僕にとっては拭いがたい苦い記憶として残っている。
顔を顰める僕に、賢者くんは淡々と話を続けた。
「真剣に聞くよ。君と冷さんはどういう関係なんだい?」
ぴたり、と足を止めながら賢者くんは言った。
その言葉には僕を咎めるようなニュアンスがあり、僕は不可解に思いながらも同じく足を止めて答えようとする。
その時僕は見た。賢者くんの肩の向こうに見える、飛天さまを。
ゆらりと幽鬼のように佇む飛天さまは、控え目に言っても怖かった。
「ひっ!?」
思わず悲鳴を上げる僕に、賢者くんは怪訝な目を向けて来た。
「う、うし、後ろっ!」
喉を引きつらせながら何とかそれだけを口にする。
賢者くんは不快そうに眉間に皺を寄せながらも、後ろを振り返った。
その瞬間。飛天さまは跳躍した。そしてそのまま脇道の方へと姿を消した。
まるで妖怪のような動きだった。
「……誰も居ないけど?」
苛立った様子の賢者くん。
僕はバクバクと鼓動を刻む心臓を右手で押さえながら答えた。
「さ、さっきまで居たんだ。本当だよ!」
必死に弁解する僕を、まるで信じていない目で見返してくる賢者くん。
弁明の声を上げながら僕は思う。
今度お札を買っておこう。お守りも買っておこう。
その手の事に詳しそうな冷蔵子さんに話でも聞くかな……。
おぼろに浮かぶ不安と確固たる決意を胸に。僕らはコンビニへと向かった。