59日目 白と黒の境界線(花束を捧げて)
光あるところに闇が在るように。
対立は生まれ、雌雄を決する。あるいは、対立こそが唯一その存在を示す手段なのだろうか?
己の存在を誇示するため、矛と盾は交わる。
開け放たれた窓の外は目が眩むような青空だった。
どこか憂いを帯びた風が窓際のカーテンをそっと揺らす。
涼風に吹かれながら、先輩はそこに居た。
腕を組み、仁王立ちになって不敵な表情を浮かべている。
対する僕は、まさしく先輩の影だった。
日差しを浴び、生命力が滲み出るかのような先輩に対し、陰の中で闇を纏いながら不吉な者の如く起立していた。
ポケットに手を入れたまま、僕はそこに在った。
「少年。君は私には勝てない」
悠然と先輩は語る。それは誇張では無く、事実であった。僕は先輩には勝てない。
勝利を確信するかのように――実際確信しているだろうが、先輩は全身から覇気を発散している。
僕はそんな先輩の姿を無感動に見つめていた。
何だか少し面白くなり、僕はほくそ笑みながら言う。
「勝利……。僕はそれを望んじゃあいません」
怪訝な表情を浮かべる先輩。僕はさらに言葉を続けた。
「敗北から学べる事もあるって事です。僕は、敗北をこそを知りたい」
僕の言葉を負け惜しみと取ったのか、先輩はいよいよ剛毅に語った。
「敗北主義、ね。勝利を諦めた者の強がり。少年、勝ちを諦めたの?」
「僕が諦めたのは――」
果たして僕が諦めた物とは何だろうか?
様々な思いが胸を駆け抜けて行く。幼い頃に誓った夢。交わした約束。願い。
人は何を諦め、そして何を掴むのだろうか?
際限なき生の中で、一体どれだけの価値を見出す事ができるのか。
かつて。ある哲学者は、より善き生を抱くために自ら毒を飲み干した。
生の果ての死。死の先にある生。死なねば掴めぬ生もある……。
人は洞窟の中に居るとある哲学者は言った。洞窟の外には光溢れる美しい花畑が広がっているが、人にはそれを見る事は出来ないのだ。
暗い洞窟の中にあり、ただただ夢想する。理想と言う名の幸せを。洞窟の外を。
僕が諦めねば為らなかった物とは、何だろうか?
突き抜けるような青さに目を細める。
先輩は立っていた。いつものように、そこに。
自信に溢れたその姿は、高貴とさえ言えた。そんな先輩が、深窓の令嬢のように僕の目に映った。
白亜の城の展望に佇む先輩を幻想する。
そんな先輩に僕は花を捧げるのだ。
黒く染まったコートを身に纏い、僕は震えるように花を差し出す。
全身は泥に汚れ、みすぼらしい格好でただただ花を捧げる。
汚れきった黒衣の姿で。
僕が捧げる花だけが美しく輝いている。
闇に浮かび上がる純白のコスモス。
清らかな祈りをその花弁に託し。僕は花を捧げる。
それは惨めな行為だろうか?
場違いな男が、深層の令嬢に想いを捧げる事は不幸な事なのだろうか?
いいや違う。僕は被りを振った。
人は生まれ方を選べない。あるいは、生き方さえも。
鳥が飛ばずに居られないように、魚が泳がずに居られないように、人もまた定めに従って生きるのだ。
自由は無い。無限に続く時の道を。決められた通りに歩くだけなのだ。
それは不幸と呼べるだろうか?
価値無き生。光無き闇の中で諦観を覚える人もいるだろう。
では何を望めば良いと言うのか? こんな世界に生まれて……。
僕は花を捧げる。祈りを込めて。
祈りだけは美しい。例えどれほど苦しくても、人は祈りを捧げる事が出来る。僕の気持ちが先輩に届くという祈り。それを信じる事は出来るから。
だから僕は信じた。
花を捧げるように。先輩に、僕の何かが――届くと信じた。
「僕が諦めたのは勝利ではありません。きっと、もっと他の物だから――」
「戯言ね」
僕の言葉を一蹴する先輩。
「どれほど言い繕ったとして、戦況は変わらないわ」
オセロの盤面は、ほぼ白に埋め尽くされていた。
四隅の内、3つまでが白に取られている。
白亜の如き盤上を見つめながら、僕は黒のオセロを握り締めていた。
「もう負けでしょ? うりうり、負けを認めなさいよー」
「……芸術点を下さい」
「芸術点?」
怪訝な表情を浮かべる先輩に、僕は淡々と答えた。
「ほら、ここの黒の部分、何だか幾何学的な感じじゃないですか」
「うん、それで?」
「芸術点を下さい」
こういう時のポイントは、抑揚を抑えながら主張する事だ。
あくまで当たり前であるかの如く主張をすれば、相手は怯む。
そんな祈りを込めたセリフである。
例えルール上負けていても、勝ち負けを超える物を掴めると信じて。
そう例えば芸術。芸術には勝ち負けは無い。
ならばもう勝ち負けとかどうでも良くない?
そうさ、僕はルール上負けになるかもしれないけど、それ以上の物を掴めるのだ。ならばある意味で勝ち以上、と言っても差し支えないだろう。
そんな期待を込めた僕の願いは無残にも引き裂かれた。
「うん、オセロにそんなルール無いから」
至極当然の事を口にする先輩。
だが引き下がるわけには行かない。引き下がれば、そこにあるのはただの敗北だけである。
だから僕はさらに主張してみた。
「僕はルールを超えた所に人の価値があると思っています」
「ふむう……考え深い言葉ね」
「だからオマケして下さい」
「よし! 褒め称えて上げる! やったね少年!」
パチパチと手を叩く先輩。
静けさを取り戻した部屋の中で、悲しいくらいに先輩の拍手の音だけが響いている。
恐らくは僕を本気で祝福しながら、先輩は言葉を続けた。
「でも負けは負けね?」
「…………」
真っ白に染まりつつある盤面を見つめながら僕は思案する。
負けを誤魔化すにはどうすれば良いだろうか?
手のひらにはオセロの石。白と黒が表裏一体となった石を持ちながら、僕は考える。
勝利と敗北は紙一重なんだなぁ……。
「紙一重……」
「ん?」
「紙一重の勝負でしたね」
「私の圧勝だと思うけど……?」
気負いも何も無くそう呟く先輩の姿が、僕には眩しく映った。
僕はそっと窓から空を見つめた。そしてふっと笑う。
オセロは新しいルールを決められない。今まで通りのルールの中で遊ばれていくしかないのだ。
それは不幸な事だろうか?
などと禅問答に逃げても仕方無いので、僕は財布を出して先輩に奢るジュースの代金を確かめるのだった。