58日目 君の名を
その日は、朝から雪になった。
なんて事になれば詩的な世界に浸る事も出来ただろう。
しかし、生憎と空の行方はそれほどドラマチックでは無かったらしい。まあ季節的に不可能だし。
僕には何故か冷蔵子さんにシナモンパイを奢るミッションが課されていた。
風花堂という謎の暗号を解き、代金を代償にして彼女の舌を満たすのだ。
さて、風花堂って何だろう。僕は真剣に悩んでいた。
菓子店の名前なのか、それとも製造メーカーなのか。はたまた別の何かか。
おそらく製造メーカー辺りじゃ無いかな、と当たりをつける僕だったが、それはどうやら外れだったらしい。
「ここよ」
隣を歩く冷蔵子さんが指差したのは、レトロな感じの喫茶店だった。
駅前繁華街の一角にひっそりと看板を出すその店。
手書きボードにお品書きなんて事は無く、茶系のシックな色で纏められた店舗の入り口に『風花堂』と申し訳程度にプレートがぶら下げられていた。
喫茶店だったのか、と理解する僕を置き去りにして冷蔵子さんは店内に入っていった。
「いらっしゃい」
渋めのマスターが低い声で僕らを出迎えた。
席をざっと見渡すと、ジイさん・ジイさん・バアさん2人組みと言った感じだ。
どうやら外観同様に渋めのお客さんが多いらしい。
くの字に曲がった店内の奥の方へと冷蔵子さんは進んで行った。そんな彼女を追いかけて僕も奥へと進んだ。
薄暗い店内には、赤い皮が張られたイス。
アンティークっぽい柱時計がでかでかと掲げられ、その下には模型の船が飾られていた。
慣れた感じで2人掛けの座席に着く彼女を見習って、僕は向かいに座った。
何となく店内を見回す僕。30年くらい前のデザインの照明を眺めながら感想を漏らした。
「随分レトロな店だね」
「こういう店の方がいいのよ。落ち着くし」
意外とババ臭いんだな。
声には出さずに思う。読書好きだったり昭和好きだったり、冷蔵子さんの趣味は案外地味な物が多い。
そういや温泉も好きだったな。まるでお婆ちゃんじゃないか。
そんな事を僕が考えていると、急に冷蔵子さんは注文を叫んだ。
「マスター、私はシナモンパイね!」
店全体に届くかのように声を張り上げる彼女。
どうして店員が聞きに来るのを待たないんだろうと訝しんだ僕は、そう言えばマスター以外に店員の姿を見ていない事を思い出した。
「この店ってさぁ、ウエイトレスさんとか居ないの?」
小声で尋ねる僕に、冷蔵子さんは何故か得意気な表情になりながら言った。
「ふふ、あまりこの店を舐めない事ね」
どういう意味か図りかねる僕に、冷蔵子さんは言葉を続けた。
「この店では注文を聞きに来る人なんて居ないわ! 注文した品を運んでもらえたらラッキーよ?」
どういう店だよ? カウンターサービスしようよ。
早期の経営改善を願う僕。
どうやら今日はラッキーな日のようで、彼女の注文したシナモンパイは無事にマスターが運んできてくれた。
「ティーはどうするんだい? お嬢さん」
「アップルティーかしらね」
「生憎、アップルティーは切らしているんだ」
おい大丈夫かこの店?
アップルティーくらい常備しておけよ。
心の中でツッコム僕の前で、冷蔵子さんは注文を切り替えた。
どこか手慣れた感じである。……良くある事なのか?
「じゃあカプチーノ」
「承知した。小僧は何にする?」
小僧!?
店員から小僧って呼ばれたのは生まれて初めてだった。
しかし相手は店員というより、マスターだ。店員の一番上のランクであるからして、尊大な態度でも仕方無いのかもしれない。
釈然としない思いを引き摺りつつ、僕はメニューにざっと目を通した。
とりあえず目に付いた物を適当に言う。
「み、ミックスジュースで」
「くっ」
僕が注文した瞬間、マスターが笑いを噛み殺した。
何なんだこの店!?
去り行くマスターを怪訝な表情で見つめる僕に、冷蔵子さんがおずおずと言って来た。
「あなた、勇気あるわね」
「はっ? なんで?」
「この店のミックスジュース、何がミックスされるのかマスターの気分によって変わるのよ。大抵劇物に仕上がるって噂」
「何それ!?」
「マスターの生き甲斐らしいわ」
「注文した僕の立場はどうなるのさ!?」
味方の裏切りに気付いた豊臣軍のように気勢を上げる僕。
冷蔵子さんは至極冷静な顔を向けながら呟いた。
「……勇者?」
「なりたくて成ったわけじゃないよ!」
だがしかし、世の中の勇者の大半はなりたくて成ったわけじゃないかもしれない。
ろくで無しの王様に突然命令されるのだ。それを考えれば、僕の勇者就任もさほどおかしな話では無い。
課せられた運命を呪いながら、僕はミックスジュースを待った。
5分ほど経った頃。ニヤニヤと笑いながらマスターがやってきた。その手には、黄土色の液体が入ったコップがある。
いやに丁寧な仕草でコップをテーブルに置くマスター。こんな時だけ接客態度が良くなるのはどうなんだろう?
「小僧、愉しめ」
それだけ言うとマスターは去って行った。
後に残されたのは、謎の液体が入ったコップだけだ。ミックスジュースを注文したはずなんだけどな?
僕はとりあえず匂いを嗅いでみた。
「おう、甘い風邪薬の匂いがする……」
「漢方とか入ってるのかしらね?」
冷蔵子さんが気軽に言った。
ちくしょう、人事だと思いやがって!
愚痴る僕だが、事前に聞いたよりはまともそうなジュースだ。
何とか飲めるだろうと思い一口啜る。
……割と普通の味だ。
いや、美味くは無い。美味くは無いけど、不味いジュースくらいの味ではある。
色んな意味でガッカリしながら僕はミックスジュースを飲み続けた。
「ねえねえ、どんな味?」
どこかわくわくした表情で言う冷蔵子さん。
僕は肩を竦めながら答える。
「普通だよ。普通の味」
「なーんだ」
つまらなさそうに僕を見る冷蔵子さん。
そんなに面白く無いなら見なきゃ良いのに、何が面白いのか頬杖を着きながらジッと僕の顔を見つめる。
「……何?」
「ふふっ、面白い顔だと思って」
何気に酷い事を言われた。
彼女はふっと視線を逸らすと、カプチーノを1口飲んだ。
訪れる静寂。店内に流れるジャズの音だけが聞こえる。
僕はどこか遠くを見つめる彼女の横顔を見つめながら言った。
「そう言えばさ、」
僕の方を向く冷蔵子さん。
「僕が勇者だとすれば、君は何になるかな?」
きょとんと目を丸くした後、不敵な笑みを浮かべながら言う。
「さあて、何かしらね?」
妙に楽しそうな彼女に、僕も不敵な笑みを返す。
その行為に得に意味は無い。
少なくとも村人Aには収まりそうにそうに無い彼女を見ながら。
僕は風邪薬味のミックスジュースをもう1口飲んだ。