27日目 戦慄
どこからかピアノの音が聞こえてくる。
滑らかに響く旋律。
そして、珍しく先輩のいない部屋。
僕はぼんやりとピアノの音に聞き入り、冷蔵子さんは本を読んでいる。
静かに流れる時間。
そんな時間を壊さないようにだろうか。
冷蔵子さんは、ふっと囁くように言った。
「G線上のマリアね」
「…………?」
今、マリアって言ったか?
僕は冷蔵子さんを見つめた。
なおもピアノの演奏は続いている。
そう、G線上の『アリア』を奏で続けている……。
ははっ、まさかあの博識で何でも知ってますみたいな顔をした冷蔵子さんが、
『アリア』と『マリア』を間違えるはずが無い。
きっと僕の聞き間違いだろう……。
「誰が弾いてるか知らないけど、中々上手いね」
「そうね。G線上の『マリア』。別名、AIRとも言うわね」
今、やっぱりマリアって言ったか!?
僕の背筋に戦慄が走る。
壊れていく。僕の中の冷蔵子さんのイメージが、壊れていく!
……なんてね。そこまでの事では無い。
緩やかに流れる時間。
僕はさりげなく、冷蔵子さんに間違いを指摘する事にした。
「『マリア』じゃなくて『アリア』だよ。G線上のアリア」
流麗に流れるメロディ。
誰かの奏でるG線上の『アリア』が、静かに流れ続ける。
僕はちらりと、冷蔵子さんの様子を窺った。
物凄い勢いで目をキョロキョロさせている。
……見なかったことにしようか?
半ば本気で僕がそう考えていると、冷蔵子さんはふっと笑顔を取り戻して言った。
「この曲は本来、管弦楽組曲と称されるものなのよ」
ほう。何やら語りだした。
冷蔵子さんは頬杖を突くと、真っ直ぐ僕の目を見てくる。
どこまでも冷えた目。冷静沈着。そんなイメージが湧いてくる。
「G線上の『アリア』というのも、単なる愛称に過ぎないわ」
冷蔵子さんは、僕の目を見つめたまま話を続ける。
物凄い目力だ。
何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか?
そんな事を考えていると、ふいに彼女は視線を逸らした。
「そして、一説によると『マリア』という愛称も使われていたというわ」
「へぇ……。そうだったのか。なんだかややこしいね」
「そうね。でも、そこにも理由があってね」
そこから彼女は、ある悲恋の話を始めた。
時の音楽家の道ならぬ恋。彼はその想いを、音楽に託した。
それがG線上の『マリア』であり、彼はその曲を演じながら、密かに想いを表現したのだという。
しかし、どんなに婉曲な形を取ってもやはり気付く人は出てくるのである。
遂には彼の密かな想いが、白日の下にさらされそうになった。
そこで彼は、G線上の『マリア』という愛称をG線上の『アリア』に変えたのだという。
「上手いことを思いついたものね。アリアでも意味は通じるし、マリアとは一文字近いだわ」
そう言って冷蔵子さんは遠くを見つめた。
流れるG線上の『アリア』と共に、かの音楽家に想いを馳せているのだろうか?
儚げな曲線を描く彼女の横顔を見ながら、僕は万感の想いを込めて口にした。
「それ、作り話だよね?」
静かに流れる音楽。
冷蔵子さんは、ただ遠くを見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「半分は本当よ。G線上の『アリア』という名称がただの愛称だと言う事とか」
「半分は嘘って事だよね?」
「…………」
儚げな曲線を描く彼女の横顔。
そこにたらりと一筋の汗が流れる。
旋律は続く。静かに、続いていく……。