211日目 瀬戸内海に響け祈り歌(5)
高速道路を降りた後、車は下道に入りやがてさらに細い坂道を登った。
住宅の立ち並ぶそこはナカナカにデンジャランスな道だ。
曲がりくねった道は、対向車とすれ違う時は思わずヒヤリとした。
「なにこの道? どこに向かってんの?」
縛られた身のままで尋ねると、
「尾道ですよ。ここを少し登ったところに公園の駐車場があるみたいです」
隣に座る菊ちゃんがやんわりとした笑顔で答えてくれた。
一方彼女の双子の姉である花ちゃんは、実に楽しそうな表情で今も僕の頬にチョコレート菓子を押し付けてきている。
善意なのかそれとも責め苦なのか良く分からない待遇を受けつつ、この二人はどうして同じ日に生まれたのにこんなにも違うんだろうか? と愚にもつかない事を考えた。
同じ物を見て同じ考えの中で成長したとしても性格は別々なのだ。恐らくは生まれた時からそうなるように出来ているのだろう、と一人納得した。
(教育で性格がどうこうなるわけ無いんだよなぁ……)
そうこう考えている内にようやく車が停まった。
「と、いうわけで尾道に着いたぞ」
トシちゃんが手短に告げる。何がそういうわけなのか僕にはさっぱり理解出来なかったけど、どうやら尾道に来るのは最初から皆の予定に入っていたようだ。
花ちゃんと菊ちゃんがそれぞれ車から降りていく。だけど僕は車に残っていた。
ジイちゃんがようやくこちらを思い出したかのよう振り向いた。
「ん? どうしたんじゃ坊? 目的地に着いたんじゃからさっさと車を降りるのじゃ」
「……いや降りれないんだよ。そもそも動けないんだ」
抑揚のない声を返す。
出来るだけ淡々とした口調に聞こえるように調整しながら口を開く。
「自力じゃシートベルトすら外せ無いんだ……縛られてるからさ。なんでか知らないけど寝てる間にロープで体を縛られたからね。うん、縛られているんだ。だからさ――」
胸の奥から沸々と怒りが湧くのを感じていた。
「……さっさとこれを解いてくれない? ジイちゃん」
ロープを見せ付けるようにして言う。
するとジイちゃんは、
「くわぁ~……情け無いのう!」
何故か深い溜息を吐かれた。
「縛り上げた当人に頼むとは何事じゃ! 甘い、甘いのう! 大甘じゃ! そんな間の抜けな考えじゃ命が幾つあっても足りんのう。こういう時は自力で何とかするのじゃ!」
甘いとかそういう問題かなあ?
黙って聞いているとジイちゃんは過去を懐かしむような目になった。
「ワシも若い頃はよく危機に遭ったものじゃ。しかし誰かを頼ろうとは思わなんだ。何かに縋れば、その心の弱さからどうにかなっておったじゃろう……。最後に頼れるのは己のみ。何者にも支配されぬ不羈の精神を養うことこそが肝心なのじゃ」
どうでもいいからさっさとロープを解いてよ!
しかし僕の想いとは裏腹にジイちゃんの独白は続く。
「人を使うのは良い。じゃが頼ってはならん。己の意志で他者の行動を支配するのじゃ。坊よ、ワシの心を読んで行動を操ってみせよ。ワシの持ちえる選択支を掌握するのじゃ。それが出来るはずじゃ」
信じて疑わない目で僕を見るジイちゃん。
語る話はクライマックスに差し掛かっているようだった。
「惰弱、怯懦、渇望……人の体に急所があるように心にも様々な弱点があるのじゃ。そうせざるを得ない心境というものがある。弱さがある。それを利用するのじゃ。己の心を真正面から見つめればそこに他人を操る術を見つけられるじゃろう。それがワシの使う剣技の初手にして、最奥の教えなのじゃ――」
さてどうしようか?
僕は自然と笑顔になっていた。笑顔とは本来攻撃的なものだった。笑顔のまま続けた。
「じゃあさ、ロープを解いてくれたらお礼するよ」
「ふむ? お礼とはなんじゃ?」
「当ててみなよ?」
やはり僕は笑顔だった。
笑顔のまま、まず最初にぶん殴ってやろうと心に決めていた。
「さてはワシを殴ってやろうと思っておるの? 殴られるのは嫌なのじゃー! それならこのまま縛っておくかのう」
「チィ、見抜かれたか! 解け! 解いてよ!」
「泣き喚くだけなら赤子でもできるのじゃ! ふぉーふぉっふぉっふぉ!」
どうして僕は血の繋がった家族からこんな仕打ちを受けているんだろう?
考えてみても理由はわからない。
多分生まれた時から決まっていたのだ。
離れて見えるトシちゃん達の姿が、理想的な家族の肖像が眩しくみえた。
ようやく菊ちゃんからロープを解いてもらった後、ジイちゃんを追いかけて走った。
踏み出す一歩一歩に歓喜が乗せられているような気持ちだ。
絶対に復讐してやる。
そんな気持ちが僕の足運びを軽やかにしていた。
「待ってよジイちゃーん」
「嫌じゃー!」
「急な運動は体に悪いんだ。だからさ……止まろう?」
「なあに、ワシは健康が自慢じゃからのう!」
晴れ渡った空の下で僕らはひたすら駆け上っていく。
伸ばした手はもう少しという所でジイちゃんの体をすり抜けていった。
「くそっ! ヒラリヒラリと!」
「ふぉっふぉっふぉ! 修行が足りんのう!」
そんな事を繰り返している内に息が切れてきた。
体を動かすごとに怒りは発散され、やがてどうでも良くなってくる。
青い空が見えている。
頂上まで登りきったのか道は平坦になり、売店や展望台が姿を現した。
「ふぉっふぉっ。のう、冷たいものでも食べんかの? ジイちゃんが奢ってやるからのう」
「……ぜぇ、ぜぇ。本当に? じゃああのオレンジ色のソフトクリーム」
何かを諦めて僕はジイちゃんと一緒にアイスを食べた。
トシちゃん達の姿はここからは見え無い。
その内にここまで登ってくるだろうと思いジイちゃんと二人で待った。
やがて三人が姿を現し、僕らのいる売店の方へと近付いてきた。
「けっこう高い所ですね」
風に流れる髪を手で押さえながら菊ちゃんが呟く。
「あそこからさらに登る事になるとは思いませんでした」
同意を求めるような彼女の声。
それに何か返事しようとした僕だったけど、そうする前に花ちゃんに腕を掴まれた。
「よーし展望台に行こうぜドクニー!」
「ええー? もうちょっとゆっくりしていこうよ。ほらアイスもあるよ」
「走れー!」
「花ちゃんってこっちの話を聞く気ないよね?」
同意を求める視線を菊ちゃんに向ける。
彼女はいつものように双子の姉を叱りつけるためか眉を顰めた。
しかし菊ちゃんの口が開く前に花ちゃんは駆け出す。
我関せずといったトシちゃんを横目にしながら僕は花ちゃんに手を引かれていった。
幸いなことに展望台はさほど遠くなかった。
展望台は不思議な形をしていて、中には飲食店が入っていた。
どうやらこの狭い階段を上ると屋上の展望台に出るらしい。
……などと考える間も無く階段を駆け上っていく花ちゃんに引き摺られた。
「おー! 海が見えるぞ!」
「そうだねー」
海を眺めながらバシバシと背中を叩いてくる花ちゃんに対し、僕は歩き疲れた人間がそうであるように早くも諦める事を覚えていた。
ゆったりと流れる雲。遠く見える尾道の海と島々。船の行き交う、運河。
そして見知った女の子からドクニーと呼ばれ、何故か飼い犬のように扱われる僕。
……人生はままならない。
ならばいっそ流れに身を委ねてしまおう。
怒りも悲しみもやがては時の中で洗い流されていく。
漂白の精神に至っていると、花ちゃんが先ほどとは異なるトーンで感嘆の声を上げた。
「おー……? 案外綺麗じゃない?」
どうやら思ったよりも海が綺麗では無かったらしい。
どう答えたものかと考えていると、いつの間にか僕らの後ろに来ていたトシちゃんが答えた。
「尾道の海は海運の海だからな。どうしてもそうなるのだろう」
潮からここまで風が流れてくる。
トシちゃんは遠く海を見つめたまま、喜ぶでも悲しむでも無い口調で言う。
「まあ、これが人の生きている証だ」
そしてポンポン、と二回ほど花ちゃんの頭を撫でた。
子供扱いされるのが嫌なのだろう、花ちゃんはその手を振りほどいてから反論した。
「でもよー、あたしは綺麗な海の方がいいぜ?」
「確かにな。しかしそこには人の営みが無いかもしれない。……それでも綺麗な物を求めるのは、人の生まれ持った業なのかもしれんな」
今もここには緩い風が吹いている。
だからというわけでも無いけど、この場が重い雰囲気になる事はなかった。