210日目 瀬戸内海に響け祈り歌(4)
「どこだここ!?」
何故か風景が後ろに流れて行く。アスファルトが、対向車が流線型の色彩となって現れては消えていく。その上、
「縛られてるっ!?」
腕を振り上げようとして何かに引っ掛かかった。そのままジタバタしてみても動けず、やがて全身が縛られていることに気付く。
状況が全く把握できない。支離滅裂な困惑の中に投げ込まれていた。すると前からひょいっとジイちゃんが顔を突き出し、こちらを見て何やらワケ知り顔で言う。
「ほっほ。見れば分かるじゃろう、車の中じゃよ」
「おかしいよ! 昨日は普通に布団で寝たはずなのになんで!? なんで目が覚めたら車の中なのさ!? 犯罪……! 犯罪の臭いがする!」
前方の、といってもジイちゃんからでは無い。その右隣の方から毅然とした声が響いた。
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいな」
「誰だ!?」
「トシちゃんじゃよ」
「なんでトシちゃん!?」
「なんでって、これトシちゃんの車じゃし」
「……複数犯か! 犯人は一人じゃない!」
運転席に居るのはどうやらトシちゃんのようだった。
どうして……どうして彼まで悪事に手を染めてしまったのか?
そのことが残念でならないけど、僕の位置からはトシちゃんの顔がよく見えない。
必死にルームミラーを凝視すると、そこに映るトシちゃんの口元が動くのがわかった。
「君が慌てるのも分からないでも無い。が、訂正しておきたい。複数犯というのは間違いだ。こちら側に非は無い」
悪い人はみんなそう言うんだ!
「じゃあどうして僕はこのような状態になっているんでしょうか!? 説明して下さいよ! こんなことをしておいて非が無いって言い張るんですか!」
僕は批難がましく見えるように身動きの取れない我が身を示す。
しかしやはりトシちゃんは泰然とした態度で話を続ける。
「冷静になって聞いて欲しいんだが、眠っている君を縛り上げたのも、縛り上げられた君をこの車に乗せたのも、やったのはみんな君のジイさんだ。こっちまで片棒を担いだみたいに言わないで欲しいな」
……そう言われてみればそうかもしれない。
よくよく考えてみればトシちゃん氏はジイちゃんに巻き込まれただけなのだろう。
「す、すみませんでした」
「いや、わかってもらえればいいよ」
はっはっは、とトシちゃんは爽やかに笑う。
そうだよ、この人はまともな人なんだ。それをジイちゃんみたいな人格破綻者と一緒にして考えるなんて酷い話だ。
許される事では無い。僕はなんて愚かな事を言ってしまっ……あれ?
反省に浸りかけた頭の片隅で一つの疑問が鎌首をもたげてきた。
「ふと思ったんですけど……僕ってロープで縛られてますよね? 完全に縛られてますよね? しかも意識も無かったはずなんですけど、そういう状態の人間を何も考えずに自分の車に乗せるのを許すって根本的に人としておかしくないですか? 明らかに異常ですよね? 良識に従えばジイちゃんの行為を止めると思うんですけど」
「あっはっは……は?」
ピタリと笑いを止めたかと思うと、トシちゃんはいきなり唸り始めた。
「おかしな判断だったかな? ……そうだな、よく考えればおかしな事だったな。いや……おかしい事なのだろうか?」
……どこに悩む要素があるんだろう?
常識的にいけば僕の言葉は正論のはずだ。
苦悩するトシちゃんを救うためなのかジイちゃんが横から口を挟んだ。
「別に驚くような事でも無いじゃろ。昔はよくやったもんじゃしな」
「よくやってたの!?」
思わず叫ぶ僕。ジイちゃんがしたり顔で続ける。
「そういう事も必要じゃったんじゃ。清濁併せ呑む時代じゃったからのう」
「濁の部分が必要以上に濁ってる気がする! ダークだ、完全にダーティだよ!」
「むしろロープで縛るのは健全な方法じゃろ? 縛ったって事は、後で交渉する気があるって事じゃからな。うむ、実に文化的で平和じゃ」
この人はナニをイッテルンダロウ?
我が身内ながら理解し難い。その計り知れない思考に思いを馳せていると、
「そうだな、平和なやり方だ。まあ今は時代の流れで多少アレかもしれないが、やはり我々の時代では普通のことだったのだよ。はっはっは」
ありえない事にトシちゃん的にはそれでセーフらしい。
やはり彼はジイちゃんと一緒で相当な危険人物だと僕は再認識していた。
「どうしてこんな人達が野放しにされているんだろう?」
「あの……色々と大変でしょうが、おはようございます」
「えっ? ああ、オハヨウゴザイマス」
左側からおずおずと挨拶され、僕は条件反射で返事をした。
「……って、あれ?」
思わず二度見する。
何度見ても隣の座席に女の子がいた。
……誰だ? 僕以外にも被害者が居たのだろうか?
しばらく考えていると、その人物がトシちゃんの孫である菊ちゃんだと思い出した。
「まったく、朝からウルセーなドクニーは」
菊ちゃんとは反対方向、つまり僕の右隣からも新たに声が上がる。
そちらに視線を向けると今度は菊ちゃんの双子の姉である花ちゃんの姿が見えた。
やはりシートベルトを締めて座っている。
そこで僕は叫んだ。
「なんか居るそして挟まれてる! 助けてー!」
「モンスターに遭遇したみたいにゆーな!」
お菓子あげねーぞ! と花ちゃんは脅し文句を付け足してきた。
つまり僕は車の後部座席の真ん中の席に座っていて、ロープで体を固められた上にシートベルトで座席に固定され、左側に菊ちゃん、右側に花ちゃんがそれぞれ座っているという状態になっていた。
車内はさほど広く無い。そこから察するにこの車は五人乗りのセダンだろう。座席のクッションは上質で、こんな風に縛られていなければそれなりに快適だったんだろうと思う。
それは良いとして聞き捨てならないことがあった。花ちゃんに問いただす。
「ドクニーってさ、もしかして僕のこと?」
「そーだぜ」
「なんでドクニー?」
「毒の兄ちゃんだから」
答えは簡潔で、さらに言えば率直だった。
なるほどねー毒の兄ちゃんだからドクニーね。
ふーん。そっかー。なるほどねー。
「そのあだ名は変えてくれないかなぁ!?」
「なんでだ?」
きょとんとした顔になる花ちゃん。どうやら悪意は無いみたいだ……だからって何でも許されるワケじゃない!
「お姉ちゃん」
僕の発する雰囲気に気付いたんだろう。
菊ちゃんが花ちゃんを窘めるようにして言う。
「ほら、意地悪しないでドクニーさんにもお菓子をあげないと」
「あれ!? そこっ!?」
違うそこじゃない! 僕が不満なのはそこじゃないんだ!
「? どうしたんですか?」
「いや……。うん、なんでもないよ」
素直な瞳で見つめられ僕は曖昧な笑みを返す。
僕に向けられる眼差しには悪意が無かった。悪意が無いから性質が悪かった。
なんかもう疲れちゃったよ。
重力に身を任せるようにして座席に背を預ける。
「ほら! ドクニーお菓子だぞー。食えー」
「あむあむ……花ちゃん、僕のことを犬かなんかだと思って無い?」
「お姉ちゃんペットを飼いたがってましたから」
「そっかー。そこも素直に認めちゃう感じかー。そういう扱いなのかー」
僕は花ちゃんの差し出すお菓子をまるで雛鳥のようについばむ。
そして疲れきった目を行く先に向けた。そんな僕らを乗せて車は進むのだった。