209日目 瀬戸内海に響け祈り歌(3)
寮から実家に帰った僕は一人で唸っていた。
「わからない……あれが普通なのかな?」
あのハイなテンションは一般的にみて正常の範囲なのだろうか?
僕はあれを真摯に受け止めそしてアディオスと返事すべきだったのだろうか?
南米風の別れの挨拶に対してどうリアクションを取れば正解だったのかを考えていた。
「さっきから何を悩んどるんじゃ? 坊」
「ジイちゃん」
ジイちゃんが我が物顔で部屋に入って来る。帰るたびにジイちゃんの私物が置かれていく僕の部屋は、もはや物置と化していた。
「ちょっと質問があるんだ」
「なんじゃ?」
この部屋の有様について言いたい事が無いわけでもない。だけど今はどうでもいい。亀の甲より年の功ともいう。ここはジイちゃんの智恵を借りるべきだ。
しかしどう尋ねれば良いんだろう? と僕は考えた。
アディオスと返事すれば正解だったのかな? と訊いたところで意味不明だろう。それよりももっと核心を突いた言葉を出さなければいけない。
「ほれ早く言わんか」
「ええと、ちょっと待って」
うーんと、ハイテンションは普通の事なのか尋ねようか? いやそうじゃない。そうだ、僕は挨拶の仕方に戸惑ったんだ。それは日本語じゃなかったからで……。
「ジイちゃん」
意を決して僕は言った。
「ここは……日本だよね?」
「なんと? 大胆な質問じゃのう」
ふぅむ、とジイちゃんは一瞬考え込む素振りを見せてから、
「ふぉっふぉっふぉ。そうじゃな、ここは今も日本なんじゃろうか?」
何やら遠大な話を語り出した。
「国とはなんじゃろうな? 果たして何を持ってしてこの国がこの国であると断言できるのか。そこにはどんな条件があるのか。国家が――在り続けられる要因とは何か。懐かしいのう、ワシも若かりし頃にはそういった事で悩んだもんじゃ」
「いやそういう壮大な事じゃないんだ」
「ふむふむ。坊もそういう青臭い事を考える歳になったんじゃなあ。月日は過ぎるものじゃのう」
「あれ? ジイちゃん? おーい」
ジイちゃんはもはやこっちを見ていなかった。遠い追憶に浸るようにして、在りし日を想うようにして、ただ僕の前に言葉を連ねていく。
「何を隠そう、ジイちゃんはかつてこの国を守っておったんじゃ。この国がこの国で在り続けられるためにのう。ただしワシらの活動は公儀の秘密ってやつじゃったが――……」
「……へ、へぇ~! 凄いね」
「かつてワシは秘密裏に清天という号を頂いておってな? こう、ビシバシと悪を成敗しておったんじゃよ。ちなみにトシちゃんはかつてのワシの同僚でのう。璧天と呼ばれ、ワシと双璧をなしておったんじゃ」
「なるほど、なるほど」
話がまったく見えない。このボケに僕はどうツッコめばいいんだ? 適切な対応を考えあぐねていると、ジイちゃんは「おっと……」と急に口を濁らせ始めた。
「しまったしまった。この話は内緒じゃからな? お前の父親にも話してはならんぞい」
「そうだね」
他の人に話したら老人特有のボケを疑われてしまうだろう。そう考えて素直に頷いた。
そしてそれよりもさらに深刻な問題について、改めて指摘しておくことにした。
「っていうかいい加減に父さんのことを他人行儀な呼び方するの止めようよ。僕の父親ってことは、ジイちゃんの実の息子だからね?」
「ほっほっほ」
「笑って誤魔化さないでよ。そろそろ父さんと仲直りしたら?」
「……嫌じゃ!」
力強く宣言するその姿に僕は溜息を吐く。内心で天を仰いでいた。
世の中はままならない。だけど無理に僕の理想を押し付けるのも間違っている気がして、結局は中途半端で曖昧な態度に終わることが多かった。今もそうだった。
それ以上に諌めることは止め、どうすれば正解なのかなあ? と悩む。どちらを選んでも後悔することになるって誰かが言っていた気がする。
誰から聞いたことだっけ? と記憶の海を探りつつ、ふとジイちゃんに目を向けると旅行用のカバンに何かを詰め込み始めていた。
「あれ? ジイちゃんどっか行くの?」
「おおっ、これかのう? むっふっふっふー! ジイちゃんな、明日から旅行に行くんじゃよ。旅行」
そうなの? と大袈裟に驚いてみせる。
するとジイちゃんは嬉しそうに続けた。
「トシちゃんと一緒に行くことになっておってのう。良いじゃろう? 羨ましいじゃろう?」
羨ましいかどうかと訊かれれば羨ましくは無い。だけど子供のように自慢するジイちゃんの姿が微笑ましくて、僕は自然と笑顔になりながら言う。
「ふーん、まあ気をつけて行ってきてね」
「……へっ?」
「へ?」
「羨ましいじゃろう!? 一緒に行きたいじゃろう!? のう!? 素直に白状するのじゃ坊!」
「えっ……ええっ!?」
急に僕の肩を掴んだかと思うと、ジイちゃんは絶叫を始めた。
その指先から伝わる異様な握力と迫力に抗いつつ、
「なんでそんなに必死なのさ!? そんなに旅行を自慢したかったの!?」
「違う! そうでは無いのじゃ!」
「じゃあどういう事!?」
揉み合った結果としてお互いにぜーはーぜーはーと息を切らしていた。しばらく呼吸を整えたあと、改めてジイちゃんが口を開く。
「もしも坊がどーしても、っていうなら、旅行に連れていってやるんじゃがのう……」
「だから僕はいいよ。ジイちゃん達だけで楽しんでおいでよ」
「なんで着いて来ないのじゃ!?」
「どうして僕も行くことになるのさ!?」
「だってもうトシちゃんと約束しちゃったんじゃもん! ウチの坊も一緒に行くって! すでに旅館も予約してあるんじゃけど!?」
「知らないよそんな事情!」
約束しちゃったじゃもん、じゃないだろ!? なんで勝手に約束してるのさ!? そんな僕の憤りを完全に無視して、
「ぐうう……! 良かれと思って、良かれと思ってサプライズ旅行を計画しておったのに……! 我が子より可愛い孫がワシに冷たいのじゃ……!」
まるで自分が被害者であるかのような態度で嘆き始めた。どう対応すればいいか困っていると、今度は急にケロッとした表情で言う。
「それはそうとして、ジイちゃんの知恵袋に興味はあるかのう?」
「旅行の話はもういいの!? 何一つ解決してないよ!?」
投げっ放しじゃないか! と思いつつも、まあジイちゃんが気分を直したんなら別に良いか、と僕は簡単に考えていた。
どうせ旅行の話も適当に決めたんだろう。もう飽きたんならそれで良い。諦めて続きを促すと、ジイちゃんは嬉々として語り始めた。
「人体には様々な急所があるのは知っておるじゃろう? まず目玉にコメカミ、喉に鳩尾と沢山あっての? 選びたい放題じゃのう」
「そんな風に言われるとエグいね」
「つまるところ人の体には何がしかの要点と呼べる部位があるのじゃ。しかし何も恐ろしいものばかりでは無くての? ほら、足ツボマッサージとかあるじゃろ? ああいうののように健康に効果がある要点もあるのじゃよ」
最初から健康の話から始まってくれれば良かったのに、と思いつつ僕は適当に相槌を打った。
「ジイちゃんはそういうのを研究しておっての。どれ、坊にも一つ健康になるツボを押してやろう」
「人体の急所を嬉々として語られた後に? ちょっと嫌だなあ」
まあいいか、と僕はジイちゃんのなすがままにツボを押される。神経にズビビと来るとかそんな事は一切なく、いたって普通だった。
「本当に効果があるの? これ?」
「あるとも。バッチリじゃ」
何がバッチリなのかも、今押されたツボに何の効果があるのかも聞かないまま他愛ない話を繰り返し、やがて眠くなってきたので布団に入って寝た。
そこで旅行の話は終わったものだと僕は思っていた。しかし次の日に目覚めた時、何故か目の前に灰色のハイウェイが広がっていた。