208日目 瀬戸内海に響け祈り歌(2)
「はい?」
ぼんやりとした頭で返事をする。
沈み行く太陽が逆光となり、それは影となって先輩を包んでいた。
淡い影。穏やかな陰影の中で先輩の目を見つめる。
瞳に映る光はさざ波のように揺れていて、やはり僕の心に海を連想させた。
「さっきさ、」
滲むような空の色がある。
それを背景にして先輩は口を開く。
僕はただ先輩の言葉の続きを待った。
「途中で手の動きを止めたっしょ。なんで?」
「……?」
正直に言って意味がよく分からなかった。
「なんの話ですか」
真顔で問い返す。すると先輩は何かを思案する顔になった。
そして詳しく説明するためだろう、ゆっくりとした仕草で僕の隣に腰を下ろす。
僕もまたゆっくりと上半身を起こした。
夜の迫りかけた独特の雰囲気。それが緩やかな風となって僕等を包んでいる。
「う~ん……無意識なのかなぁ?」
どこか遠くを見ながら呟く先輩。
その横顔を見つめていると、彼女は急にこちらを振り向いた。
「さっきのやり取りの中で一度も手技を使わなかったじゃん。自分で気付かなかった?」
振り向くときの動きで先輩の横髪が揺れる。
なんとなくその様を目で追っていた僕は、上の空なままに答えた。
「あれじゃないですか? 僕が足技にこだわりを持ってるからとか。無意識の内に手より足を使った攻撃に軸を置いているのかもしれないです」
「そーいうのとは違うと思うケドなぁ」
断定的に告げたか思うと、先輩は続けざまに指摘してくる。
「少年のね、動きのリズムが途中で崩れてるのが分かるの。分かるかな? 最初から足だけ使うと決めた動きならね、そうはならないのだよワトソン君」
どう反応すれば良いのか困ったけど、とりあえず言うべきことは言っておくことにした。
「誰がワトソンですか、誰が」
「クセかなぁ? う~む」
しかしどうやら向こうはこちらに対し聞く耳を持っていないようだ。
「むむむ……む!」
先輩は何かを悩むようにして唸り声を上げ、眉間に皺を寄せた。
やがて急にポンッ、と手を打ったかと思うとあっさりとした口調で言った。
「変なクセは付けない方がいいよ?」
「はあ。そうですかね?」
それだけのセリフを言うのにわざわざ考え込む必要があったんだろうか?
不思議と否定的な気持ちになって僕は言った。
「別に困るようなクセでも無いじゃないですか。手技が出なくて困る場面ってあんまり無いですよ、実際」
「なにおぅ!? 少年はまだまだ甘いね! 一寸先は闇だよっ! 気を抜いた瞬間に闇討ちされたりするんだからね!」
闇討ちされるような人生は送りたくないなあ。
(だいたい誰が僕に闇討ちを仕掛けるっていうんだ)
心の中でそう考えた瞬間、とある少女の姿が脳裏に思い浮かんだ。
制服姿にヒーロー物のお面を被り、手に竹刀を持った少女――飛天さまが暗闇の中で哄笑を上げている。
――今この時から新たに闘いが始まるのだ!
――何故なら貴様と我は争い合う運命にあるのだからな!
……どうして僕はあんな人と関わり合いになってしまったんだろうか?
いや、今さら悩むのは止めよう。考えることを拒否して話題を変えることにした。
「そういえば今週は三連休ですね。先輩はこの連休に何か予定でもあるんですか?」
暇だったら一緒に遊びませんか、と続ける予定だった。
しかしその期待は先輩の返事によって裏切られた。
「私? 私はね~、あるんだよこれが」
「えっ……?」
用意していた言葉を咄嗟に飲み込む。
代わりに僕の口から出たのは驚くほど単調な詰問だった。
「マジですか!?」
「嘘を言ってどうすんの?」
先輩は少し困ったように笑う。
「本家関係の用事があるんだよね」
これから三十分後くらいに校門前に迎えの車が来るとのことだった。
どうして出発が明日じゃないんだろうか?
それがなんだか急なことに思えた。
「これからですか?」
「ちょっと遠い所だからね。朝から準備が色々あるし」
「ふーん……」
そういえば先輩の実家ってどこにあるんだろう。
風になびく先輩の髪をみつめながら僕は尋ねた。
「どこまで行くんですか?」
「うん? 広島」
「広島……? 広島かぁ」
語尾に『じゃけん』とつけないと異端審問される所だ。
ワシは広島県民じゃけんのう。そんなありふれたフレーズを思いつつ口を開く。
「なるほど、先輩って広島の出身だったんですね」
「うんにゃ、違うよ」
「? 先輩の家に関係することじゃ無かったんですか?」
どういうことだろうと思って問いかけると、
「私の祖母が凄い人だったらしくてさぁ、今でも一族から敬われているんだよね。まあもうこの世には居ない人なんだけどさ、その人に縁のある地って事で本家と分家の一同で集まって祝い事みたいなのをすることになっててね」
法事ってのもちょっと違うなぁ、と言って先輩は難しい顔になった。
(まいったな、困らせるつもりじゃなかったのに)
込み入った事情まで聞くつもりは無かった。
なので適当に話題を流すことにした。
「僕が聞いてもしょうが無いんでしょうけど、先輩の家にも色々あるんですね」
「ま、家の用事ってのは、大体がよく分からないシキタリだからねー」
あははと笑った後、先輩は問いかけて来た。
「それで少年はどうするの? 連休」
僕は溜息まじりに返す。
「やること無いんで実家に帰りますよ。この前も帰ったんで止めようかと思ってたんですけど、誰も寮に残らないみたいなんで」
この学園では学生全員が強制的に寮住まいだ。
だから連休ともなると実家に帰省する人が多い。
……遊び相手としてあてにしていた先輩も居なくなるみたいだし。
そんな気持ちから僕のセリフは理不尽な恨み言のようになっていた。
「ふーむ……」
先輩はしばらく何かを考えたあと、僕の期待を裏切った埋め合わせに、とでも言うように告げた。
「そっか。じゃあせっかくだし、少年の家までウチの車で送ってあげよっか?」
「いいんですか? 無駄周りすることになりますよ」
「いいんだよ。ついでだしね~」
別に先輩がそこまで気にする必要は無い。だけど僕はその好意を受け入れていた。きっと僕は心のどこかで先輩に甘えることに悩まないようにしていた。
校門の前で先輩と一緒に待っていると、黒いセダンが僕らの前で停まった。どうやらこれが先輩の家の車らしい。幾つかの銀の輪がエンブレムになっている外国製の車だった。
「あれ? 左ハンドルじゃないんですね」
車に乗り込むと同時に僕は言った。
外国車は左ハンドルであるはずだ。
そう思って尋ねると、運転席に座る初老の男性が朗らかに答えてくれた。
「日本にある外車で左ハンドルの車の方が珍しいものさ。なにせ向こうの人だって馬鹿じゃあないからね。日本の交通ルールくらいは研究して、ちゃあんとハンドル位置を調整してあるのさ。だから外国製の車といえど、日本への輸出用に作られたものは右ハンドルなんだよ。今ではね」
でも絶対に左ハンドルの方がカッコイイですよね、と言う僕に対して、彼は視線を進行方向に向けたまま闊達な声で笑った。
「まあ、そういう人に向けてわざと左ハンドルにしてある車もあるよ」
反面、隣に座る先輩は苦笑していた。
「少年は本当に馬鹿だね」
いやそこは馬鹿とかそんなんじゃないでしょ、と僕は答える。なんというかロマンですよ、と言うと今度は二人して笑い声を上げた。
いくつかの談笑を続けたあと、車は僕の実家の前へと辿り着いた。寮からさほど遠くは無いので時間はかからなかった。
じゃあまた今度ね、と挨拶する先輩とささやかな言葉を交わし、僕は車を降りた。去り際に運転席に窓が開き、あの紳士風の初老の男性が、
「アディオス! アッミーゴ! ヒューーアッハーー!」
最後に急にハイテンションな声で叫んだ。
そんな彼に対し僕は置き場の無い気持ちを抱えて笑顔のまま固まったのだった。