207日目 瀬戸内海に響け祈り歌(1)
「いくよ~」
なんて風に、先輩が開始を宣言して来たので、
「どうぞ」
僕は無造作に応えた。
時は週末。荒廃した放課後。
そんな言葉で臨場感を盛り上げつつ、僕は先輩と一緒に近くの公園に来ていた。
頭上には暮れかけた空があり、遥かに見上げれば逆光の鳥が羽ばたいている。
暗く翳った鳥の姿。その囀りだけが地上に響いていた。
先輩がこちらに向かって迫って来る。
僕は視線を逸らさないまま静かに息を吐き出した。
そしてその場から足を動かさずに待つ。激突の瞬間は近い。
視界全体がスローモーションになっていく中で、鳥が鳴くのが聞こえた。
(目で見ていたんじゃ間に合わない)
凍りついた時の中で思う。
先輩の動きは速過ぎる。視覚だけではその体捌きに対応できない。
五感全ての力を使い、ありとあらゆる感覚器で動きを捉える必要がある。
(空気の揺れを、大気に響く音を感じるんだ。大地に脈動するものを――先輩が地面を蹴った時の反動を――靴底で感じろ)
ふと思うのは……時は金なり法隆寺ということだ。
その言葉に意味は無かった。
捏造した格言に意味などあるはずも無い。
何か考え付くかもしれなかったけど、そうするよりも早く決着がついた。
先輩と僕は協同して新しい遊びを開発するのが日課となっている。
例えば『直感クイズ☆あの人は今』だ。
これは適当に誰かを選び、その人が次にどんな行動をするのか当てる遊びになっていた。
他にも石積みの壁をロッククライミングしたり、ウニの殻を投げあったりと色々だ。
ただし全部が全部、自分達でルールを作った遊びではない。
珍しいスポーツやマイナーな遊びを発掘して遊ぶこともある。今回はそのパターンだった。
僕らがやっていたのはエフスリーと呼ばれるそのスポーツで、どこかの中学生だか高校生の間で作られたスポーツらしい。フリーランニングという新種の路上スポーツに独自ルールを付け加えたものだという。
エフスリーは三つの単語の頭文字を略した呼び方だ、と大阪さんが語っていた。知床兄弟から聞いたんやけど、という前置きから始まったその説明は、要約するとフリーラン、フリーバトル、フリーエントリーの略でエフスリーと呼ばれることになった事を伝えていた。
フリーラン、フリーバトル、フリーエントリー。ようするに自由に走りながらアクロバティックな技を繰り出し、その動きの凄さで勝敗を決めるものらしい。
話だけ聞くと体操みたいだ。しかしお互いにお互いへの妨害行為ありにした結果として、恐ろしく攻撃的なスポーツへと変化していた。
妨害方法は簡単だ。蹴り、突き、手刀、回転蹴り。とにかくどうにかして相手の動きを止めればいい。しかし――それだと一歩間違えればただの喧嘩だ。もうちょっとルールを見直す必要があるんじゃないかと思う。その事を大阪さんに尋ねると、
「制限が緩いことがキモらしいんや」
と返事があった。
どうして大阪さんがエフスリーに詳しいのかというと、知床兄弟さん達の存在がある。どこでどうやって知り合ったのか分からないその二人がエフスリーの参加者だったのだ。
知床兄弟達はエフスリーの常連だという。そんな彼らから説明を受けたという話だけど、実は大阪さんも彼らと一緒にたびたび参加していたらしい。
ただし大阪さんはそれがエフスリーなるスポーツだと理解しないまま参加していたという。ルールも分かりもしないまま殴り合っていたのかと思うと恐ろしい話だ。でもよく考えたらそれこそが大阪さんの日常だった。
普段から凶器をもった集団に襲われる男。公園で謎の組織に縛り上げられた過去を持つ男。出来れば一歩距離を置いて付き合いたい人間こと大阪さんからの説明が続く。
「審判役もその場で適当に決めるみたいやで。そこらの学生が観客になってやな、そいつらの盛り上がり具合で勝敗を決めるっちゅう寸法や。とにかく自由である事に重点を置いとるみたいやな」
「自由って言っても……適当過ぎませんか?」
レフェリーが曖昧なままで勝ち負けなんてつくんだろうか?
勝敗が決まらなかったらどうするんだろう。
当然の疑問をぶつけると、大阪さんは何でもない事のように答えた。
「そん時はあれや、最後まで立っとったモンが勝ちらしい」
そこで一端言葉を切り、やたらニヒルな顔になると、
「せやから俺は常に勝っとったってワケや」
自慢するように言った。僕は少し呆れながら口を開く。
「つまり大阪さんは毎回毎回、相手が立ち上がれなくなるまで殴ってたんですか? 馬鹿だなあ。よくそんなのでブーイングが起きなかったですね」
「そこはあれや。俺の人気と人徳の為せる業やろ」
誇らしげに自分を差し示す大阪さんだったが、それは無いな、と僕は確信していた。人気と人徳のある人物なら間違っても公園で縛られたりしないだろう。
「ちゅうか坊主」
「なんですか?」
「さっき俺のことを馬鹿って言わへんかったか?」
「え?」
「俺は大概のことには寛容やけどな、年長者を馬鹿扱いするのは――許せへんことやで」
切れ長の目からの鋭い眼光が飛んでくる。
しばし考えたのち、僕はあっさりと答えた。
「言ってないですよ」
「……ほんまか?」
「多分ですけど聞き間違いじゃないですか?」
「せやろか?」
途端に険しさを失う大阪さんを眺めながら考える。
もしかしたら自然と口から出ていたかもしれない。
だけどよく憶えていないので否定しておこう。どうでも良かった。
「せやろな。せやけど……? うーむ、歳のせいなんやろか」
なおも疑問が残る顔の大阪さん。
そこを押し切るようにして朗らかな笑顔で言った。
「もしかして難聴なんじゃないですか? ほら、モテる人は耳が聞こえにくかったりするじゃないですか」
「なんやと!? モテる男は耳が聞こえにくいんか!?」
凄い食いつき方だ。僕は淡々と説明を続ける。
「天の定めというか、配剤というか、そういうあれこれなんですよ。僕も不思議なんですけど、イケメンにはイケメン属性とでも呼べるものが何故か備わっているものなんです。ほら、僕の学年に賢者王子くんって人がいるじゃないですか。やたらモテてる」
「ああ。やたらモテとるな」
「やっぱり賢者くんも耳が聞こえにくくて悩んでるみたいですよ」
「ほう? そないな話があったんか」
そこで僕はさらりと答えた。
「いや、無いですよ」
「はっ?」
「全部いま思いついた作り話ですし。イケメン属性なんて訳の分からない物が実在するわけないじゃないですか」
きょとんとして、ぽけーっと空を見上げ、しばらくの沈黙を挟んだ後、
「……なんでや!? なんで急に作り話を始めたんや坊主ぅ!? 必然性があらへやろおぉぉ!!」
大阪さんは両手で空中を掻き毟るような仕草をみせると、絶叫を上げた。
「ほんっまに理由が分からへん! このタイミングでする必要あらへんやろ!? 俺はあれやで!? 自分がイケメン属性やー思うてちょっと嬉しくなってしもうてたんやで! その気持ちは一体どこへ行ったらええんやっ!? ちょっと涙出そうになったわ! おいっ! ぬか喜びやないか!」
「せっかく思い付いたんだから……」
「なんや!」
「せっかく思い付いたんだから少しくらい作り話したっていいでしょ!」
「そこで逆ギレやと!?」
なんでやねーん! とツッコミのポーズを決める大阪さんを前にしながら僕は考える。エフスリー、その危険性を。
「聞いとるんか坊主!? 俺のこの無駄に切なくなった気持ちはどないしたらええねん! 気持ちの置き場所が行方知れずなんやでっ!?」
どうやらストリートの連中は自主的に一歩間違うことを望んでいるようだ。こんな遊びに自由に参加できることが果たして利点なのかどうか疑問の残るところだった。
(やっぱりあんまり面白い遊びじゃないかもなぁ……)
エフスリーの真似事に興じた僕は、その結果として身動きも取れないほどの激痛にさらされている。ごろりと大地に寝転びながら回復の時を待っていた。
西の果てから和らいだ光が降り注ぐ。宵闇の迫る空はさっきまでと同じ色で、変わらないその風景が、空が、淡くて深い色が永遠に続くような気さえする。
だけど終りの時はやってくる。止めることは出来ない。
やがて永遠にも思える夜がやってきて僕らは全てを忘れ去るだろう。それでも同じ様に繰り返すのだ。想いは行方知れずとなり、そして――。
「少年、どうして動きを止めたの?」
声が降り注いで来る。見上げると、先輩が僕の顔を覗き込んでいた。
考え事をしている所を呼びかけられた僕は、先輩に生返事を返すことになった。