205日目 揺れる気持ち
「ぐぅ……! ひ、酷い目にあった……!」
荒く息を吐く。
額からポタポタと汗が流れ、僕はそれを無造作に腕で拭った。
「くっ……はぁ……! 結構危なかった、かな? はははっ……」
全力で走ったせいだろう。
顔を紅潮させた風の王が、甘く喘ぐようにして呟く。上体を屈めて休憩のポーズを取る彼女に向かって僕は言った。
「ところで、ここって何処だろう?」
風の王はしばし周りを見渡した後、
「さあ? 知らないかな」
と答えた。
先輩の投げつけて来る謎の物体を避けつつ逃げて来た僕らは、端的に言って道を見失っていた。学園の建物を飛び出し、寮の裏手を駆け抜け、そして木々の生い茂る獣道をひた走り現在に至る。
「でも多分すぐに出れるんじゃない、かな?」
辺りは生い茂った杉の葉や竹の葉で覆い隠されて視界度ゼロだ。だというのに風の王は軽い調子で続ける。
「そんなに広いはずが無い、よね。ただの裏山みたいな所だから――」
「山を……山を舐めるな!」
「へっ?」
キョトンとした表情を浮かべる彼女に、
「簡単にダイジョウブだとか言うなよ! 僕はそんな言葉は認めないぞ! 今まで山で遭難した事があるのかよ!? 遭難して、涙を流しながら帰り道を探した経験はあるのかっ!?」
僕は両手の指を鉤爪のように捻じ曲げ、血を吐くような表情で風の王を詰問する。風の王は「ワケがわからないよ」とでも言いたげな顔で唇を開く。
「遭難? 無い……けど?」
ふと思いついたかのように彼女は言った。
「君はあるの、かな?」
「思い出したくもないよ」
山は深く暗く――そして恐い。
それは無条件の恐怖だ。人が持つ根源的な何かを刺激する。
「あれはそう、ジイちゃんと山に毒キノコを探しに行った時だった。ずんずん前を進むジイちゃんが道を把握していると思い込んでいた僕は、そのまま呆気なく遭難したんだ……! 誰も助けてくれなかった! 自力で脱出ルートを探すしか無かった!」
「それはただ無計画すぎただけ、だよね?」
汗で濡れた前髪を指で弾きながら、半眼になって僕を見てくる風の王。そしてそのまま指を腕ごと真横に伸ばした。指先で何かを指し示したいようだ。
「それに、ほら。あそこを沢が流れている、よね? あれを辿ればいいんじゃないかな」
そう言って彼女はこっちを真っ直ぐに見つめてくる。
ふう、これだから素人さんは……! 僕は少し得意気な気分で口を開いた。
「ははっ。何も知らないなぁ。こういう時に沢を伝うと逆に危険なのさ。崖から落ちたりするからね」
「……あのね? 落ちて危ない崖があるほど高い所に登って無い、よね? ワタシ達は」
「あっ、うん」
確かにそんなに急じゃ無かった気がする。
「さっさと行こうよ? 君もここに居たって困るだけ、だよね?」
「そ、ソウデスネー……」
僕は威風堂々と進む風の王の背中をこそこそと追った。
「知識があっても智恵とは呼べないな。僕もまだまだ未熟という事か」
「何をブツブツ言ってるの、かな」
「立場を保つ秘訣を……いや、ナンデモナイです」
「?」
僕らは沢の横を伝い下りながら学園を目指していた。
先頭を歩くのは風の王だ。それ故か僕は不思議な劣等感を感じていた。
(う~ん、なんだろうこの気持ち)
下克上された気持ちというか。風の王の行動の支配に失敗した僕は、逆に行動を支配されているのだろうか? どうもそんな気がしてならない。
僕はかつて風の王に勝ち、彼女を支配下に置いた。いわゆるヤクザ物でいう所の舎弟にしたワケだけど、その事を深く考えたことは無かった。
だからこうして支配権を奪い返された時、これほどモヤモヤした気分になるとは思いもしなかった。部下だの上司だのの話はただのジョークのつもりだったというのに、だ。
「ままならぬ物だな……」
「だからさっきから後ろで何を呟いているのかな!? 気になるんだけど!」
「あっ、あれ見て。毒キノコじゃない? 凄い体に悪そうな色してるよ。ホラホラ」
「何で毒キノコを探しているのかな!? 今はそういう時じゃない、よね! それに君は前にそれで遭難したん、だよね!?」
反省が無いのかな!? とこちらを振り返って絶叫する風の王に対し、僕は真顔で告げた。
「目の前の出来事にだけに捉われたらダメなのさ。もっと心に余裕を持たないと剣は突き出せない。たとえそれが絶賛遭難中で死ぬ一歩手前の状況でもね」
「別に死ぬような状況でもない、かな」
呆れたように言う風の王。いつもは能面のような笑顔を作り、常に腹に一物を抱えているように見える彼女も、こんな時だけは素直な表情を覗かせた。
汗で濡れた髪が糸を引くように頬に張り付いている。それはどこか彼女を物憂げに見せた。どこか遠いところで鳥が鳴いている。
嘘が女性を美しくするとは誰が言った言葉だろうか? と僕は思った。彼女自身は気付いていないかもしれないけど、風の王の瞳は、その隠された内面を暴きたくなるような妖しげな魅力を放っている。
閉ざされた森の中で僕ら二人しか居ない。他には誰の姿も無く、ただ鳥の鳴き声だけが空をこだました。風の王がこちらを見ている。お互いの目が合う。彼女の瞳の中には僕の姿が映っている。
妖しく色めく風景。揺れる木々のざわめき。そして僕は――、
「それはそうとして、ドタバタしてて長ソバくんドッキリ作戦の詳しい部分をまだ訊いてなかったね。経過報告をお願いできる?」
「ああ。その話、だね」
とりあえず二人きりの時にしか話せない話題を口にした。
学園に居た時も軽く尋ねたけど、詳しい内容はこういう二人っきりの時じゃないと話せない。ドッキリは常に隠密作戦なのだ。
風の王の瞳は再び本心の見えない色になり、そして口を開いた。
「順調、かな」
あっけらかんとした口調でそう告げ、彼女は笑うように続ける。
「君の友達の長ソバって人。けっこう単純、だね? 言われた通りに、適当にラブレターを送っていたんだけど……。三十通くらい送っても疑わないんだね、彼。だから実は一回飽きちゃって、さ」
「飽きた?」
問いかける僕。風の王はクスッと笑うと、
「実際に会って、振ってみたの」
「独断で作戦を終わらされてたッ!?」
僕はその裏切りとも言える行為に愕然とした。
「な、なんで勝手に長ソバくんと会ったの!? それじゃ僕の考えるラブレタードッキリじゃ無くなってるし! しかも振ったってなにさ!? 全部終りだよ!」
なんて事だ……いやでも待てよ、長ソバくんへのドッキリはもう止めるつもりだった。だからこれは渡りに船と言えなくも無い。
結果オーライってやつか? そうだよ、逆にラッキーってやつだよ!
そんな風に心象を逆転させていると、まだ僕に説明することがあるのだろうか、風の王の言葉が耳に聞こえてきた。
「でも彼って面白いんだね。振った後にさ、ワタシ、またラブレターを送ってみたんだよ。何と言っても君からの命令もあるしね?」
「うん、その僕からの命令ってやつを一回台無しにしてるよね? まあいいけどさ」
「話はここから、だよ」
匂いすら漂いそうなほど艶然とした笑みを浮かべた風の王は、小学生が道端でヘラクレスオオカブトを見つけた時のような得意気な調子で言う。
「彼……あだ名、なんて言ったかな? そうそう、長ソバって人。またワタシにあっさり騙されてくれたよ。一度振ってるのに、ね。本当、面白い人だね」
「はっ?」
風の王の告げた言葉の意味が理解できず、僕は間抜けな顔で訊き返した。