204日目 大丈夫、かな
「せ、説得力はあるわね……!」
少し頬を引き攣らせながら納得するゴンさん。
しばらく考え込んだ後、
「じゃあこれからあたし達はババアの恋路を応援するわよ! 異論は無い!?」
教室の皆に向かって言う。
反論は無かった。
「よし、解散!」
ゴンさんからの号令が下り、ほっとした雰囲気がクラスに満ちた。
ガタガタと机が元の位置に戻されていく。昼休みの時間はもうかなり終わっていた。
なのでこれから急いでご飯を食べなければならない。まあ昼休みの後にちょっとした休憩時間もあるので、さほど余裕が無いわけじゃないけど。
「さてと……そろそろ行くか」
僕は意味も無く指をポキポキ鳴らして言った。
恐らくは今日も先輩達が待つあの部屋へ。
ふと壁の向こうに視線を向けてから、ゆっくりと歩き出した。
ドアを開けると同時に僕は叫んだ。
「御用だ! 御用だ!」
「なぬ!? 見つかった! 者共、出会え、出会えー!」
「今日はやけに遅かった、かな」
ノリノリで応えてくれる先輩。
風の王は素知らぬ顔で疑問だけをぶつけてくる。愛が無い。
「何が御用なのよ? 貴方の行動は相変わらず理解出来ないわ」
後ろに立つ冷蔵子さんに至ってはバッサリと斬り捨ててくるスタイルだ。
いつまでも扉の前に突っ立っていてもしょうが無いので部屋の中へと進んだ。
「急に緊急クラス会議があったんですよ」
イスに座る前にそう告げる。
冷蔵子さんは僕に続くようにして適当なイスに座ると、
「全く……足が痛いっていうのに無駄な時間を過ごしたわ」
とぼやいた。
よく観察してみると彼女の足は今も生まれたての子ヤギのように震えている。
「あらら、惰弱だな」
「何かしら?」
本当に聞こえていなかったのだろう、冷蔵子さんは何の色も無い目で僕を見る。正直に答えると抹殺されそうなので曖昧に誤魔化すことにした。
「いやぁ実に無駄な時間だったね。長ソバくんのせいで話が脱線するし」
「あら? でも彼のお陰で見えて来たものもあるんじゃないかしら」
冷蔵子さんは微笑むように反論してくる。
どうやら僕の言葉を否定するのが楽しくて仕方無いようだ。
「情報は繋がり合って初めて価値があるものになるのよ。複数の意見を交わすことはそれだけで意味があるわ。決して無駄では無いかしら」
い、言ってることがさっきと逆じゃないか……!?
このサディストめ、と心の中で呟きながら言葉を返す。
「君だって無駄な時間だって言わなかったっけ?」
「ふふん、私と貴方では観点が違うのよ」
やけに嬉しそうに語る冷蔵子さんに、僕は「さいですか」と答えた。ここに来る前に購買で適当に買ったパンを机の上に置く。風の王がいつものわざとらしい笑顔で口を開いた。
「それで何のクラス会議だったんだい? 話が見えないから教えて欲しい、かな」
「それを教えるのはやぶさかじゃ無いけど……今はヒマラヤが先かな」
「はっ? ヒマラヤ?」
何のことか分からない、とばかりに風の王はキョトンとした表情を浮かべる。
そんな彼女をよそに僕はいそいそと手元のパンの包みを開いた。
「ちょっと待って欲しいかな。ヒマラヤって何なのかそれこそ説明を――ってもう聞いて無いかな!?」
風の王には悪いが時間が無いのだ。僕は飢えたハイエナのようにカレーパンを喉に押し込んでいた。よし、これで用は済んだ。後は風の王の疑問に答えるだけだ。
「ふがふがっが、ふががが。ふがっが?」
「口にパンを突っ込んだ状態で!? それじゃ聞き取れないかなっ!?」
むう、やはり無理だったか。
もしやと思って挑戦してみたけど食事と会話を同時に行うのはやはり不可能のようだ。
「もう。行儀が悪いよ! 少年」
先輩にだけは言われたくないなぁ……。
「ヒマラヤって今食べてるパンのことかな? でも何でそんな呼び方を……」
「それって別に気にするような事じゃあ無いでしょう?」
「そ、そう? かな?」
冷蔵子さんと風の王のやり取りを僕は冷めた目で見ていた。
観察していたとも言う。もっと言えば食事もしていた。
口の中にあるペースト状のカレーを飲み下す。
ヒマラヤなんて一ミリも連想しないその味を胸に、僕はそっと口を開く。
「ところで質問があるんだけど」
「うん? わたしにかい?」
きょとんとする風の王に対しそのまま言葉を続ける。
「例の作戦はどうなってるの?」
「例の作戦? ああ……」
風の王はようやく僕の部下という立場を思い出したのか、思い出してそれかよという反逆の気運を感じさせる種類の不敵な笑みを湛えて、
「ばっちり進んでいる、かな」
自らの手腕を誇るような口調で言い切った。
例の作戦とは長ソバくんへのドッキリ作戦に他ならない。
「手段に関しては細かいことまで指示してないけど……どんな感じ?」
「気になるのかな?」
そこで風の王は笑顔の形を変えた。
歯向かうことに悦びを見出すような笑みから一転、こちらをからかうような瞳になる。
「わたしがターゲットにどう接しているのか気になる? ふふっ、それはどんな意味で心配しているの、かな?」
立ち上がり、つかつかと僕の前まで歩み寄ると、風の王はそのままこちらを見下ろした。
イスに座った状態の僕は必然的に彼女を見上げる形になる。
「大丈夫だよ」
風の王は唐突にそんな事を口にしたかと思うと、これまた唐突に右手を伸ばしてきた。
彼女の妙に白い手が僕の頬を撫でる。何故かクモに捕食される昆虫の気分になった。
「君の心配するようなことは無い、から」
ちょっと話が見えないんだけど……と風の王に向かって言い掛けた時、先輩から声をかけられた。
「少年、少年」
「なんですか?」
「野球しようぜ……!」
「ちょ……!? どうしていきなり全力投球のフォームなんですか!? こっちはバットすら用意できてないですよ!? 無茶です!」
打てるわけが無い。そして先輩は僕に向かって何を投げる気なんだろう?
瞳に闘志を燃やす先輩から逃れるように顔を背けると、そこには極寒の地が待っていた。
「……いいからさっさと三振になりなさいよ」
冷蔵子さんが先輩に対して妙な同調をみせている。
この理不尽な野球勝負が民意に肯定されつつあった。
「おやおや。怖い、怖い」
セリフとは裏腹に風の王は状況を愉しんでいるようだ。
その証拠に声が笑っていた。この娘を部下にしたのは間違いだったかもしれない。
「さあ、ピッチャー振りかぶりました……!」
「先輩! ちょっと待って! せめて何を投げるのかだけでも教えて下さい! それは素手で打ち返せる物ですか!?」
「大丈夫よ。多分。貴方は死なないかしら」
「なんか凄い投げやりに安全を保障された!?」
机に頬をついて明後日の方向を見ながら言う冷蔵子さんに向かって叫ぶ。
流れがさっぱり分からないけど、刻一刻と状況が悪化しているのだけは感じた。
「大丈夫、かな」
風の王は僕の肩に手を置いてきた。
さっきまでとはまた異なる種類の笑みを浮かべながら、実に楽しげな声を上げる。
「わたし達二人ならきっと切り抜けられる」
そう言って風の王はクスッと笑う。
その表情はしなやかで、伸びやかで……。
そして確実に僕を危険の淵へと引きずり込む存在だった。