194日目 地球衝
「私は貴方のマッサージをしてあげたことがあったのだけれど? だからその逆を期待してもおかしく無いでしょう?」
「いわゆるフィフティ・フィフティってやつか」
贈り物にはお返しを。まあそれなら分かる。マフィアの世界でも常識だ。
などと考えつつ、至近距離から冷蔵子さんの青い瞳を見つめながら僕は口を開いた。
「それなら僕が君の足を踏んでもいいよね? 理論的に言って」
「ダメよ。それは許可されないわ」
「何故に?」
短く呟く冷蔵子さんに対し、僕もまた短く返す。
教室の窓の向こうには褪めた青空が広がり、そんな色を帯びたかのような風が僕らの間を通り抜けて行った。
「理由は三つあるかしら」
「なんと」
三つもあるなんて驚きだな、とぼやく僕。
冷蔵子さんはこちらの目を覗き込むようにして、
「ふふん、甘く見ないことね」
と言った。まるで空の青さを閉じ込めたような碧い瞳が正面にある。
瞳の表面は丸く、映る世界は円形に湾曲していた。ふと魚眼レンズなるものを思い出す。
(目って案外丸いんだなぁ。そうか球体なんだ)
眼球とはよく言ったものだ。こうしてじっくり彼女の目を観察すると確かに球体だと分かる。地球も、それを取り巻く大気も一つの球だった。何故かそんなことを思う。
球の果てから風は今も吹いている。それはどこか心地良い。
少しだけ冷たい空気の匂いがして、なんだか何もかも後回しにしたい気分だ。
全てを手放そう。このまま目を閉じてしまってもいいような、そんな気さえする。
しかしそんな事は出来ない。今も冷蔵子さんとの会話が続いているのだから。
果たして彼女はどんな言い訳をするのだろう――
どこか投げやりな気持ちを抱きつつ僕は鷹揚に口を開いた。
「意外と多いね、理由」
教室には青い影が広がっていた。ガラスは間の抜けた陽光を反射し、きらめき、影の中に幾重もの光の漣を描いた。
「ぜひともその三つの理由を詳しく教えて欲しいんだけど」
「あら? それは教えられないわよ」
「なんで?」
冷蔵子さんは薄く微笑んだ。束ねられた金色の髪が肩にかかっている。細く華奢な輪郭が、彼女が女の子であるという特徴を強調しているようだった。
「女の子にはね、男の子には言えないことがあるのよ」
「そう来たか……!」
秘密なら仕方が無い。たとえそれが適当な嘘であったとしても追及できないのだ。
女子の秘密を尋ねる事は野暮なことだった。
秘密と言われたらそこで手打ちだ。潔くこちらが折れるしか無かった。
なんていう風に色々な事柄を諦めていると、後ろから肩をガシッと掴まれた。
「ちょっとこっちに来てくれないかい?」
腕の主は誰だろう? 振り返るとそこには賢者くんが居た。
いや、今やただの賢者くんでは無い。
正式なあだ名は変更され、今や賢王モテモテ・スパサラダ・スペシャル……なんだったっけ?
もうなんでもいいや。全部言うのは面倒くさいんで略してしまおう。
「なに? スパサラダ弁当くん」
「スパサラダ弁当?」
不思議そうな表情を浮かべる賢王モテモテ・スパサラダ王子くん。
僕は即座に言い間違いに気付いた。
「ごめん似てるから言い間違えた! それでスパサラダ王子くん、なんか用?」
「用って言うか……スパサラダ王子!?」
ギョッと目を見開いた後、賢者くんは引き攣った笑顔で尋ねてきた。
「それってオレのあだ名かい!? また新しいあだ名が……!?」
「えっ? 新しいっていうか、さっきも呼ばれてたじゃん。スパサラダ王子って。みんなから」
「いやいやいや!?」
右手で口元を抑えると、賢者くんは視線を斜め下に落とした。
しばし何事かを考え込んだ後、床を見つめたままの姿勢で呟く。
「……本当に皆がそう呼んでいたのかい?」
「本当、本当。確かに誰かがそう呼んでたよ。じゃなきゃ僕もスパサラダ王子なんてあだ名で呼ばないって」
あっさりと答える僕だったが、実のところ記憶は曖昧だった。
誰が言っていたのかまでは憶えていない。いや確かにそう言った誰かがいるはずなんだ。
じゃなきゃスパサラダなんて単語を思い浮かべるはずがない。きっとそうだよ。
「みんなオレの事をどういう風に呼びたいんだろう?」
「人気者の辛いところだね」
ガックリと肩を落とす賢者くん。いや正式には賢王モテモテなんとかスパサラダ王子くんだ。はっきり言って全部は憶え切れない。
「えーと、スパサラダ、海鮮サラダ、シーザーサラダ……。シーザー王子ってのはどう?」
「これ以上増やしてどうする気だい!?」
「え? いや、良かれと思って。マカロニ王子の方がよかった?」
「……どうやら君とオレは争い合う運命にあるようだね」
何故か賢者くんは険しい視線を向けてくる。
そりゃあ確かに僕らはフレンドリーな関係とは言い難い。でも、
「そんな言い方は無いじゃないか!」
言葉と共に僕は瞳に力を込めた。
「せっかくカッコいい方で呼んであげたのに! さすがに海鮮王子ってのは避けたじゃん! 優しさを踏みにじられた気分だ!」
「それが君の優しさかいッ!?」
本気で驚いたように叫ぶ賢者くん。
「だいたいオレは王子って呼ばれたいワケじゃ……!」
「そうよハニカミ様よ!」
「さあさあ! ハニカミ・スペクトル・スペシャルフォース様にひれ伏しなさい!」
「頼むからハニカミ様ってあだ名も止めてくれないかい!?」
教室の隅に集まって僕に抗議を飛ばす女子達。賢者くんは今度はそちらの方を向いて大声を上げた。
大変だなーと他人事のように見ていると、長ソバくんの姿が見えた。なにかの機を窺っているんだろうか? やがて賢者くんのセリフに同調するようにして言った。
「じゃあやっぱり賢者モテモテ様だぜ!」
ああそうか、会話に混ざるきっかけを探していたのか。
賢者くんを中心とする集団は、長ソバくんの勢いに気おされて一瞬押し黙る。
そしてすぐさま堰を切ったように喋り出した。
「長ソバのくせに何なのよ!」
「イカメンは黙ってなさい!」
「そうよ黙りなさいよ! イカみたいな顔して!」
「イカみたいな顔!? それはいくら何でも酷いぜ!?」
即座に迎撃される長ソバくん。さらに言葉の集中砲火を続ける女子達を鎮めるために賢者くんは慌てて間に入っていった。
結局……賢者くんは僕に何が言いたかったんだろう? 分からないままに状況だけが変わって行く。僕の力では、流れ行く動乱の時を押し留めることは出来なかった。
話しかけられた理由を得られぬまま。いまも見えないそれは心を苦しくさせる。両肩に何か重いものを背負ったような気分で僕は口を開く。
「それで……」
比喩では無く実際にズシリと肩にかかる重み。
唐突に背後から体重をかけてくる冷蔵子さんに向かって言った。
「何故に僕の背中におぶさってくるんだろう? 意味が分からないんだけど」
「分からないかしら?」
「うん。せめてヒントをくれない?」
正直に答える。すると彼女は耳元で囁くように言う。
「廻り地蔵という風習があるわ」
「廻り地蔵?」
「お地蔵様を背負って運ぶのよ。そして集落それぞれの家で拝むのね。どういう経緯で始まったのかは諸説あるのだけれど、元々お地蔵様には色々な所を巡るという逸話があるのよ」
「へえ。それはどんな話なの?」
気軽に訊き返すと、冷蔵子さんは僕の背中にくっついたまま考え込んだ。首筋に当たる髪の毛がくすぐったい。ふーむと一言呟いた後、お地蔵様は一般的に地蔵菩薩さまと同一視されるわ、と語った。
「地蔵菩薩さまは自らの意志で地獄に落ちたの。嘆き悲しむ魂を救うために、極楽に座すのでは無く行脚する道を選ばれたのね」
「ふーん……」
わざわざ地獄に落ちるなんて難儀な人だな。あえて痛み多き道を歩くような。あるいはそういう気まぐれな人が居なければ、救われない人も居るのかもしれない。
「で、それは君が僕に圧し掛かってくる事とどういう関係があるの?」
「関係?」
冷蔵子さんは先ほどと同じような仕草で短く考え込んだ後、
「特に無いかしら?」
「じゃあ何でお地蔵さんの話をしたのさッ!?」
「ただの雑談だけれど?」
しれっと答える彼女。その声に戸惑いの色は無い。
いやちょっと待って!? 反応が間違ってるのは僕の方なの!?
会話のキャッチボールとは何だろうか?
遠大な問いに思いを馳せかけた時、僕らに向かって怒声が飛んで来た。